2019年8月21日(水)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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57歳で初当選、岸内閣の官房長官に 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/8/19 7:00
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ところが、昭和24年のドッジラインの実施で復興金融公庫の融資が打ち切られ、椎名は銀行や友人・知人を駆け回って融資や出資をかき集めた。昭和25年の朝鮮戦争の特需で繊維業界は沸き返ったが、東北毛織はこの波に乗り遅れた。ようやく生産された梳毛製品は技術水準が十分でなく品質が伴わなかった。朝鮮特需の反動で不況になると東北毛織の資金繰りは一気に悪化した。手形の決済期限が迫る度に銀行を必死になって駆けずり回る日々が続いた。

■公認得られず初陣は惨敗

椎名悦三郎(左)の選挙応援に訪れた川島正次郎(選挙カー前)

椎名悦三郎(左)の選挙応援に訪れた川島正次郎(選挙カー前)

1951年(昭和26年)6月、椎名は公職追放解除になった。多くの戦前派の政党人や大物官僚が政界入りをめざして動き始めていたが、椎名はそれどころではなかった。会社の危機を回避するため銀行、日銀、通産省などを走り回ったが、ついに万策尽きて昭和27年5月、東北毛織は会社整理法の適用を受けて経営破綻し、椎名は同年7月に社長を辞任した。その直後に心労から体調を崩して病床に伏すことになった。東北毛織はその後呉羽紡に吸収された。同年8月、吉田茂首相は抜き打ち解散を断行して10月に総選挙が行われたが、椎名は立候補さえできなかった。

椎名は終戦直後からいずれは政界で働きたいという思いを胸に秘めていた。日本の惨めな敗戦に道義的責任を感じ、反省もしたが、同時にそれまでの行政経験を生かして日本の復興・再建に何としても貢献したいとの思いが強かった。企業経営に失敗して昭和27年の総選挙には出られなかったが、次こそはと心中期すものがあった。そのチャンスは意外に早く訪れた。昭和28年3月のバカヤロー解散である。椎名は全く選挙の準備ができていなかったが、とりあえず兄貴分の岸信介に出馬を相談した。

公職追放解除になった岸は前年の総選挙で「日本再建連盟」という政治団体を率いて戦ったが、惨敗を喫した。傷心を癒す欧州旅行中に実弟の佐藤栄作自由党幹事長からの電報でバカヤロー解散を知り、急拠帰国して佐藤幹事長の計らいで自由党公認を得て山口県第2区から出馬した。自分の選挙で手いっぱいだった岸は椎名に「佐藤に相談してみろ」とアドバイスした。椎名は佐藤幹事長と会って自由党の公認を申請したが、佐藤は「小沢君に話してみてくれ」と素っ気ない対応だった。当時の自由党の選挙対策責任者は椎名と同じ水沢出身の小沢佐重喜であった。

小沢は水沢の貧農の出身で筆舌に尽くしがたい苦学力行を重ねて弁護士となり、戦前の東京市会議員を経て戦後第1回の総選挙で当選し、水沢に盤石の地盤を形成して連続当選を重ねていた。吉田首相に重用され、すでに運輸大臣、郵政大臣と閣僚を2回も経験していた。その小沢が同じ水沢出身の椎名を公認するはずがなかった。小沢は「無理だからやめろ。とても公認はできない」と言った。岩手県第2区は小沢のほか、現職の浅利三郎、元職の高田弥市の3人の自由党公認が決まっていた。改進党からは椎名が中学時代に書生として世話になった志賀和多利の甥に当たる志賀健次郎が一関を地盤に当選を重ねていた。左派社会党の北山愛郎も労組の固い支持があった。

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