2019年9月23日(月)

彫刻家・流政之氏、「攻撃の美学」好きになれぬ(戦争と私)
戦後70年インタビュー、元零戦パイロット

2015/8/12付
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「サムライ・アーティスト」として世界的に有名な彫刻家、流政之氏(92)は元零戦パイロットで、戦没者を追悼する作品も多く手掛けてきた。瀬戸内海に面した高松市庵治町のナガレスタジオで、空に散った戦友への思いを聞いた。

――軍隊経験を教えて下さい。

流政之(ながれ・まさゆき)氏 長崎市生まれ。立命館大在学中に海軍飛行科予備学生になり、零戦パイロットとなる。戦後、彫刻家として世界的に活躍し、「サムライアーティスト」として知られる。「地方の助っ人」を自認し、離島や地方でも数多くの作品を手掛ける。92歳。

流政之(ながれ・まさゆき)氏 長崎市生まれ。立命館大在学中に海軍飛行科予備学生になり、零戦パイロットとなる。戦後、彫刻家として世界的に活躍し、「サムライアーティスト」として知られる。「地方の助っ人」を自認し、離島や地方でも数多くの作品を手掛ける。92歳。

「親父(おやじ)は立命館大学の創設者、中川小十郎で、私も立命館大に入れられた。もともとグライダーをやっていたこともあり、1943年に『日本危うし』との思いで第14期海軍飛行科予備学生になった。佐世保や土浦、筑波、霞ケ浦などを転々とした。本当は零戦のパイロットにはなりたくなかった。偵察機などは何人も乗員がいてさぼれるが、零戦は1人乗りだ。ところが試験を受けたら『戦闘機操縦士を命ず』と来た。なんとか免れようと抵抗したが、人相が零戦向きだという理由で『貴様は戦闘機だ』と言われた」

「最初から『お前らは死ぬんだ』と言われ、みんな帰ってこなかった。戦闘では、敵機が50機以上いて空が真っ黒に見えた。こちらは数が少なく、とても戦いにならないこともあった。もう逃げるしかない」

「零戦パイロットというと、悲惨な、悲壮なイメージが強いかもしれないが、実際には男たちがエンジョイしていた部分だってある。当時は夜間飛行したり、長距離飛行したりすると、別途、手当てが出た。で、実際には飛んでないのに飛んだことにしたりね。レーダーなどもそんなに上等じゃなかったから、ごまかせた。日本の軍隊はそんなに暗いばかりじゃなかったんだ。ただ、そこに『天皇陛下のために』という話が入るとおかしくなる。『気をつけ、礼。陛下のために』で、議論の余地がない。誰も『違う』とは言えなくなる」

「45年8月、広島に新型爆弾が落とされたとの情報があった。(元陸軍中将の)石原莞爾の『世界最終戦論』を思い出したね。それで状況がよく分からないから、広島を見てこいと命令を受けた。8月10日ごろに広島に入ったが、みんな原爆で焼けて灰色の世界だった」

――55年、初めての個展「飛行空間」で戦没パイロットを追悼した。

制作拠点の「ナガレスタジオ」で、戦死したパイロットを慰霊する作品「飛(とび)」を前に語る彫刻家の流政之氏(高松市)

制作拠点の「ナガレスタジオ」で、戦死したパイロットを慰霊する作品「飛(とび)」を前に語る彫刻家の流政之氏(高松市)

「軍隊では『航空』と呼ぶのに対して、私は『飛行』をテーマにしたんだ。東京に出てみると、駐留軍の米国人もたくさんいて、何か殺伐とした雰囲気があった。誰も飛行機乗りの追悼をしようなんてことは考えていない時代だった。『じゃあ俺がやらなきゃだめだ』と思って、日本軍だけじゃなく、米軍も含めて、戦争で死んだパイロットの弔いをしたんだ。国内ではあまり反響を呼ばなかったが、英字紙が『ゼロ・ファイター』の個展だと報じた。負けた国のパイロットとしては、おもしろい気分はしなかったが、それがきっかけになって米国でも名前が知られるようになった」

――60~70年代は米国で大活躍された。

「ロックフェラー3世夫人に作品を購入してもらったり、米国の美術館に作品が並べられたりと評価されるようになった。戦争で負けたという悔しさと同時に、米国にはあこがれのような思いもあって、必死で仕事をした。負けた国の軍人が、米国に乗り込んで活動するなんて、ほかにいなかったからね。米国でも尊敬された。ニューヨークに拠点を持って、67年には米タイム誌で日本を代表する文化人として、三島由紀夫、川端康成、丹下健三、黒沢明と一緒に紹介された。75年には世界貿易センターに7年の歳月をかけた作品『雲の砦(とりで)』が完成した。米国でお金もだいぶ稼いだ」

「でも日本に帰国したきっかけはベトナム戦争だよ。この頃、ニューヨークのダウンタウンで米国人の仲間たちと飲んでいて、議論になった。『東洋で戦争があるなら、俺は東洋の味方だ』と言って、『では戦場で会おう』という話になった。米国もおかしくなってきたな、と感じて帰国することにした」

――日本各地に戦没者を追悼する作品を作っている。

「2006年に北海道七飯町の流山温泉彫刻公園ストーンクレージーの森に、海軍飛行予備士官の青春をとどめようと『もどり雲』を建てた。ここでは同じ土浦海軍航空隊に所属した裏千家の前家元、千玄室氏と一緒に平和を祈る茶会もやった」

「学徒出陣した戦没者を追悼する作品を東京・明治神宮に作ってほしいという依頼もあったが、これは断った。東条英機の主導で、学生たちが行進した明治神宮外苑競技場は、ふさわしくない。これとは別に高知県大月町に学徒出陣した戦没者を鎮魂する作品『雲が辻』を作った。北海道奥尻島には、北方領土の国後島を脱出した人々が入植した歴史がある。あまり知られていないが、戦争による『難民』が日本にもいたんだ。望郷のモニュメントを奥尻島の北追岬公園に作った」

戦争への思いを語る流政之氏(高松市)

戦争への思いを語る流政之氏(高松市)

「代表作の『サキモリ』シリーズは内臓部分が空洞になった人型の作品だ。私が作るまで、そういうヌードはなかった。空洞の中に、生命とか夢を入れて考えるんだ。サキモリは文字通り『防人(さきもり)』が題材。防人は守る側で、自分から攻撃はしない。防衛する存在だ」

「少年時代、親父から古流武道を習わされた。武道には『受けてたつ』という武士道の思想がある。これも自分からは攻撃をしない。私が高松にいるのも、受けてたつ、の考えからだ。彫刻家として攻撃的に生きるなら、東京のような大都市に住めばいいんだ。攻撃の美学は好きになれないね。日本が再び武力の問題を考えるのなら、守ること、受けてたつことに、きっちりけじめをつけておかないといけない。そうしないと、また戦争することになる」(聞き手は大阪社会部、倉辺洋介)

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