日米外交60年の瞬間 第3部

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見出しに映る「被占領国」意識 サンフランシスコへ(4)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2011/9/10 12:00
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1951年4月18日、吉田茂首相とダレス特使は2回会談した。ダレス訪日は、日本の世論が親近感を持っていたマッカーサー解職の衝撃をやわらげ、対日政策が変わらないとのメッセージを伝えるためだった。だからそれなりの演出が必要だったのだろう。確かに2度の会談のしつらえはやや演出めいていた。

■主役はリッジウェー?

3者会談が開かれる前日、総司令部にリッジウェー総司令官を初訪問する吉田首相=朝日新聞社提供

3者会談が開かれる前日、総司令部にリッジウェー総司令官を初訪問する吉田首相=朝日新聞社提供

場所はともに東京・日比谷の総司令部(GHQ)だが、吉田、ダレス以外の出席者の顔ぶれが違っていた。午前11時からの会談は、吉田、ダレスのほかにリッジウェーが出席した。

それを1面トップで伝えた19日付日本経済新聞は「きのう三首脳会談 リ中将=ダ大使=首相」と見出しをつけた。吉田、ダレス、リッジウェーは「三首脳」だったわけだが、この見出しは現代の感覚でみると、ふたつの奇妙な点がある。

ひとつは「きのう」である。現代の新聞は、その日に予定されている出来事を伝えるのに「きょう」を使うことはある。「国会きょう召集」といった具合だが、新聞は、普通は過去の出来事を伝えるのだから、ことさら見出しで「きのう」を使うことはない。

51年当時はラジオはあったが、テレビはまだ一般的ではなく、新聞が唯一のニュース伝達手段という意識が新聞編集者にはあったのだろう。いまならテレビやインターネットでニュースは瞬時に流れるから、ニュースの鮮度の悪さをことさら強調する結果になる「きのう」などといった見出しはとらない。

もうひとつの奇妙な点は「リ中将=ダ大使=首相」という順序である。当時の事情を知らない現代の記者がこの3者会談の原稿を書くとすれば、吉田、ダレス、リッジウェーの順にしたかもしれない。吉田が日本の首相であり、ダレスはワシントンが派遣した特使であり、リッジウェーは駐日大使のようなものと考えがちだからだ。

しかしこの記事はリッジウェー、ダレス、吉田の順に書かれている。だから見出しもそうなった。当時の事情を考えれば、理由は想像がつく。リッジウェーは帝王マッカーサーの後任であり、日本を占領している連合軍の最高責任者である。ダレスは、いわばその後ろ盾である米政府が派遣した特使であり、吉田は被占領国日本の首相だった。

3首脳会談そのものは儀礼的な内容だったようだ。リッジウェー、ダレスが米国の早期講和の方針を述べ、吉田が謝意を表した。

それに比べて中身があったと思われたのは、午後3時からの会談だった。吉田は井口貞夫外務次官、西村熊雄条約局長を同席させ、ダレスはシーボルトGHQ外交局長を同席させた。講和条約の内容を詰めたことが会談の顔ぶれをみただけでわかる。

■講和承認にらみ議員重視したダレス

だから講和条約交渉を担当する記者が注目したのは、午後の会談の方だった。第3部の1でも触れた英国の姿勢にとりわけ関心があった。中共(ママ)の講和条約参加、対日経済制限に関する英国の提案についてダレスははっきりした態度を示さなかったとされるが、日本側は米国が好意的努力をする感触を得たことが当時の報道からはうかがえる。

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

ダレスはこの訪日でも日本の各政党の代表と会談することになっており、次のようなリストが公表されていた。いうまでもなく講和条約の国会承認を滑らかにしようとする狙いである。

・自由党 益谷総務会長、佐藤幹事長、植原顧問、仲内渉外部長、大野木秀次郎

・民主党 苫米地最高委員長、三木幹事長、千葉政調会長

・社会党 鈴木委員長、浅沼書記長、勝間田外交委主査、加藤シヅエ参院議員

・緑風会 徳川(宗)議員総会議長、高瀬政調会長、高橋会務委員長、伊達外務委員

リストには姓しか書かれていない人が多いが、それぞれ益谷秀次、佐藤栄作、植原悦二郎、仲内憲治、苫米地義三、三木武夫、千葉三郎、鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、勝間田清一、徳川宗敬、高瀬荘太郎、高橋龍太郎、伊達源一郎各氏をさすとみられる。このうち苫米地、徳川両氏は全権団の一員としてサンフランシスコに赴く。

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