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佐川事件で失脚 政界再編の端緒に

「政界のドン」金丸信(7)

政客列伝  特別編集委員・安藤俊裕

宮沢首相(左)と金丸副総裁=毎日新聞社提供

海部俊樹首相はクリーンな政治姿勢と率直な人柄で支持率も高く、最大派閥・経世会(竹下派)会長の金丸信も当初は海部再選を考慮していた。しかし、自民党内ではリクルート事件の傷が癒えた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博(死去した安倍晋太郎の後継者)の有力者が海部再選に難色を示し、総裁選に名乗りを上げる構えを見せた。

そうした折、海部首相が成立に意欲を燃やしていた政治改革法案が自民党の梶山静六国対委員長の判断で廃案となり、海部首相は「重大な決意」を口にした。衆議院解散を示唆する「重大な決意」は、これまで海部を支えてきた金丸―小沢一郎ラインによって押しとどめられ、海部は退陣に追い込まれた。1991年(平成3年)10月の総裁選はまたしても竹下派の動向に左右されることになった。

宮沢政権で自民党副総裁に

この総裁選で金丸は竹下派会長代行の小沢に強く出馬を勧めた。政治手腕や度胸のよさを高く評価し、執拗(しつよう)に口説いたが、小沢は年齢が若いことや健康上の理由で固辞し、出馬は見送りになった。これが竹下派内で複雑な波紋を広げた。派内には小沢より当選回数が多い橋本龍太郎や小渕恵三がおり、同期当選の羽田孜や梶山もいた。金丸の小沢偏重に対する不満が公然とくすぶり始めた。小沢の不出馬で総裁選は宮沢、渡辺、三塚の3人の争いとなった。

▼晩年にかけての主な出来事
1991年(平成3年)10月
海部後継を決める自民党総裁選で宮沢支持、副総裁に
1992年(平成4年)8月22日
朝日新聞が一面トップで「東京佐川急便から金丸氏側に5億円」と報じる
8月27日
記者会見で90年の総選挙前に東京佐川から5億円を受領した事実を認め、自民党副総裁辞任の意向を表明
9月28日
東京簡裁、金丸に罰金20万円の略式命令
10月14日
議員辞職、山梨の長男宅に引き込む
1993年(平成5年)3月6日
脱税容疑で逮捕
7月22日
初公判で脱税などの起訴事実を否定、30億円は政界再編に備えて長年にわたり蓄えていた資金であると主張
1996年(平成8年)3月21日
東京地裁、被告人の健康状態を理由に公判停止を決定
3月28日
山梨県の自宅で静かに息を引き取る。81歳

竹下派が誰を支持するかが焦点となり、金丸の意を受けて小沢が自分の事務所で宮沢、渡辺、三塚の3人を口頭試問する異様な光景が見られた。世評では宮沢優位と見られ、世論もインテリの宮沢支持が多かった。しかし、金丸と小沢は、決断力や実行力に乏しいとみられていた宮沢を政治家としてあまり評価していなかった。むしろ渡辺の方が政策的にも体質的にも親近感を持っていた。渡辺も大逆転を懸けて金丸、小沢に猛烈に働きかけた。金丸はギリギリまで迷ったが、最後は宮沢支持という無難な決断を下した。

金丸の政治手法はもともと世論重視で常識的な線に落とすことが特徴である。渡辺とは昵懇(じっこん)であったが、渡辺が首相になったら放言癖が問題になるのではないかと気になった。この当時、金丸の政治判断に大きな影響を与えていた悦子夫人が宮沢支持を進言したとされる。竹下派とほとんど一体で行動していた河本派も宮沢支持だった。金丸が宮沢支持を正式に表明した竹下派総会では拍手がまばらだった。派内には宮沢支持の熱気はほとんどなく、金丸の小沢偏重への不満も強かったのである。

宮沢内閣では竹下派から6人が入閣し、幹事長には金丸に近い綿貫民輔が起用された。宮沢首相は竹下派の支持を固めるため、金丸に自民党副総裁就任を要請した。金丸は熟考の上、「宮沢を支持した以上は宮沢内閣を支える責任がある」として1992年(平成4年)1月、副総裁就任を受諾した。この直前の前年12月、悦子夫人がゴルフ場で倒れて急死した。金丸の身の回りの世話は金丸の長男・康信の一子夫人(竹下登の長女)がするようになり、金丸・竹下関係が再び緊密になったとみられた。

金丸の政治家としての全盛時代は海部内閣の発足から副総裁となった宮沢内閣の前半までである。1992年(平成4年)8月22日、朝日新聞は一面トップで「東京佐川急便から金丸氏側に5億円」と報じた。金丸の運命は暗転した。金丸はうそがつけない性分だった。信頼する小沢に、事実を認める方向で具体的な対応を任せた。小沢の進言に従って8月27日に記者会見し、90年の総選挙前に東京佐川から5億円を受領した事実を認め、自民党副総裁を辞任する意向を表明した。東京地検は金丸を政治資金規正法違反(量的制限違反)で略式起訴し、東京簡裁は9月28日、金丸に罰金20万円の略式命令を出した。

「踏んだり蹴ったり」の脱税逮捕

しかし、これで一件落着とはならなかった。「5億円のヤミ献金をもらってたった20万円の罰金か」との批判が沸騰し、東京地検の看板にペンキが塗られる騒ぎになった。金丸は10月14日、議員辞職に追い込まれ、山梨の長男宅に引き込んだ。金丸の政界引退によって竹下派は後継会長をめぐって激烈な派内抗争が起きた。会長代行として金丸を守りきれなかった小沢の対応を野中広務らが激しく攻撃した。派内の風当たりが強い小沢は後継会長に温厚な羽田を推した。竹下の意中の人は小渕だった。会長選びの調整役だったベテランの原田憲は竹下の意向に沿って後継会長に小渕を指名した。

東京佐川急便事件で副総裁辞任を表明する金丸信=毎日新聞社提供

羽田・小沢グループはこれを不満として「改革フォーラム21」を結成して最大派閥・竹下派はついに真っ二つに分裂した。こうした政界の騒動を金丸は山梨から静かに眺めているだけであった。その金丸に追い打ちをかける事件が起きた。1993年(平成5年)3月6日、金丸は脱税容疑で逮捕された。まさに「踏んだり蹴ったり」であった。ゼネコンからのヤミ献金を割引債に換えて蓄財していたとする容疑で東京の金丸邸の金庫から30億円の割引債や金の延べ棒などが押収された。取り調べでは脱税容疑を強く否定したが、東京地検は金丸を起訴した。

7月22日、金丸は事件の初公判で脱税などの起訴事実を否定し、30億円は政界再編に備えて長年にわたり蓄えていた資金であると主張した。以後、金丸は月に1、2回公判のために山梨から車で上京し、車いす姿で出廷した。80歳を過ぎたころから金丸には肉体的な衰えが目立つようになった。持病の糖尿病が悪化し、目も不自由になった。本人は裁判で真実を明確にすると頑張っていたが、弁護側と家族は裁判所に公判停止を求めた。1996年(平成8年)3月21日、東京地裁は被告人の健康状態を理由に公判停止の決定を下した。その1週間後の3月28日、金丸は山梨県の自宅で静かに息を引き取った。81歳だった。

政界を退き、山梨の自宅で孫とくつろぐ金丸信

金丸は自分の政治スタイルについて「筋を通す、人のために汗を流す、人間関係を大切にする、困ったときの相談に乗る」とよく語っていた。そうした政治スタイルを貫くには潤滑油としてそれなりの資金が必要であり、最大派閥を率いるにはかなりの資金が必要だったのは確かである。金丸は道路族、郵政族の第一人者として政治資金を集めやすい立場にあった。一方で、金丸が晩年に政界再編を構想していたのも事実である。気心が知れた社会党右派、公明党、民社党と経世会(竹下派)が一緒になって新党を作り、日本に二大政党制を実現することが念頭にあった。失脚前の講演やインタビューでもしばしば政界再編の必要性に言及していた。

現実の政局は金丸の失脚によって最大派閥の竹下派が分裂し、金丸が目をかけてきた小沢、羽田らが自民党を飛び出して新生党を結成し、1993年(平成5年)7月の総選挙後に社会党、公明党、民社党などと組んで細川連立内閣を発足させた。金丸の政界再編構想は皮肉にも金丸自身の失脚が端緒になって実現に大きく動き出した。

リニア中央新幹線が「遺策」に

政界を引退して山梨に引きこもっても、金丸の人望を慕って訪問客は絶えなかった。ある訪問客が小沢について尋ねると「ちっとも来ねえや。電話一本よこさねえ。あれだけかわいがってやったのになあ。飼い犬に手をかまれるとはこのことだ」とぼやいたという。しかし、別の訪問客が小沢の不義理を批判すると「ふざけるな。小沢を除いて誰が日本のかじ取りをできると思っているんだ」とかばったという。小沢に対しては愛憎半ばする複雑な思いが交錯していたのだろう。

生前の金丸はリニア・モーターカー実用化の熱心な旗振り役だった。地元の山梨に実用化実験施設を誘致し、リニア新幹線構想推進の先頭に立った。金丸は当時の技術専門家に「これは(外国に)売れるか」と念押しした上で国家プロジェクトのゴーサインを出している。当時は夢物語のように思われていたが、JR東海が2014年の着工をめざしてリニア中央新幹線の具体化に動き出した。これが金丸信の最大の遺策である。=敬称略

(終わり、次回から保利茂です)

 主な参考文献
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)

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