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いまIT起業家たちがはまるピアノレッスン

編集委員 村山恵一

ベートーベン、ショパン、シューマン……。いま少なからぬ日本のIT(情報技術)起業家たちが、名曲のピアノ演奏に打ち込んでいる。多忙なスケジュールをやりくりし、プロのピアニストのもとでレッスンに励む。名門サントリーホールでコンサートまで開いた。なぜ彼らはピアノにはまっているのか。

武村氏(右)のレッスンを受ける岩井氏

「シのフラット。そう。最後までペダルを離さないで。そうそうそう」

見晴らしのいい都内のマンションの一室。シューマンの「トロイメライ」を課題曲に、ピアノのレッスンが進む。「ちょっと間違いもありますね」。ときどき厳しいひと言が飛ぶ。

指導役はピアニストの武村八重子氏。国立音楽大学ピアノ科を卒業し、2000年にはウィーン国立音楽大学でディプロマ(修士)を取得した実力派だ。アルバムも4枚出している。

レッスンを受けているのは、高速メール配信やスマートフォン関連事業などを手がけるレピカ(東京・港)や、AR(拡張現実)サービスのアララ(同)を設立した岩井陽介氏。モバイルコンテンツサービスで知られるサイバードの創業メンバーでもあるIT起業家だ。

ピアノを始めたのは11年秋ごろ。「最初は楽しさがよく分からなかったが、1曲弾けるようになると楽しいですよね」。1回のレッスンは1時間半。仕事の合間をぬって2週間に1回ほど通う。

「武村メソッド」という指導法は独特だ。指1本1本に神経が行き届くように「脳を鍛える」のが基本。両手を使うだけではなく、時にはドレミを口ずさみながら鍵盤をたどる。

「みなさん右手、左手をばらばらに動かすなんてできないと思うでしょうが、単なる思い込み。パソコンが打てるということはピアノも弾けるんです」と武村氏。指と鍵盤の位置を目で追い、出てくる音に耳を澄ます。視覚、聴覚も全部使って脳を刺激する。並行して「これを弾けるようになりたい」という曲の練習もする。

岩井氏が語る。「ピアノを始めて、物事を考えるときなど、集中力がついているような気がします。ピアノはロジカルで、プログラムみたいなもの。そのロジカルななかに感情が入る。深いですね。アイチューンズなどでダウンロードして聴くと、同じ曲でも弾く人によってスピード、抑揚が違う。自分も感情を込めて弾くようになります」

そもそも岩井氏が武村氏のレッスンを受けるようになったのは、親しいIT起業家たちが挑戦していると知ったからだ。「周りが弾いているのを聞いて、悔しいな、僕もやりたいなと思ったんです」

 現在、武村氏のもとでピアノを習う起業家は、IT業界を中心に14人にのぼる。

そんな「ピアノの輪」が起業家の間に広がるきっかけをつくったのは、サイバードの共同創業者で社長の堀主知ロバート氏だった。

サントリーホールでピアノを演奏する堀氏

もともと何事にもチャレンジしたい性格。武村氏と知り合いだったこともあってピアノに取り組むことに。起業家仲間4人とともにレッスンを受け始めたのは11年春だ。楽譜も読めず、一本指で鍵盤を押さえるレベルからのスタートだった。

堀氏が選んだ曲はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」の2楽章。サイバードを興す直前のつらい時期、車の中などでよく聞き、心の支えとなった曲だ。「聞いた人が涙を流すような演奏をしたい」。高い目標を掲げた。

レッスンに通うだけでなく、自宅でも、家族があきれるほど練習に打ち込んだ。3カ月で一通り弾けるようになったが、そこでは終わらない。いろんな人の演奏を聴き比べ、タクシー、飛行機、風呂でも曲を聴いた。本人の思いを知ろうと、ベートーベンの本も読んだ。それでも思い通りの音を出すのは難しく、たったひとつの音の出し方に1カ月悩んだこともある。

11年11月には仲間5人でコンサートにも臨んだ。自分たちにプレッシャーをかけようと選んだ会場はサントリーホールの小ホール「ブルーローズ」。みな経営者として人前で話す機会が多く、ステージ慣れしているはずだったが、いざ演奏となると、堀氏も手や足が震えた。演奏後は5人とも子供のように晴れやかな表情になったという。

「僕たちの仕事はサービスやアプリをつくること。大事なのは製品の品質とその売り方、マーケティングの追求です。『本当にこれでいいのか』というこだわりが存在価値、使命だと思う。ピアノを弾きながらそれを学んでいます」と堀氏は話す。

レッスン2年目のいまも予定がない日は10時間以上をピアノの練習に割く。ベートーベンだけでは技法に偏りが出るからと、ショパンのワルツに取り組むが、「悲愴」の3楽章まで弾きこなすのが最終のゴールだ。

「ベンチャー経営者は寝ても覚めても仕事のことを考えている。静かなリゾート地で波の音を聞きながらリラックスというのは苦手。5分ともたない。そんな場所でも、あれこれ仕事のことを考えてしまって、脳が休まらない。だから強制的に頭から仕事を追い出せるくらい集中できるものを持つべきだと思うんです」。堀氏はピアノを始めて「脳のキャパ(容量)が増えた」と感じている。

武村氏の話。「経営者の方々は頭の使い方を知っていて、要領をつかむのもうまいので、瞬間的に集中力を高めることができる。ふつう脳の集中力の限界は1時間半なのに、ピアノを本気でやると最大3時間まで持続できるといわれる。みなさんをそこまでは連れて行きたいなと思っています」。優しくも厳しいレッスンは続く。

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