政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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岸信介とコンビ、戦時統制経済を担う 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(2)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/8/12 7:00
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椎名悦三郎は1939年(昭和14年)4月、6年ぶりに商工省に復帰し、臨時物資調整局第五部長となった。日中戦争の拡大で国内も戦時色が強まり、前年には第1次近衛文麿内閣の下で国家総動員法が成立していた。臨時物資調整局は国家総動員法に基づき国策に必要な物資の統制調達を担う部局で第五部は化学製品を担当していた。

■商工省の中枢に躍り出る

満州から帰国し、郷里の岩手・水沢で両親らと。前列左から父・後藤広、母・キヨ。後列左から長兄・幹夫、椎名悦三郎、弟・四郎、弟・五郎

満州から帰国し、郷里の岩手・水沢で両親らと。前列左から父・後藤広、母・キヨ。後列左から長兄・幹夫、椎名悦三郎、弟・四郎、弟・五郎

満州で実績を挙げた椎名は一気に出世コースに駆け上った。ヒラの事務官だったころの椎名は大酒飲みで遊び人、腰が重くて使いづらいという評価があったが、満州国で課長や局長に相当するポストを経験して評価は一変した。大局的な判断力があり、人使いもうまく、他省庁との折衝も粘り強いと評価された。軍部の受けがよかったこともプラスであった。同年6月、商工省は戦時体制に対応して物資別に部局が再編され、鉱産局、鉄鋼局、化学局、機械局、繊維局のほか、外局として燃料局などが設置され、その総合調整にあたる総務局が設けられた。椎名は総務局総務課長になり、商工省の中枢ポストに躍り出た。

総務局には総務課のほかに、軍部と折衝して民需と軍需の振り分けを行う物資調整課と国策に沿った真に生産的な企業・産業を国家資金を投入して育成する生産拡充課があった。総務課は商工省全体の調整にあたるポストであった。時の商工大臣は海軍造兵中将から満鉄理事などを歴任した伍堂卓雄、次官は村瀬直養だったが、村瀬次官は昔気質の頑固な官僚で軍部との折り合いが悪かった。軍部から満州国産業部次長の岸信介を次官として戻すよう強い要望があった。椎名総務課長も伍堂大臣に岸次官が適任であると進言した。村瀬次官の反対を押し切って昭和14年10月、岸信介が次官として商工省に復帰した。これとほぼ同時に椎名は総務局長心得に昇進した。

「心得」がついたのは椎名の年次がまだ若く、勅任官になっていなかったからである。椎名は多くの先輩を追い抜いて商工省の事実上の筆頭局長になり、岸次官とのコンビで戦時経済統制の推進を担った。戦時経済統制は企画院が企画立案を担当し、商工省は実施本部の役割を担当して協力した。企画院には軍部をはじめ各省庁からの出向者が集まり、その主導権は軍部が掌握した。昭和15年12月、椎名は「心得」が取れて正式な総務局長に就任した。

椎名は総務局長時代に水野成夫(後に国策パルプ社長、フジテレビ社長)と南喜一(後にヤクルト本社社長)の2人と知り合った。この2人は元共産党員で3.15事件で検挙された後に転向し、陸軍の嘱託のような形で中国大陸で宣撫(せんぶ)工作に当たっていた。たまたま南が酵母を使って新聞紙のインクを消して再生紙を作ることを発明し、商工省に再生紙の新会社設立を申請したが、技術的にも怪しい点があり、製紙業界は王子製紙を中心に国内的には十分な供給力があったので商工省は設立を許可しなかった。

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