/

「なにわ」ってどこのこと?(謎解きクルーズ)

エリア・イメージ、時代と共に変遷

演歌「浪花恋しぐれ」、漫画「ナニワ金融道」など大阪を舞台にした作品でしばしば登場する「なにわ」。大阪の別称としても一般に浸透している。でも、具体的に大阪のどこを指すのか。周囲の大阪出身者に聞いても「言われてみれば」と首をひねるばかり。気になって調べてみた。

まず区名に「なにわ」を冠する大阪市浪速区役所に聞く。担当者によると、1925年に区が新設された際、古代の博士、王仁(わに)が詠んだ和歌「難波津(なにわづ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」から区名を採ったという。

なにわとは同区の周辺のことなのか。尋ねると「それ以上はこちらも……」と困惑している様子。ここは歴史をさかのぼるしかない。

◎ ◎ ◎

大阪歴史博物館の大沢研一学芸員によると、なにわの語源には波が速い意の「なみはや」、魚(ナ)が捕れる庭(ニワ)など諸説ある。漢字表記も「難波」「浪速」「奈尓波」とバラバラだ。

なにわの名がついた最初の本格的な都市は、7世紀に朝廷が置いた「難波宮(なにわのみや)」だ。場所は今の大阪城公園の南隣。8世紀にも同じ場所に難波宮が置かれた。そこから上町台地にそって、四天王寺の周辺まで町並みが広がっていた。これが古代の「なにわ」の範囲だという。

朝廷がこの地に都を置いたのは、大陸との交易に都合が良かったからだ。当時は今より海岸線が陸地側に入り込み、上町台地も海の間近だった。王仁が歌に詠んだ「難波津」は現在の高麗橋付近にあったとの説がある。浪速区はまだ大半が海や砂州だった。

後期難波宮が8世紀後半に廃止されると、なにわの地は一度すたれる。次に歴史の表舞台に登場するのは16世紀。上町台地を気に入った豊臣秀吉が、小高い丘に大坂城を建てる。もともと「大坂」は城周辺の集落名にすぎなかったが、街の発展と共に全国に知られるようになる。

近世の町人の間でも「なにわ」が使われた。人形浄瑠璃「夏祭浪花鑑」、ガイドブック「浪華の賑(にぎわ)ひ」などだ。大沢さんは「上方の町人は和歌などの文芸に親しんでいたので、過去への憧れもこめていたのでは」とみる。

大阪の文化に詳しい評論家の河内厚郎さんによると、当時のなにわの範囲は今の天満、船場、島之内、さらに上町の一部や今の西区のあたり。つまり町人の生活圏だった。「大坂が城下町の面を象徴する名とすれば、なにわは町人文化を象徴する地名だった」と河内さんは解説する。

◎ ◎ ◎

だが近代に入ると、なにわの地理的概念はぼやけていく。それまで農村部だった周辺地域が人口増とともに都市に組み込まれていく。裕福な町人はより良い住環境を求めて郊外に移り住んだ。都市部の広がりと、なにわ文化の根っこを支えた住民の流出で「洗練された町人の街というなにわのイメージも変わっていった」(河内さん)という。

大阪屈指の繁華街である浪速区の難波(なんば)エリアも、もとは難波村だった。実は「浪速区史」によると、区名を「難波区」にする案もあったという。ところが「字が複雑」「発音しにくい」と住民から反発が起き、王仁の歌から区名を拝借し、浪速の字を当てることになった。すでに「なにわ」が地理的制約から逃れ、自由に使われていたことがうかがえる。

今では行政機関も「なにわ」を特定地域にとらわれず弾力的に使っている。大阪府が2005年から認定している「なにわの伝統野菜」には、高槻市の服部越瓜(しろうり)、府南部の泉州黄玉葱(たまねぎ)なども含まれる。担当課の職員は「伝統をイメージしやすい言葉として『なにわ』を採用したようです」と打ち明ける。

言葉に宿るイメージは時代とともに変わる。「なにわ」の範囲が時代と共に拡散していったように、今後も変化し続けるのだろう。

(大阪地方部 海野太郎)

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

関連キーワード

セレクション

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン
図表を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した図表はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン