2019年1月21日(月)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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57歳で初当選、岸内閣の官房長官に 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/8/19 7:00
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1945年(昭和20年)8月15日、椎名悦三郎は軍需次官として終戦を迎えた。「敗戦と同時に一も二もなく辞めるつもりだった。次官として相当の責任を負ってやってきたのだし、責任の上でもやる気という点でも、もう即座に辞任する以外にないという心境だった」が、東久邇宮内閣の軍需大臣になった中島知久平から「辞めるのは軍需省を平時体制に戻してからにしてくれ」と強く押しとどめられた。

■公職追放、企業経営に失敗

1945年(昭和20年)8月
軍需省廃止、再び商工次官に
同年10月
商工次官を退官
1947年(昭和22年)8月
公職追放の仮指定
同年11月
東北振興繊維工業(東北毛織)株式会社取締役社長に
1951年(昭和26年)6月
公職追放解除
1952年(昭和27年)7月
東北毛織社長を辞任
1953年(昭和28年)4月
総選挙で岩手2区に出馬し落選
1955年(昭和30年)2月
岩手2区から民主党公認で初当選
同年11月
保守合同、自民党結成に参加
1957年(昭和32年)7月
岸内閣で自民党経理局長
1959年(昭和34年)6月
岸内閣の国務大臣内閣官房長官
1960年(昭和35年)1月
岸首相訪米に同行、安保条約調印
同年7月
岸内閣総辞職

8月26日、軍需省は廃止されて商工省が復活し、椎名は中島商工大臣の下で再度商工次官になった。軍需省に在籍していたすべての軍人を整理し、戦後の経済再建に当たる新しい商工省の組織作りと人員配置に取り組んだ。こうした仕事も一段落したので東久邇宮内閣の退陣に合わせて10月12日に商工次官を辞任して官界から身を引いた。A級戦犯容疑者の逮捕が続々と始まり、椎名の兄貴分だった岸信介もA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に逮捕・収容された。

椎名は逮捕されなかったが、「軍部の走狗」と見られても仕方がないという自覚と反省はあった。当時、自宅のあった鎌倉から電車で東京に出て友人・知人と会って情報交換を行い、夜は料理屋で酒を飲む日々が続いた。仕事もなく肩身は狭かったが、商工省の後輩の世話や親しかった経済人からの援助などもあり、経済的には比較的恵まれた境遇にあった。岳父の世話で東京・銀座の一角に事務所も構えた。この間、久しぶりに水沢に帰省し、夫人の実家がある神戸・大阪にも旅行した。巣鴨にいる岸信介には衣料などをこまめに差し入れた。

椎名も米国人検事からしばしば取り調べを受けた。主として岸の満州国時代の行動を聞かれたが、椎名は岸に不利な証言は一切しなかった。椎名は1947年(昭和22年)11月、正式に公職追放になった。岸信介は昭和23年12月、不起訴処分となって巣鴨拘置所から釈放され公職追放になった。公職追放といっても民間会社の社長になることは制限されなかった。

椎名悦三郎は昭和22年11月、郷里の人々の強い要請を受けて盛岡市に本社がある東北振興繊維工業株式会社の取締役社長に就任した。この会社は戦前、東北救済のために設立された国策会社・東北興業株式会社の衣料生産部門の子会社で、戦時中は陸軍の監督工場となり軍服や毛布などを生産していた。戦災を免れて主力の盛岡工場や山形工場は機械、設備とも健在で原材料の在庫も豊富にある恵まれた会社であった。翌年3月には東北毛織株式会社に社名を変更した。

会社の関係者は椎名に東京での顔を生かして融資や許認可で動いてくれればいい、あとは社長のイスに黙って座っているだけでいいと考えていた。しかし、椎名は社長になる以上はこの会社を一流の繊維会社にしようと考え、繊維工業の先進県である滋賀県や愛知県の工場を見て回り研究を重ねた。東北毛織は紡毛の設備しかなかったが、椎名は一流の繊維会社になるためには梳毛工場を造って洋服地やワイシャツ地も製品化する必要があると判断した。大東紡の東京・金町工場を買収し、梳毛の機械を買い入れて新たな技術者を雇い入れた。膨大な設備資金を必要としたが、復興金融公庫の融資をあてにしていた。

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