「工場」軽視が招いたセイコーの落日
産業部編集委員 安西巧

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2010/5/18 9:00
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この第二精工舎は1942年に長野県諏訪市の下請けメーカー「大和工業」と契約を結び、同地で腕時計の製造を始めた。戦火が激しくなった1944年には第二精工舎が会社ごと諏訪に疎開して諏訪工場を開設。戦後、大和工業と諏訪工場が合併して「諏訪精工舎」となり、これが1985年に社名を変更して「セイコーエプソン」となる。

現在エプソンの主力製品となっているインクジェットプリンターはもともと東京五輪の際、計時結果を即座に知らせるために開発した印刷機に由来する。諏訪精工舎は1968年に世界初のミニプリンターを売り出し、「EP-101」という製品名をつけた。その「EP」の「SON(息子)」という意味で「エプソン」という呼び名が生まれた。1969年に世界初のクオーツ式腕時計「セイコーアストロン」を開発したのも当時の諏訪精工舎である。

こうした華々しい技術の系譜にもかかわらず、グループ内で製造部門の地位は低かった。セイコーの系列各社では長らく「お店」「工場」という分類がなされていた。時計の企画・販売を主導する服部時計店(「お店」)が最上格にあり、製造部門の各社(「工場」)は「お店」の意向に従属するという考え方だ。

さらに、その工場にもランク付けがあり、精工舎(1996年にセイコークロック、セイコープレシジョンに分割)が「長男」で、第二精工舎が「次男」、そして諏訪精工舎が「三男」という順だったといわれる。

セイコーの時計事業は1980年代半ばをピークに長期低落に歯止めが掛からない。主因は「お店」が打ち出すマーケティング戦略の失敗。腕時計では従来の「中の上」クラス中心から高級化路線への転換にこだわってきたが、結局スイス勢の巻き返しで高級商品では牙城に食い込めず、中級以下の品々でも他の日本メーカーやアジア勢に後れを取ってしまった。

それでも「お店」が度重なる債務超過の危機を免れ、破綻にひんしたグループが救われたのはこの間、情報機器や電子デバイスなど周辺事業で必死に収益を支えてきた「工場」のおかげだった。

「1987年が分岐点だった」と多くのセイコーグループ関係者が異口同音に指摘する。この年5月にセイコー電子工業社長とセイコーエプソン社長を兼務していた服部一郎氏が、9月に服部セイコー会長だった服部謙太郎氏が相次ぎ亡くなった。両氏ともに製造部門の重要性を認め、特に一郎氏は求心力が働きにくい銀座(セイコー本社)と諏訪(エプソン)を結ぶキーマンだった。

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