政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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57歳で初当選、岸内閣の官房長官に 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/8/19 7:00
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椎名は昭和28年4月の総選挙に「今回は旗を立てるのが目的だから」と勝敗を度外視して無所属で岩手県第2区に出馬した。地盤も看板もない苦しい選挙だった。結果は定員4人で左社の北山が6万票余りで1位、2位が自由党の高田、3位が改進党の志賀、4位が自由党の小沢で4万6451票。次点は自由党の浅利で4万3696票。椎名の得票は1万2823票で泡沫候補並の惨敗であった。椎名陣営は選挙の素人が多く、選挙違反容疑で椎名も警察から追及されたが、逃げ切って不起訴になった。

昭和29年に入ると政局は激しく動いた。11月に鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成され、自由党の岸信介は民主党結成に参加して幹事長になり、一気に政界の中枢に躍り出た。吉田自由党内閣は総辞職に追い込まれ、同年末には鳩山民主党総裁が左右社会党の協力を得て首相に指名された。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月に衆議院を解散した。鳩山民主党の選挙の指揮をとったのは岸幹事長である。椎名は民主党公認候補となり、岸幹事長の物心両面にわたるテコ入れを受けた。

民主党は「鳩山ブーム」に乗って勢いがあった。椎名の岩手県第2区の地盤は弱かったが、与党の公認候補だったので資金も豊富に集まり、鳩山ブームにも乗ってこの選挙で最下位当選に滑り込んだ。自由党の小沢がトップで2位が民主党の志賀、3位が左社の北山で民主党の椎名は4位。次点の自由党の高田との差はわずか1500票だった。57歳の初当選は政治家としては異例の遅咲きである。

■当選2回生の「大物官房長官」

椎名が初当選した年の11月に民主党と自由党が合同して自由民主党が発足した。岸は引き続き幹事長となり、政権党の中枢を担った。保守合同後、椎名は緒方竹虎の人物と清廉さに注目して兄貴分の岸幹事長に「緒方さんに全面的に協力した方がいい」と進言したが、緒方は昭和31年1月に急死した。椎名は後に「緒方さんが生きていたら、その後の日本の政治はだいぶ変わっていただろう」と述べている。

ワシントンで改定安保条約に調印し、帰国した羽田空港で声明を読み上げる岸信介首相。後列左が椎名悦三郎官房長官=毎日新聞社提供

ワシントンで改定安保条約に調印し、帰国した羽田空港で声明を読み上げる岸信介首相。後列左が椎名悦三郎官房長官=毎日新聞社提供

岸幹事長はポスト鳩山を争う昭和31年末の総裁選に出馬し、決選投票で石橋湛山に僅差で敗れた。しかし、石橋首相は昭和32年2月、病気で退陣し、岸が後継首相・総裁になった。岸政権下で椎名は自民党経理局長になった。岸派の代貸しである川島正次郎幹事長から「君は経済界に一応の信用がある。それを正当に行使してもらえれば、それでいいのだ。オレのたっての頼みだ」と言われて引き受けた。政治資金を担当する経団連副会長は商工省の先輩である植村甲午郎だった。日本経済が急ピッチで拡大していたこともあり、椎名が経理局長になって財界から自民党への献金は2億円から10億円に拡大したといわれた。

1958年(昭和33年)の総選挙は自民党と社会党の二大政党による初めての選挙だった。自民党は豊富な資金を背景に選挙で圧勝した。岩手県第2区では自民党が小沢佐重喜、志賀健次郎、椎名の3人を、社会党が北山愛郎と千葉七郎の2人を公認して定員4人を5人が争った。当選は小沢、志賀、北山、椎名の順でまたしても最下位当選だった。昭和34年6月の内閣改造でそれまで岸内閣を支えてきた河野一郎が一転して反主流派に回り、反主流派の急先鋒だった池田勇人が通産大臣として入閣して主流派になった。

この改造で椎名は当選2回生ながら国務大臣内閣官房長官に抜てきされた。安保改定を翌年に控え、岸首相との信頼関係が深く、ハラが座ってものに動じない椎名が適任と判断された。岸派の代貸しである川島幹事長も椎名を強く推した。

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