画家・後藤靖香氏 「市井の息づかい」伝える(戦争と私)
戦後70年インタビュー
若手画家の登竜門とされる絹谷幸二賞を受賞するなど注目を集める画家、後藤靖香さん。大学卒業後、生まれ育った広島県を拠点に特攻隊員だった祖父や戦死した大叔父を題材にした「戦争画」を描いている。作品に込めた思いを聞いた。
――戦争画を描き始めたきっかけは。
「京都精華大芸術学部を卒業後、これから何を描いていくべきか悩みました。『自分が本当に描かなきゃいけないことって何だろう』と考えたとき、頭に浮かんだのが祖父や大叔父の戦争体験でした」

「祖父の家は広島市内の玩具問屋。大正15年(1926年)に生まれ、中学卒業後に幹部候補生として陸軍に入隊。特攻隊員として出撃する直前に終戦を迎えました。子供のころ、祖父の家に遊びに行くと、タンスの中にある軍服姿の祖父の写真などを見つけては祖母に当時のことを尋ねました。夏休みに祖父の家に泊まると、夜中に隣の部屋から『気をつけ!』という叫び声や軍歌が聞こえたこともあります。戦争が終わって40年以上が過ぎた当時も、祖父は戦時中の夢を見てうなされていたのだと思います」
「祖父の思い出はずっと心に引っかかっていました。ですが大学では戦争画を描くことはタブーのような雰囲気があり、私自身にもためらいがありました。卒業して自分と向き合ったとき、ようやく描きたい気持ちに素直になれました」
――最初に描いたのはどんな戦争画ですか。
「2005年に発表した『栗ごはん』という作品です。祖父が所属した特攻隊は戦闘機の零戦や人間魚雷の回天ではなく、『マルレ艇』と呼ばれる特攻用の木製ボート。1人乗りのベニヤ板のボートにバイクのエンジンを載せ、火薬をドラム缶に詰めて敵艦に突っ込むというものです。特攻に志願した祖父は訓練を重ねた香川県小豆島で島民から貴重な栗ごはんを振る舞ってもらった経験を聞かせてくれました」
「祖父はその後、北九州に派遣され、出撃命令を待ちました。『毎夕、翌日の天気を確認するのが日課。天気が悪ければ出撃せずに済む』と話してくれたのを覚えています。祖父はマルレ艇特攻隊の2期生でしたが、1期生は沖縄に出撃しほぼ全員が亡くなったといいます」
――その後も戦争画を描き続けています。
「祖父や大叔父の戦時下の青春への興味が膨らみました。私が子供時代を過ごした広島では夏になると原爆教育を受けます。原爆のアニメを見たりしながら、戦争は良くない、原爆は悲惨だと教わりますが、兵隊の人たちは悪く語られがちです。でも、家にある写真の軍服姿の祖父はキリッとしていて格好良い。そのギャップが埋められず、もっと彼らのことを知りたいと思いました」
――絵の制作よりも調査に充てる時間が長いとか。
「1枚の絵を仕上げるのにかかるのは3カ月程度。私の場合、調査8割、絵の制作2割です。あまり多くを語らなかった祖父のことを知るため、同じ部隊にいた戦友を訪ねたり、大叔父のことを知るため、役所で3親等以内に開示される『陸軍兵籍簿』を閲覧したり。戦死した状況は分かりませんが階級や入院歴、どんな戦地に派遣されたのかを知ることができました」
「13年にシンガポールのアートフェアに出展した『机上の空砲』は、日本占領下の現地の植物園で共に働いた国籍の違う3人の植物学者がモチーフ。日本人の郡場寛博士と英国人博士、マレー人の助手の3人が国籍を超えて協力し、植物園を守った史実を元にしました。郡馬博士のことを知るため、出身地の青森へ足を運んだり、シンガポールで追跡調査をしたりしました」

――これまで30点近い戦争画を発表していますが、直接的な戦闘や原爆の場面はありません。
「描きたいのは戦争そのものではありません。戦火の中を生き抜いた人々の日常や若者たちの青春です。広島は原爆投下後の『ヒロシマ』を中心に語られがちですが、原爆が落ちる前から広島には人々の暮らしがありました。戦後70年を迎えた今年は特に『原爆体験を忘れない』という強いメッセージがあり、原爆やその後の広島に注目が集まりますが、私はあまり語られない戦時下の人々の営みを絵画という形で伝えたいと思っています」
――今後の活動は
「広島市現代美術館で9月27日まで開催中の『ライフ=ワーク』展に3点を出品しています。『芋洗』は、小豆島での訓練の向かう輸送船内にいる祖父ら特攻隊員の姿を描いた作品です。9月には戦時下の画家に焦点を当てた作品をまとめた個展を大阪で開こうと考えています」
「戦時中、多くの画家たちが戦意高揚を目的とした戦争画を描きました。藤田嗣治や小磯良平のように従軍画家として戦地に派遣された画家もいますが、調べてみると、戦争画を描かないと決めた人もいれば、率先して軍に協力した人もいました。描きたいのにうまく当時の軍の施策に乗れない人もいるし、自分は絵では戦争に貢献できないと兵士として戦地に行く決断をした画家もいます」
「戦争にはもちろん反対ですが、『アーティスト=反戦を叫ぶ人たち』とひとくくりにする風潮には違和感があります。いろいろな考え方があって良い。それこそが平和であり、自由ではないでしょうか。私は戦時中の人々が何を考え、どんな日常を送ったのかを現地に足を運んだり、資料をひもといたりしながら描く活動を続けたいと考えています」
(聞き手は社会部、高岡憲人)