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貫禄、他の女優を寄せつけず 山田五十鈴さん

2012/7/10付
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山田五十鈴さんにとって、女優は天職だった。映画と舞台、2つの世界で大輪の花を咲かせたのも稀有(けう)な事例だ。かつて初代水谷八重子さん、杉村春子さんと共に三大女優の一人に数えられ、1990年代半ばまで舞台に出演、長い俳優生活で築き上げた女優としての貫禄は他を寄せつけなかった。

「勲章は心の中に持ち続け、身にはつけません。ずっと苦しみながらの仕事だったので今後は楽しんで芝居をしたいけど、こればかりは死ぬまで無理ね」と文化勲章を受章した翌年の誕生パーティーで言った。杉村さんが文化勲章を辞退していたため受章するか迷った末、後進の女優のためにと受章を決意した。

母は大阪、北新地の売れっ子芸者。数え年6歳から常磐津、長唄、清元、踊りを習い、10歳で清元の名取となって生活を立てようとしたのだから、芸にかける心意気は筋金入りだった。

父が日活太秦撮影所長を知っていた縁で30年に日活に入社、14歳で幹部女優並みの月給を取った。芸名が伊勢神宮の五十鈴川にちなんで五十鈴と決まり、「ベルさん」が愛称になった。

34年、第一映画に転じた。俳優の月田一郎さんと結婚(後に離婚)、成人後、女優となる瑳峨三智子さんをもうけた。第一映画では溝口健二監督の「浪華悲歌」などに出演、溝口監督の厳しい指導で「役は自分自身でつくり上げるもの」と体得し、女優として生きていく覚悟を固めた。

その後、東宝映画、新演技座結成(42年)を経て、劇団民芸の加藤嘉さんと知り合って再婚(後に離婚)。51年、民芸に入団、思想的に左旋回し「人民女優」とのレッテルを貼られて苦労した時期もあった。こうした中で57年、「蜘蛛巣城」など黒沢明監督作品に出演し、キネマ旬報女優賞を受賞した。

ほかに小津安二郎監督「東京暮色」、成瀬巳喜男監督「流れる」など主要な監督の作品に出ており、存在そのものが映画史だった。60年代に舞台女優へ転向、舞台の道を選んだ。

「男を食って大きくなった女優」ともいわれた。新派の花柳章太郎氏などとの交流から新派の女形芸を吸収した。このように新派から新劇リアリズムまで幅広い演劇体験を自分の芸に昇華、あでやかで、芯の通った舞台を務めた。

92年に旅行先タイで瑳峨三智子さんが急死したとき、舞台けいこ中だった山田さんは、「舞台を前に行くことはできません。それが私の宿命です」と女優魂を見せた。(編集委員 河野孝)

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