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パ・リーグ「国民健康化大作戦」、ハーバードと連携

ITpro

2016年3月25日に開幕し、連日熱戦が繰り広げられているプロ野球。パ・リーグ6球団は今年、共同で新しい試みを始めた。産官学の知恵を結集し、IT(情報技術)を使って国民の健康増進を促すという挑戦だ。

3月30日に開始した、「パ・リーグ ウォーク」というスマートフォン(スマホ)向けサービスがそれだ。米ハーバード大学院の公衆衛生学研究チームの全面支援を受け、経済産業省が後援。数年がかりで人間の行動を科学的に分析し、超高齢化社会における健康のあり方を変えようと意気込む巨大プロジェクトだ。

「パ・リーグ ウォーク」の仕掛け人である根岸友喜パシフィックリーグマーケティング執行役員(左)と研究に協力するハーバード公衆衛生大学院 社会・行動科学学部博士候補生の林英恵氏(右)

『観る』と『する』の間にある大きな断絶

「スポーツの世界には『見る』と『する』の間に大きな断絶があった。新サービスでそれを埋めたい」。パ・リーグ ウォークの仕掛け人である根岸友喜パシフィックリーグマーケティング執行役員は、思いをこう吐露する。同社はパ・リーグ6球団の各種権利を取りまとめ、それを生かした有料ネット中継サービスを積極的に仕掛けてきた実績で知られる。

新サービスでは、一種の歩数計アプリをファンに無償配布し、日常生活で活用してもらう。一人ひとりが歩数を記録した結果を、応援するチームごとに積み上げ、試合日には相手チームと合計値を競い合わせる。頑張った人だけに選手からの応援メッセージが届くなど、継続を促す工夫をさまざま凝らす。

スマホを使った健康管理アプリが花盛りだが、パ・リーグ ウォークはリアルなスポーツイベントとシーズンを通じて連携し、数万人以上の規模でファンが同時参加して日々楽しめる点が新しい。歩いた記録は、スマホをポケットに入れておくだけで勝手に完了する。アプリを立ち上げると、1日の歩数や月間の合計歩数、同じチームを応援する参加者の中でのランキングなどが確認できる。

一人ひとりが毎日歩数を記録できるだけでなく、応援するチームごとにファンの歩数の総数を積み上げ、試合日には相手チームと合計値を競い合うことができる(提供:パシフィックリーグマーケティング)

「王さんのホームラン記録達成!」。続けることで、こんな画面が時々現れる。この場合は、元巨人の王貞治氏が打ったホームラン868本分だけ、ダイアモンド(1周当たり109メートル)をぐるぐる回るのと同じ距離(868×109=94612m)だけ歩いたということ。運動に関心がない人でも手軽に始め、楽しく続けられる。

「ゲーミフィケーションの要素を採り入れ、試合がある日もない日も楽しくなるように配慮した」(根岸執行役員)。例えば試合中は『ブースト機能』をオンにして、歩数を割り増しできる。試合の勝ち負けの経過とは別に、スタジアムで観戦するライバルのファン同士も試合中に合計歩数の積み上げで競い合えるわけである。

パ・リーグのファンは約1200万人いるとされ、熱心に応援する人だけで約300万人。スタジアムの観客動員数は年間で累計1000万人に及ぶ。ひいきチームへの「愛」にあふれたファンたちによる、もう一つの熱戦が今シーズンはあちこちで繰り広げられそうだ。

1200万人分の生の行動データ

単なるアプリの開発にとどめず、米ハーバード大学院の研究チームに支援を仰いだのは、スポーツを観戦して楽しむと同時に体を動かして健康になる試みは、必ずや学術的な意義があるはずだと確信したためだ。

根岸執行役員はつてを頼って渡米し、ハーバード大学院のソサエティ・アンド・ヘルスラボを訪問した。そこはハーバード公衆衛生大学院のイチロー・カワチ教授がリーダーを務めるラボ。同氏は「なぜ、ある社会の人々は健康で、ある社会の人々は病気になりやすいのか」をテーマに、20年以上研究してきた社会疫学の第一人者の一人である。

ラボのメンバーで、根岸氏を当時出迎えた林英恵氏は、「パブリックヘルス(公衆衛生)の研究を大きく前進させられると考え、その場で協力を決断した」と当時を振り返る。 林氏はハーバード公衆衛生大学院の社会・行動科学学部博士候補生として、公衆衛生学・行動科学に取り組む研究者だ。

応援するチームごとにオリジナルデザインの画面に切り替わる(提供:パシフィックリーグマーケティング)

パブリックヘルスは、日本では馴染みが薄い。科学的な裏付けによる政策や行動を変えるためのプログラムによって健康増進を図り、より健康で長生きする社会を作ろうという分野だ。

根岸氏と林氏らは、約1200万人ものスポーツに関心がある人々に関する"生の"行動データを匿名で数年間分析し続ける意義の大きさに意気投合。「熱狂的なファンもいれば、そうでないファンもいる。さまざまな行動パターンが浮き彫りになるだろうし、試合というイベントでどう行動が変容するのかも分かるはず」(林氏)と期待を寄せる。

日本は今、超高齢化社会をいち早く迎えている。ハーバード大学院の学者仲間の間では、日本社会におけるパブリックヘルスのあるべき姿を定義できるかもしれないと期待する声が大きいという。今後高齢化と向き合わなければならない世界各国の研究者たちにとっても大いに参考になるからだ。

林氏によると、平均して日本人男性は死を迎える前の9年間、女性は13年間、自立した生活を送ることができないでいる。家族や第三者の介助を必要とするわけで、健康に生きられる寿命と本当の寿命の間にギャップが生じている。また、現在日本で病気で亡くなる人の半数以上は、生活習慣病が原因だとも語る。

パ・リーグ ウォークの取り組みは、そもそも自然発生的に歩くことを促すものであり、今すぐ全国民の健康増進のために一役買うことができる。そこで得たデータを継続的に研究していくことで、いつか本当の寿命と健康に生きられる寿命を限りなく近づけられるかもしれない。後援する経済産業省も、こうした姿勢を評価したといっていい。

データ分析はカワチ教授をリーダーに、林氏、さらにハーバード大学医学大学院ブリガム・アンド・ウイメンズ病院予防医学科研究員で運動疫学に長年取り組む鎌田真光氏が加わる。「これだけ短い間に寿命が一気に延びた国は珍しい点からも、日本は世界の医療や予防医学研究者から注目を浴びている。日本人の行動の特性とパブリックヘルスの関連性もひもとけば、大いに刺激になる研究結果を提供できそうだ」(林氏)。

短期的な目標は、データを統計学的に分析するのに十分な母数を集めること。具体的には1球団2万人ずつ、合計12万人にアプリを使ってもらうことをまず目指す。試合前の練習時間に選手にロゴ入りTシャツを着てもらったり、スタジアム内にポスターを掲出したり、あの手この手で知名度を高めていく考えだ。

五輪開催してもスポーツ人口増えず

林氏は公衆衛生学・行動科学の研究が専門。データ分析はハーバード公衆衛生大学院 社会・行動科学学部学部長であるカワチ教授をリーダーに、林氏や、さらにハーバード大学医学大学院ブリガム・アンド・ウイメンズ病院予防医学科研究員で運動疫学に長年取り組む鎌田真光氏が加わる

長期的には、パ・リーグ ウォークの仕組みをプラットフォーム化する構想を描いている。根岸氏は「他のスポーツリーグから活用したいという声が上がれば、喜んでプラットフォームとして公開したい」と話す。利用者数が底上げされれば研究の意義がさらに高まるし、何より健康増進に対する理解を一人でも多く広められる。

折しも2020年の東京五輪を控え、スポーツに対する関心が高まっている。政府はスポーツ振興に力を注ぐが、真にスポーツを国民に根付かせるには課題もあると林氏は語る。「実は研究によると、シドニーやバンクーバー、ロンドンなど、五輪を開催した都市では、必ずしも五輪後にスポーツを『する』人口が増えたわけではない事実が浮かび上がっている」。

東京五輪の効果で、2020年前後には陸上やバスケットボール、テニスなど、メジャー/マイナーを問わずこれまで以上に競技を「見る」人は確かに増えるだろう。しかしスポーツを「する」人の数を底上げしなければ、スポーツは五輪による一過性のブームで終わってしまう。

「残ったのは巨大なスタジアムだけ」。国民の多くがそんなぼやきを五輪後にするようなら、せっかく五輪を誘致した意味は薄まってしまう。

「野球を見る」「体を動かして歩く」が表裏一体であることが、新しいパ・リーグ ウォーク。同じような取り組みが増えれば、本当の意味でこの国にスポーツが根付くに違いない。

(日経コンピュータ 高田学也)

[ITpro 2016年3月30日付の記事を再構成]

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