政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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民政党代議士、町田忠治の側近に 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(2)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2012/3/11 7:00
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報知新聞社を退社して郷里の富山県福光町(現南砺市)に戻った松村謙三は家業の薬種商を継ぎ、家事を整理する傍ら、所有する山林の植林事業に従事した。地場産業の振興をめざして友人と太平木工社などを立ち上げた。松村は報知新聞に入社した際に、富山の素封家の娘・荒井静枝と結婚したが、この最初の夫人は産褥(さんじょく)熱でわずか1年で死別した。大阪在勤中に山田こ乃と再婚し、こ乃夫人との間に長男・正直(後に三菱倉庫社長)ら4男3女をもうけた。

■45歳で代議士初当選

報知新聞社を退社し、福光町に帰郷した頃の松村謙三

報知新聞社を退社し、福光町に帰郷した頃の松村謙三

1914年(大正3年)4月、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れ、大隈重信が加藤高明率いる立憲同志会を与党にして第2次内閣を発足させた。翌年の総選挙では早稲田大学関係者が「大隈伯後援会」を組織して多数の候補者を擁立した。松村が報知新聞に残っていたら、この選挙で大隈や高田早苗の推薦を得て国政に出るチャンスがあったかも知れない。富山の郷里で家業に従事していた松村には「大隈ブーム」に沸き返る中央政界の動きはほとんど無縁だった。

大正6年、松村は周囲に推されて福光町会議員になった。町議は3期連続当選した。大正8年には町議のまま憲政会(同志会の後身)の候補者として富山県会議員に当選した。大正12年6月、松村は早稲田の先輩で石川県選出の憲政会代議士になっていた永井柳太郎に誘われて2度目の中国旅行に出かけ、青島、天津、北京を訪れた。

同年9月の県議選で松村は2度目の立候補をしたが、この時、気が進まないこともあって周囲に「自分は演説もしない。誰にも推薦状は頼まない」と条件をつけた。それでも松村の同志は必死に選挙運動をしたが、結果は僅差の落選だった。松村は「自分が格好をつけたために同志に大変な迷惑をかけた。選挙は候補者自身が死にものぐるいでやらなければダメだ」と真剣に反省した。

初当選し、昭和天皇の即位大礼に参列した際の松村謙三

初当選し、昭和天皇の即位大礼に参列した際の松村謙三

1924年(大正13年)の総選挙で松村は周囲から立候補を勧められた。中央政界では貴族院を基礎にした清浦奎吾内閣に対して加藤高明の憲政会、高橋是清の政友会、犬養毅の革新倶楽部が護憲3派を形成して第2次護憲運動を展開していた。松村も地元で護憲運動に積極的にかかわっていた。小選挙区制の時代で松村の地元の富山県第5区には憲政会の先輩・野村嘉六がいた。松村は去就に迷ったが、先輩・野村を押しのけてまで出馬する気にはなれず、立候補を見送った。

松村謙三は1928年(昭和3年)2月の総選挙で民政党から出馬して初当選を飾った。第1回の普通選挙で有権者が大幅に増え、選挙制度も小選挙区から中選挙区に変更された。先輩の野村は富山の第1区に移り、松村は地元の第2区から出馬した。民政党は憲政会と政友本党が合併した政党で総裁は浜口雄幸である。田中義一政友会内閣の時代で民政党は野党だったが、松村は定員3人の富山県第2区で2位に入り、当選を果たした。45歳になっていた。代議士としては遅咲きである。

■奉天で張作霖爆殺事件に遭遇

同年5月、松村は民政党済南事件調査団の一員に加わって中国を訪れた。団長は早稲田の同級生で松村より一足早く代議士になった山道襄一である。済南事件は居留民保護を名目に出兵した日本軍と蒋介石の北閥軍が衝突した事件である。一行は済南で衝突現場などを視察、日本人居留民を慰問し、一通りの調査を終えて長春(新京)に向かおうとしたところ、奉天近くで「ここから先は不通だから下車するように」と言われた。事情を聞くと「けさ、ここの鉄橋が爆破されて張作霖が殺された」という。

調査団一行は奉天の日本総領事館に駆け込み、事情を聞いた。林久治郎総領事は早稲田出身の外交官で「ひどいことだぞ。陸軍の連中がやったんだ。これは容易ならんことになる。情報は提供するが、ここにいると軍の連中に目をつけられるから近くの温泉にでも行った方がいい」と話した。民政党済南事件調査団は端なくも張作霖爆殺事件に遭遇し、林総領事の情報提供により関東軍の仕業であるとの確証を握って帰国した。

帰国した一行は事件の詳細を浜口総裁に報告した。黙って報告を聞いていた浜口は「この問題は実に重大だ。党派の関係を超える重大事であるから、この材料の取り扱いは自分に一任してほしい」と述べた。これを議会で取り上げ、田中内閣の責任を追及するのは簡単だが、事は日本の国際信用にかかわることなので扱いは慎重を期さなければならないという浜口の態度に松村は「大政党の総裁として実に立派なものだ」と深く感心した。この問題で民政党は中野正剛が質問に立ち、「満州某重大事件」として真相をオブラートに包みながら田中内閣の政治責任を厳しく追及した。

■町田農相秘書官となる

浜口首相(右)と町田農相

浜口首相(右)と町田農相

この問題が致命傷になって田中政友会内閣は退陣に追い込まれ、1929年(昭和4年)7月、待望の浜口民政党内閣が発足した。町田忠治が農相として入閣し、1年生代議士の松村は町田農相秘書官となった。それまで松村は町田と格別親しいわけではなかった。町田に松村を推薦したのは民政党の実力者・安達謙蔵内相である。野党時代、安達が鳥取県を遊説した際に松村が同行し、当時の鳥取県知事が松村と同郷だったため、安達一行は知事から異例の歓待を受けたことがあった。安達はこの時の借りを松村に返したのである。

真面目一方で小器用ではない松村は必ずしも秘書官向きではなかったが、町田農相は松村の誠実な人柄を評価した。町田は内閣法制局、報知新聞論説記者を経て「東洋経済新報」を創刊、その後日本銀行に転じ、大阪の山口銀行総理事、報知新聞社長になるなど多彩な経歴の持ち主だった。

政治家としては地味なタイプだったが、芯は強く議会政治を守り抜く固い信念を持っていた。そうした町田を松村は「政治の師」と仰ぐようになり、終生変わらぬ師弟関係を結んだ。町田は報知新聞の連載漫画「ノンキナトウサン」の主人公に顔が似ていたので、政界では「ノンキナトウサン」略して「ノントウ」と呼ばれていた。

町田はそのころ赤坂で愛人に料亭をやらせていて、そこに立ち寄ろうとすると松村は「大臣、それはいけません」と言って真っすぐ帰宅させようとするので町田は随分閉口した。後に町田の商相秘書官になった野田武夫(民政党代議士、戦後自治相)は気のきくタイプで「大臣、今晩あたり赤坂で休息されては」と言うので町田は「君に来てもらって、初めて秘書官らしい秘書を持った気がするよ」と大いに喜んだという。

1917年(大正6年)4月
富山県福光町会議員
1919年(大正8年)9月
富山県会議員
1923年(大正12年)6月
永井柳太郎と中国旅行
1928年(昭和3年)2月
富山県第2区に民政党から出馬して
衆議院議員初当選
同年6月
奉天で張作霖爆殺事件に遭遇
1929年(昭和4年)7月
町田農相秘書官に
1932年(昭和7年)2月
3回目当選も民政党不振で大苦戦

昭和5年の総選挙で浜口民政党は絶対多数を確保して圧勝し、松村も2回目の当選を果たした。浜口内閣は海軍軍令部の抵抗を押し切ってロンドン海軍軍縮条約に調印し、井上準之助蔵相が金解禁・緊縮財政を断行するなど大胆に政策を展開したが、昭和5年11月、浜口首相が右翼の凶弾に倒れ、議会出席が困難となって昭和6年4月に退陣した。

若槻礼次郎が民政党内閣を引き継いだが、同年9月に満州事変がおこり、関東軍は政府の不拡大方針を無視して戦火は満州全域に広がった。これと前後して英国が金本位制離脱を宣言し、民政党内閣の政策は完全に行き詰まった。難局打開のため、安達内相が挙国一致の協力内閣構想を打ち上げたが、井上蔵相らがこれに強く反対し、若槻内閣は閣内不一致で総辞職した。安達、中野らは民政党を脱党した。後継の犬養政友会内閣は昭和7年1月、衆議院を解散した。

民政党は苦境に陥った。「選挙の神様」と言われた安達が脱党し、次期総裁をめざして資金面でも選挙の中心となっていた井上は右翼の血盟団に暗殺されて大打撃を受けた。政友会が掲げた「景気を欲するものは政友会へ、不景気を欲するものは民政党へ」のスローガンはデフレ不況にあえぐ国民の心をとらえ、民政党候補者に重くのしかかった。

松村もこの選挙で大苦戦を強いられた。開票が始まるとどの地域でも前2回の選挙と比べて半分程度の得票で「これではダメだ」とあきらめかけたが、最後に次点候補者を200票ばかりの差で振り切り、最下位で当選に滑り込んだ。政友会は301議席を獲得して大勝し、民政党は146議席で惨敗した。大勝した政友会内閣も同年の五・一五事件で犬養首相が暗殺され、政党内閣の時代は幕を閉じた。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)
 松村謙三著「町田忠治翁伝」(50年町田忠治翁伝記刊行会)

※1、2枚目の写真は「花好月圓(松村謙三遺文抄)」、3枚目は「町田忠治翁伝」から

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