日米外交60年の瞬間 第4部

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グロムイコ暗殺計画が発覚 帰ってきた日本(11)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/11/17 7:00
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1951年9月の日本を取り巻く客観情勢は複雑だった。サンフランシスコからもたらされる講和、独立のニュースには明るさがあったが、ほかならぬ東京発のニュースにはそれを打ち消す趣があった。

■リッジウェー司令官が休戦会議場も変更提案

東京にある総司令部(GHQ)発のニュースであり、朝鮮の戦況にかかわる中身だった。国連軍総司令官を兼ねるリッジウェー総司令官は9月6日12時半、ラジオを通じ、北朝鮮と中共(中国)に向けた声明を発表した。

1951年
  12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
   1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
   2月15日第1次日韓正式会談始まる
   2月28日日米行政協定に署名
   4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
   1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
   10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
  12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

この物語でも既に何度か触れた休戦会議の場所の変更に関する内容だった。共産側が8月23日に表明した休戦会談の打ち切り提案に対するリッジウェーの回答である。

開城(ケソン)での会談を続ければ、休戦会議をさらに紛糾させるとし、共産側が打ち切りを撤回するよう求め、新しい会議場所を考えるとの逆提案である。交渉が行き詰まった時に間合いを置く狙いだった。

リッジウェーがケソンでの会議では紛糾が深まると考えたのは、ケソンが共産側の支配下にあったためだった。国連軍側の交渉者にとって何かと不便であり、交渉を進めるうえでも不利との判断だったようだ。

事実、リッジウェーにとって朝鮮の戦況は厳しかった。ソウルの北にある漣川(ヨンチョン)で共産側は6日、戦車も動員した奇襲作戦をかけた。漣川の国連軍は脱出作戦をとらざるを得なかった。

休戦会議どころではなかった。

朝鮮戦争で廃墟となったソウル市街=朝日新聞社提供

朝鮮戦争で廃墟となったソウル市街=朝日新聞社提供

ケソンに代わる場所として当時とりざたされたのは、香港、マカオ、ソウルなどだった。ソウルは当時、国連軍側が支配しており、香港は英領、マカオはポルトガル領だった。

ことは簡単ではなかった。候補地のひとつソウルですら、国連軍が安定的に支配できると確信できる場所ではなかった。結局、休戦会議の場所が移ることはなかった。

国連軍側にとって有利な場所は、共産側には不利と映る。逆に、共産側にとって有利な場所は国連軍側には不利となる。当時のケソンは後者だった。

■モスクワに遠いサンフランシスコ

交渉における場所の選定の難しさがここにもある。サンフランシスコは、その点で米国を中心とした連合国が日本との講和条約を結ぶには最も適切な都市だった。

いくつもの理由が考えられる。

第1に、米国の首都でない点だ。米国主導が前面に出れば、アジア諸国にためらいがうまれ、署名国が減る危険があった。

第2に、しかし米国領であり、しかも太平洋側であって日本とアジアを向いている点だ。それは日本とアジアに対するメッセージにもなるし、現実に飛行時間も短くてすむ。

第3に、アジアに近いことは、逆にいえば、欧州には遠い。欧州からサンフランシスコに来るには大西洋を越えて米東海岸に着き、さらに北米大陸を横断しなければならない。欧州の東に位置するモスクワからは遠い。北極空路は当時は使われてなかった。

モスクワから遠路はるばるサンフランシスコにやってきたソ連の首席全権、グロムイコをめぐって7日、びっくりするニュースが飛び込んだ。

グロムイコ暗殺計画の発覚である。

サンフランシスコ警察の発表によれば、計画したのは白系ロシア人つまり共産主義に反対して米国に逃げてきたロシア人だった。グロムイコの車がトラックと衝突するように仕組まれていたという。

講和会議場の前で「グロムイコ帰れ」のプラカードを持つ白系ロシア人も=朝日新聞社提供

講和会議場の前で「グロムイコ帰れ」のプラカードを持つ白系ロシア人も=朝日新聞社提供

事前に発覚し、計画は未遂に終わった。

いまや忘れられているが、この事件は、戦後史の行方を左右しかねないものだった。

ソ連首席全権が原因不明の交通事故で命を落としていたら、対日講和条約はそのままサンフランシスコで署名できただろうか。ソ連側は会議の延期を要求し、米英側もそれを受け入れなければならなかっただろう。

世界の冷戦史は、そして日本の戦後史は少なからず、違っていただろう。暗殺計画が未遂に終わったのは、日本にとって幸いだった。

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