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「工場」軽視が招いたセイコーの落日

産業部編集委員 安西巧

1969年12月25日、世界初のクオーツ式腕時計「セイコーアストロン」が東京・銀座の和光で発売された。価格は当時の小型自動車並みの45万円もしたクオーツ式誕生は世界の時計産業の勢力図を塗り替える出来事だった。

1970~80年代、「SONY」とともに世界で最も輝いていた日本発のブランド「SEIKO」。内外で抜群の知名度を持ち、セイコーエプソンのような世界的な「ものづくり企業」の生みの親でありながら、なぜ度重なる危機を克服できないのか。転落の道筋をたどると、「『お店』重視、『工場』軽視」の伝統の弊害が浮かび上がる。

成功の記憶はさほど古くはない。64年の東京五輪でセイコーグループは公式計時を担当し、世界に「SEIKO」ブランドをアピールした。さらに69年に世界初のクオーツ(水晶)式腕時計「セイコーアストロン」を開発・発売して市場を席巻、機械式で絶対的な優位を保っていたスイスの時計産業をグローバル市場の覇者の座から瞬く間に追い落とした。

だが、その後の凋落(ちょうらく)も早かった。高級化路線の失敗などから中核会社の服部時計店(服部セイコー、セイコーと社名を変え、現在はセイコーホールディングス=セイコーHD)は80年代末以降何度も債務超過寸前に追い込まれ、ついに先月末、創業一族が絡む役員解任劇でブランド・イメージが一段と失墜したのは周知の通り。成長から転落への浮沈はわずか40年余りの間の出来事だ。

セイコーの創業は1877年(明治10年)。古物商の息子だった服部金太郎氏(1860~1934年)が17歳の若さで東京・京橋に「服部時計修繕所」を開設したのが始まりだ。4年後に「服部時計店」に衣替えし、輸入時計の販売にも参入。1887年には銀座4丁目に店を移し、ここが現在も和光本店として小売部門の本拠となっている。

金太郎氏が日本の産業史に名をとどめたのは、舶来時計の販売業の成功に飽き足らず、製造業に手を広げ、国産時計の開発にまい進したからである。1892年に東京・墨田にあった旧ガラス工場を買い取り、製造会社の「精工舎」を設立。天才技師といわれた吉川鶴彦氏(1864~1945年)を技師長として迎え、柱時計の生産を始めた。

以後、国産初の懐中時計(1895年)、国産初の目覚まし時計(1899年)、国産初の腕時計(1913年)と名実ともに日本を代表する時計メーカーとして実績を重ね、1924年に初めて「SEIKO」ブランドをつけた腕時計を発売した。

金太郎氏が1934年に亡くなると、長男の玄三氏が後を継ぎ、服部時計店の2代目社長に就任。3年後に成長著しい腕時計の製造部門を「第二精工舎」(後のセイコー電子工業、現在のセイコーインスツル=SII)として分離、東京・亀戸に工場を置いた。

 この第二精工舎は1942年に長野県諏訪市の下請けメーカー「大和工業」と契約を結び、同地で腕時計の製造を始めた。戦火が激しくなった1944年には第二精工舎が会社ごと諏訪に疎開して諏訪工場を開設。戦後、大和工業と諏訪工場が合併して「諏訪精工舎」となり、これが1985年に社名を変更して「セイコーエプソン」となる。

現在エプソンの主力製品となっているインクジェットプリンターはもともと東京五輪の際、計時結果を即座に知らせるために開発した印刷機に由来する。諏訪精工舎は1968年に世界初のミニプリンターを売り出し、「EP-101」という製品名をつけた。その「EP」の「SON(息子)」という意味で「エプソン」という呼び名が生まれた。1969年に世界初のクオーツ式腕時計「セイコーアストロン」を開発したのも当時の諏訪精工舎である。

こうした華々しい技術の系譜にもかかわらず、グループ内で製造部門の地位は低かった。セイコーの系列各社では長らく「お店」「工場」という分類がなされていた。時計の企画・販売を主導する服部時計店(「お店」)が最上格にあり、製造部門の各社(「工場」)は「お店」の意向に従属するという考え方だ。

さらに、その工場にもランク付けがあり、精工舎(1996年にセイコークロック、セイコープレシジョンに分割)が「長男」で、第二精工舎が「次男」、そして諏訪精工舎が「三男」という順だったといわれる。

セイコーの時計事業は1980年代半ばをピークに長期低落に歯止めが掛からない。主因は「お店」が打ち出すマーケティング戦略の失敗。腕時計では従来の「中の上」クラス中心から高級化路線への転換にこだわってきたが、結局スイス勢の巻き返しで高級商品では牙城に食い込めず、中級以下の品々でも他の日本メーカーやアジア勢に後れを取ってしまった。

それでも「お店」が度重なる債務超過の危機を免れ、破綻にひんしたグループが救われたのはこの間、情報機器や電子デバイスなど周辺事業で必死に収益を支えてきた「工場」のおかげだった。

「1987年が分岐点だった」と多くのセイコーグループ関係者が異口同音に指摘する。この年5月にセイコー電子工業社長とセイコーエプソン社長を兼務していた服部一郎氏が、9月に服部セイコー会長だった服部謙太郎氏が相次ぎ亡くなった。両氏ともに製造部門の重要性を認め、特に一郎氏は求心力が働きにくい銀座(セイコー本社)と諏訪(エプソン)を結ぶキーマンだった。

 両氏に代わってこれ以後20年余りにわたってセイコーを率いてきたのが4月末の人事で和光会長兼社長などグループ要職を解任された服部礼次郎氏(89)。礼次郎氏は和光本店の改装や銀座並木通への新規出店(2008年開業の和光並木館)など「お店」のことばかりに熱心で、製造部門を含むグループ全体の改革・テコ入れは脇に追いやってきたようだ。元秘書室勤務から和光専務、セイコーHD取締役に引き上げ、今回礼次郎氏とともに解任された鵜浦典子氏(53)がグループ人事を牛耳っていたということ自体、「工場」軽視の伝統が払拭(ふっしょく)されていなかった証しといえる。

村野晃一前会長兼社長の解任を発表する服部真二新社長(4月30日、東京都千代田区)

創業一族でグループ改革に最も熱心だったのは謙太郎氏の長男の服部純市氏(59)といわれたが、その純市氏も2006年に「独断専行」を理由にSII会長を取締役会で解任され、経営の一線から退いている。今回、礼次郎氏に代わって事実上のグループ「総帥」の座についた服部真二氏(57)は純市氏の弟。経営体質改善の重責を担うことになるが、礼次郎氏と鵜浦氏の問題行為を「長年見て見ぬふりをしてきた」との関係者の指摘もあり、グループ内の求心力を回復できるかどうかには悲観的な見方も少なくない。

ただ、真二氏は2001年から2年間、精工舎の流れをくみ現在はカメラ用シャッターなどを生産するセイコープレシジョンの社長を務めた経験があり、在任中に事業部集約などに力を注いだ。折から、昨年10月にセイコーHDはSIIを完全子会社化し、セイコープレシジョンとの電子デバイス事業の重複解消などが課題になっている。真二氏のトップとしての力量を推しはかる試金石となりそうだ。

セイコーHDの株式時価総額は約430億円(14日終値)。一方、「三男」扱いだったセイコーエプソンは約2900億円で、いまや「生みの親」の7倍近い企業価値を有している。セイコーグループは企業同士に相互の資本関係が希薄で、服部一族個人やその資産管理会社が各社の株式を保有して関係を維持してきた。

アナリストの中にはこうした「資本政策」の不在が求心力を弱め、グループの発展を阻害してきたと指摘する向きもあるが、見方によっては、株式の持ち合い関係がなかったからこそ買収ファンドなどの餌食にならなかったともいえる。セイコーHDがエプソンの親会社だったら、株価低迷を機に買収攻勢が強まり、80代のトップが何年もぬるま湯状態の経営を続ける暇(いとま)はなかったはずだ。

叔父の脱線を修復し、曽祖父や祖父が敷いた「ものづくり」の系譜を再構築できるのか。再生を託された真二氏に残された時間は少ない。

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