2019年2月16日(土)

政客列伝 前尾繁三郎(1905~1981)

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宏池会会長の座を追われる 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(5)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/12/11 7:00
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1965年(昭和40年)8月、前尾繁三郎は池田勇人前首相の死去に伴い、宏池会の第2代会長となり、池田派は前尾派に衣替えした。宏池会は衆議院48人、参議院で20人程度の議員集団で佐藤派に次ぐ党内第2位の派閥であった。大野伴睦の死後、大野派は村上派と船田派に分裂し、河野一郎死後、河野派は重政・森派と中曽根派に分裂した。池田派は大橋武夫が離反して佐藤派に行った以外は分裂を回避した。

■大平とぎくしゃくした関係

藤山愛一郎(左)と会談する前尾繁三郎=毎日新聞社提供

藤山愛一郎(左)と会談する前尾繁三郎=毎日新聞社提供

派閥の領袖になった前尾はいや応でも総理・総裁の座ををめざす宿命を背負い込んだ。池田が生きている間は前尾も大平正芳も懸命に池田を支えたが、池田が死ぬと前尾と大平の関係は微妙になった。大平は前尾体制を快く思わず、独自に資金を集めて中堅・若手議員に影響力を拡大し始めた。分裂は回避したものの、前尾と大平のしっくりしない関係は派内の空気をぎくしゃくさせた。

昭和41年6月の内閣改造で前尾は総務会長から北海道開発庁長官として佐藤栄作内閣に入閣した。このころ前尾は腎臓結石とぼうこう炎を患ったばかりで体調も思わしくなく、入閣する意思がなかったが、前尾派が入閣を強く求めた塩見俊二について佐藤首相が「塩見の入閣は前尾の入閣が条件」との態度を示した。塩見は参議院宏池会のまとめ役として台頭し、前尾としても塩見の入閣は派閥の領袖の面目がかかっていた。佐藤首相には同年12月の総裁再選を控えて前尾を閣内に取り込む狙いがあった。

12月の自民党総裁選で佐藤首相が再選された。この総裁選で藤山愛一郎が「反佐藤」を掲げて立候補し、中曽根派や松村謙三グループの支援を得て89票を獲得した。前尾は総裁選に出馬せず、自主投票としたが、当時、反佐藤に傾いていた大平が動いて派内に呼びかけた結果、前尾票が47票出た。大平は盟友の田中角栄と連携し池田から佐藤へのバトンタッチに動いたにもかかわらず、佐藤内閣で処遇されず、佐藤に含むところがあった。前尾派内の約20人は佐藤に投票したと見られた。昭和42年1月の総選挙後に前尾は北海道開発庁長官を退任して閥務に専念し、健康回復に努めた。

1968年(昭和43年)10月の総裁選は3選をめざす佐藤首相に対して三木武夫が外相を辞任して出馬を表明した。次いで前尾も「人心一新」を旗印に掲げて正式に出馬表明した。党内情勢は佐藤に圧倒的有利で前尾の勝ち目はなかったが、党内第2位の派閥の領袖として派閥を守るために勝敗を度外視して出馬に踏み切った。総裁選の前に前尾はNHK・島圭次記者に「自分は最大限70か80の票はとるだろう。金を使ったら100票は取るかもしれない。だがおれは10票や20票のために金など使わない」と述べたという。

■総裁選出馬も屈辱の3位に

この総裁選で前尾は「資金は大平、票は鈴木(善幸)」と役割分担を決め、悠然と構えていた。佐藤派は無役の田中が陣頭指揮をとり、川島派、船田派、村上派、石井派、中曽根派など中間派に猛烈な攻勢をかけた。田中はこの総裁選で佐藤を圧勝させ、その実績で要職に復帰することをめざしていた。総裁選初出馬の三木は劣勢だったが、面識のある議員に夜討ち朝駆けをかけるなど必死の各個撃破作戦に出た。

総裁選で敗れた前尾繁三郎(左)。右は佐藤首相、中央は三木武夫=毎日新聞社提供

総裁選で敗れた前尾繁三郎(左)。右は佐藤首相、中央は三木武夫=毎日新聞社提供

村上派が前尾を支持した。佐藤の優位は動かず、前尾が2位、三木が3位と見られていたが、三木の懸命の追い上げで投票日前日には「前尾の2位が危ない」との情報が流れた。当時、政調会長だった大平がこれを聞きつけ、前尾に「いまからでも手を打てばひっくり返せる」と進言したが、前尾は動かなかった。総裁選の結果は佐藤249票、三木107票、前尾95票だった。

党内第二の名門派閥を率いる前尾が弱小派閥の三木に敗れたのは屈辱的な結果であった。派内からも「肝心の候補者が活発に動かないから三木に負けたのだ」「前尾は一応の結論が出たのだから、この際は退いてリーダーの席を大平に渡してはどうか」などの声が上がり始めた。前尾は唇をかんで「ああいう結果にならなければ大平に宏池会を渡すつもりだったが、もう一度やる。死んでもいい」と漏らしたという。総裁選後の改造人事でで田中が幹事長に復帰し、宏池会の大平は通産相で入閣し、鈴木は総務会長になった。

1970年(昭和45年)の政局は佐藤4選問題が焦点となった。前年11月の訪米時には「(総裁選を)3回もやれば十分だ。後継者は次々生まれているから」と述べて4選不出馬を示唆していたが、年末の総選挙で圧勝してから党内の空気が変わり始めた。福田赳夫を後継に推す岸信介や保利茂は4選に賛成しなかったが、福田政権になることを好まない川島正次郎副総裁・田中幹事長のコンビは佐藤4選に向けて活発に動いた。佐藤は「待ちの姿勢」で党内情勢をじっくりと眺めていた。

川島が4選の旗を振ると船田派、水田派、中曽根派などの中間派が佐藤4選支持に傾き始めた。三木の総裁選出馬は確実視された。前尾が出馬するかどうかに注目が集まった。前尾は難しい対応を迫られた。佐藤が4選をあきらめて福田が出馬するなら前尾はこれに対抗して一大決戦を挑むつもりであった。佐藤が4選出馬に踏み切るなら、前回同様、勝ち目はほとんどなかった。

昭和45年7月6日、箱根の宏池会青年研修会で前尾は「公害問題など社会的アンバランスが起きているのは、民間の経済成長に比べて公共投資が遅れているからだ。遅れを取り戻すためにもっと積極的な公債政策をとるべきだ」「新しい酒は新しい革袋に盛らなければならぬ」などと意欲的な発言をした。記者団の質問には「総裁選に出馬するかどうか、何も言えない。現在いろいろ考慮中である」と述べている。

毎日新聞・西山太吉記者は後に「私は箱根での研修会のあと宿舎まで前尾の車に同乗した際『前尾さん、どうしても総理になりたいですか』と聞いた。すると前尾は酒に酔っていたせいもあろうが『3日間でもやりたいよ』と叫び声を上げ"哲人"政治家でも権力に近づけば、内心はこんなものなのかと驚き入ったことがある」と記している。このころ大平は北海道新聞のインタビューで前尾について「ぼう洋たる大人物、欲のない人、人格的には立派な人だ。しかし、健康からいっても、また性格、性向からいっても、国民から喝采を浴びたり、党内の多数派工作に向く人ではないね。だから天下人にはなれないかもしれない。しかし、それは彼の人格を落とすものではない」と語っている。

佐藤は異例の4選出馬に踏み切るには党内の圧倒的支持が必要であり、前尾と争ってまで出馬することにはためらいの色も見せた。そうした佐藤の意向を察知して川島副総裁は前尾に直接、田中幹事長は鈴木総務会長を通じて不出馬を執拗(しつよう)に働きかけた。川島と田中が示した条件は「総裁選後に内閣改造を行い、前尾は副総理格の重要ポストで入閣する」というものであった。前尾の周辺も「佐藤は4選しても任期いっぱいは持たない。ここは入閣してポスト佐藤に備えた方が得策」との判断に傾いた。

■佐藤首相に翻弄され、会長交代論噴出

前尾派は総裁選の対応を前尾に一任した。9月22日、前尾は佐藤首相と会談した。前尾が佐藤に4選出馬の意志があるかどうかをただしたのに対し、佐藤は「(4選出馬を)決意するについては君の協力を求めなくてはならない。自分もやる限りは漫然と仕事はしない。君には入閣してもらうつもりだが、健康は大丈夫かね」などと述べた。佐藤首相との会談を踏まえて前尾は総裁選出馬を見送った。

宏池会会長辞任を表明する前尾繁三郎。左端は大平正芳=毎日新聞社提供

宏池会会長辞任を表明する前尾繁三郎。左端は大平正芳=毎日新聞社提供

昭和45年10月の党大会で佐藤は三木を圧倒的大差で破り、総裁4選を果たした。4選を決めた党大会の壇上で佐藤は川島副総裁の耳元に小声で「ちょっと、改造は見送りましょう」とささやいた。ポーカーフェースの川島が珍しく驚いた表情を見せた。佐藤は党大会後の恒例の首相官邸の招待パーティーに顔を出した前尾を執務室に招き入れ「ちょっと考えたいことがあるので、この際改造人事に手をつけるようなことはしたくない」と改造見送りを通告した。

佐藤との会談を終えてパーティー会場に姿をみせた前尾に記者団から「改造人事が始まったのですか」と質問が飛んだ。前尾は何も答えず、ぶぜんとした表情でウイスキーの水割りをグイと飲み干すばかりであった。改造見送りのニュースが伝わると宏池会は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

ただちに宏池会の緊急議員総会が開かれ、大平側近の田中六助が立ち上がって前尾を糾弾した。「池田派が継続されている限り、私はこの派に骨を埋めるつもりでいたが、今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。佐藤さんが約束をほごにしたとき、前尾さんはなぜ"同志の皆さんと相談してから"と言わなかったのか。前尾さんの役割は佐藤さんのわがままをチェックすることにある。それなのに、改造の匂い薬をかがされた上、利用するだけ利用されたのでは、もう我慢できない。私は前尾さんとたもとを分かち、もう二度とここへは足を踏み入れない」と言い放って退席した。

2日間にわたる議員総会では大平系の田沢吉郎、服部安司、佐々木義武、伊東正義らが次々と立ち「前尾さんは首相にだまされたのだから、その責任をとるべきではないか。派閥も弱体化しており、体制・体質を早急に刷新する必要がある」などと述べて、大平への会長交代を公然と要求した。前尾はほとんど弁解せず、会長としての進退にも言及しなかった。前尾系の古参議員と大平系の中堅・若手議員の対立は抜き差しならない状況になった。

両者の調停に動いたのは総務会長の鈴木である。その結果、前尾から内々に「来年8月の池田さんの7回忌を済ませれば、自発的に宏池会会長を辞任する」との意向が伝えられた。これで宏池会の混乱はひとまず収まったが、その後も大平系議員は前尾の早期退陣を執拗に求め続けた。すでにポスト佐藤をめぐって福田と田中の戦いが始まっており、大平としては一刻も早く派閥を継承してこの戦いに名乗りを上げるために決着を急いでいた。

▼宏池会会長辞任までの出来事
1965年(昭和40年)8月
宏池会第2代会長に
1966年(昭和41年)6月
佐藤内閣に北海道開発庁長官で入閣
1968年(昭和43年)10月
総裁選に出馬、95票で3位に終わる
1970年(昭和45年)9月
佐藤首相と会談、総裁選不出馬を決める
同年10月
内閣改造見送り。大平系議員が前尾に会長辞任迫る
1971年(昭和46年)4月
宏池会会長を辞任

1971年(昭和46年)3月、鈴木は前尾と会い、次の総裁選に挑む決意があるかどうかをただした。前尾が言葉を濁すと鈴木は「宏池会は池田さん以来、保守党のバックボーンとして総裁のポストをめざす派閥であるはずだ。それならば、大平君にバトンタッチされるべきである」と強く進言した。これと前後して日経連会長の桜田武が前尾と会い「後継者に大平さんではどうですか」と勧告した。桜田は宏池会と財界の資金パイプのまとめ役であった。これが決め手となって前尾は会長辞任のハラを固めた。

4月16日の宏池会総会で前尾は「伝統ある保守本流としての使命を持つ我が派は、政権担当の集団としてさらに躍進を図らなければならない。新リーダーを決め、新体制を整え、私の果たし得なかった目的達成のため前進してほしい」とあいさつした。宏池会の新会長は大平に決まった。宏池会は分裂せずに前尾から大平に引き継がれたが、前尾と大平の間に深い溝が残った。

前尾は派閥の領袖としてはインテリ過ぎて、なりふりかまわず政権を取りに行くという気迫と行動力に欠けていた。病気がちだったことも前尾の執念を鈍らせた。清廉な前尾は無理なカネ集めはせず、派内には「前尾のところに行ってもカネをくれない」との不満もくすぶっていた。

この間の事情について前尾はほとんど語っていないが「私の履歴書」には「立派な同志だけが集まった宏池会が離散したのでは池田総理に申し訳ないばかりでなく、国家のためにも損失である。時に"どうにでもなれと、真白き病院の ベッドの上に、大の字に寝る"そんな日もあったが、つねに同志諸君のことは脳裏を離れなかった。そうして、病床にありながら総裁公選に出たり、引っ込んだりした。大臣になったり、ならなかったりもした。そこで殿軍の将の役目も果たしたので宏池会の会長をやめた」と記している。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」(74年日本経済新聞社)
 大平正芳回想録刊行会編「大平正芳回想録・伝記編」(82年同刊行会)
 西山太吉著「沖縄密約」(07年岩波書店)
 伊藤昌哉著「自民党戦国史」(82年朝日ソノラマ)

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