2019年2月19日(火)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

フォローする

岸信介とコンビ、戦時統制経済を担う 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(2)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(2/4ページ)
2012/8/12 7:00
保存
共有
印刷
その他

そこで水野と南は椎名総務局長宅に押しかけ「商工省はけしからん」とこわ談判に及んだ。椎名もこの会社が真に国策遂行に必要なものとは思えなかったし、商工大臣は王子製紙社長だった藤原銀次郎だったので設立は無理だと2人を押し返した。後でいろいろな人の意見を聞くと、共産党転向者を活用するのは社会的にも有意義であるとの指摘もあり、この2人の背後には陸軍の岩畔豪雄中将がいることもわかった。椎名は2人を呼び、戦時下で新会社設立は難しいが、陸軍の正式な推薦状があれば許可が出るかも知れない、新会社の再生紙はもっぱら中国大陸における宣撫工作に充てるようにする、などと知恵をつけた。

商工省時代の椎名悦三郎

商工省時代の椎名悦三郎

こうして設立されたのが「国策パルプ」である。水野は社長に日清紡社長の宮島清次郎を担ぎ出した。戦後、水野は国策パルプの社長となり、宮島の推薦で財界活動に入り、小林中、永野重雄、桜田武と並んで「財界四天王」と呼ばれるようになった。また産経新聞社長、フジテレビ社長なども歴任し、戦後、椎名が政界に入ると有力なスポンサーになった。

総務局長時代、椎名は読売新聞社長の正力松太郎に呼び出された。昭和天皇が摂政時代に狙撃された虎ノ門事件でエリート警察官僚の座を失った正力は読売新聞買収にあたって後藤新平から10万円のカネを出してもらった経緯があった。いまや、読売を朝日、毎日と並ぶ大新聞に育て上げた正力は「後藤伯の恩に報いるため、故郷の水沢に後藤伯を記念した公会堂を建てたい。知恵を貸してほしい」と椎名に頼み込んだ。戦時下では公会堂、劇場、旅館などの新築は認められなかった。

椎名は「錬成道場という名目なら許可が出るのでは」と提案したが、正力は「そんな軍部にこびを売るような名前なら後藤伯に申し訳がない」と難色を示した。そこで椎名は「それなら公民館というのはどうか」と知恵を出すと正力も深くうなずいた。これならどこからも文句は出ない。昭和16年11月、正力が建設費15万円、維持費5万円を寄付して水沢町に「後藤伯記念水沢公民館」が竣工し、その式典に正力も椎名も出席した。これが日本における最初の公民館である。

商工省と農林省はもともとは同じ役所であり、分離してからも縄張り関係は複雑だった。農産物の小麦は農林省の所管だったが、製品としての小麦粉は商工省の所管であり、化学肥料は農林省の所管で、原料の硫酸やアンモニアは商工省所管という具合だった。このような複雑な所管関係では戦時下の増産や生産合理化も困難であった。そこで椎名総務局長は農商務省同期入省の重政誠之農政局長と極秘裏に折衝して縄張りの調整案をまとめ上げた。

農産物を原料とする食料品は基本的に農林省所管とし、化学肥料は生産は商工省、流通は農林省に整理した。商工省が大幅に譲歩した内容だったが、藤原大臣、岸次官の了承をとって省内の反対を押し切った。戦時下の圧力があったとは言え、難題を素早く処理した椎名の手腕は高く評価され、仕事師の一面をのぞかせた。

  • 前へ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 次へ
保存
共有
印刷
その他

関連企業・業界 日経会社情報DIGITAL

電子版トップ

電子版トップ連載トップ


日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報