臨床試験基盤も投入、アップル「デジタルヘルス」の野望
宮本和明 米ベンチャークレフ代表
米Apple(アップル)は2014年9月、「Health」アプリを投入し、健康管理市場へ参入した。2015年に入って臨床試験基盤「ResearchKit」を発表し、医療研究を下支えするフレームワークを投入。時計型端末「Apple Watch」の販売も4月に開始し、健康管理で重要な役割を担う。Appleのデジタルヘルス戦略のストーリーがつながってきた。
臨床試験を支援するサービス
今、米国の医療現場でResearchKitが話題になっている。これを使えば簡単に臨床試験アプリを開発できるからだ。臨床試験に参加するモニターは、iPhoneでこのアプリを稼働し、身体情報を記録する。
具体的には、臨床試験アプリは健康管理アプリ「Health」が収集したデータを読み込み、モニターのアクティビティーや健康状態を収集する。医療機関はこれらデータを解析し、医療情報に関する知見を得る仕組みだ。
既に、ResearchKitで開発された臨床試験アプリが登場している。米スタンフォード大学医学部(Stanford Medicine)は、心臓の健康状態を解析するアプリ「MyHeart Counts」を開発した(下の写真、アプリ専用サイト)。このアプリはモニターの日常生活を監視することで、生活習慣と心臓疾患の関係を医学的に解明することを目標にしている。

実際にモニターになってみた
筆者も、このアプリを使った臨床試験に参加した(下の写真左側、アプリ初期画面)。こう書くと仰々しいが、誰でも簡単に参加できるのがこのアプリの最大の特徴だ。

まず、アプリで研究目的や注意事項を読み(上の写真右側)、同意書に名前をタイプするだけで手続きが完了する。大学病院に出向いて説明を受ける必要はなく、全てアプリで完結する。使用できるスマホは、「iPhone 5s」「iPhone 6」「iPhone 6 Plus」だが、既にApple Watch向け機能も実装されている。モニターは、身体情報を大学病院に"寄付"するが、その見返りとして心臓の健康状態を把握できる。
モニターはアプリが指定するタスクを実行し、アンケート調査に回答していく。アプリはiPhoneが内蔵するセンサーでモニターの動きを自動で把握し、収集したデータから、行動パターンや心臓の健康状態を理解する。
収集したデータは暗号化して送信され、名前はランダムに発生したコードで置き換えられる。身体情報を扱う研究なので、セキュリティーへの配慮は重要なのだ。一カ所、「収集したデータはスタンフォード大学以外でも使われる可能性あり」との記述が気になったが、ここは目をつぶってサインした。
アプリが読み込むデータ項目を設定
試験開始前に、アプリが読み込む身体情報のデータソースを指定する。上述の通り、モニターの行動は、iPhoneに搭載されている各種センサーで、自動的に収集される。センサーが収集したデータはHealthに格納され、これをアプリが利用する仕組みだ。

上の写真の左側がその設定画面で、Healthに格納しているデータの中で、アプリがアクセスできる項目を指定する。筆者は身長や体重などの基本情報のほかに、血糖値や血圧など健康診断情報へのアクセスも許諾した。最後に、アンケート調査に回答する。質問は、健康状態から家族の病歴まで広範囲に及ぶ。上の写真右側がアンケート調査の画面で、ここでは仕事と運動量についての質問に回答している。
試験中はiPhoneを携帯して生活するだけで、何も特別な操作は必要ない。iPhoneはズボンのポケットに入れるよう指定され、加速度センサーがアクティビティーや歩数を自動で計測する。一日が終わると、前日の睡眠時間など、簡単な質問に回答する。これで計測が終了し、その結果が円グラフで表示される(下の写真左側、下段)。円グラフの色が、アクティビティー項目(睡眠、座っている状態、運動している状態など)を示す。

アクティビティーや歩数は、上述の通り、健康管理アプリのHealthで収集される。上の写真右側がHealthアプリの「Step」画面で、一日の歩行数を示している。アプリはここから歩数などのデータを読み込む。
心臓年齢や病気にかかる確率を算出
計測は一週間続き、最後に「ストレステスト」が行われる(下の写真左側)。これは名前の通り、心臓に負荷をかけ、心拍数を測定して健康状態を算定するものである。モニターは三分間できるだけ早く歩き、アプリで歩行距離を記録する。

Apple Watchや他のウエアラブル端末で、歩行中と終了三分後の心拍数を計測する。アプリは年齢、性別、身長・体重に応じた歩行距離や心拍数をベースに、モニターのフィットネス状態を算定する。今回、テストした時点ではApple Watchは出荷されていなかったため、歩行距離だけが計測された。
アンケート調査「Heart Age」に回答すると、モニターの心臓年齢を算出(上の写真右側、サンプル)。心臓の健康年齢と病気(心臓疾患と脳梗塞) にかかるリスクの程度が表示される。このケースでは、62歳のモニターの心臓年齢は60歳と多少若く判定されている。病気発症の確率は6%と、目標値(7%) よりいい結果となっている。
ちなみに筆者は、病気にかかるリスクが標準より高いと判定された。健康状態をデジタルに示されるとインパクトが大きい。これを契機に、食生活の改善や運動の強化を考えているところだ。
試験は7日間続いてセットされ、それが三か月ごとに繰り返される。一週間の試験が終わると、アプリはモニターに対し、毎日運動するよう「コーチング」する。三か月後に、再度同じ試験を一週間行う。コーチングはゲームやメッセージなどで、アプリはどの方式が一番効果があるかを検証する。
データの"質"が議論に
スタンフォード大学は、アプリを公開してわずか24時間で、1万人が登録したと公表した。これだけの規模のモニターを募るには、通常50の医療機関で1年間募集する必要があるといわれるので、iPhoneアプリとHealthで臨床試験ができるようになったインパクトは大きい。
収集したデータはそのままクラウドに記録される。同大学は従来の紙ベースの臨床試験と比べ、はるかに効率的に知見を得ることができると評価している。
ResearchKitで開発したアプリを使った臨床試験に対しては、様々な意見が寄せられている。まず、モニターから得られるデータの"質"が議論となっている。iPhone利用者は高学歴・高収入という統計情報があり、臨床試験モニターはデモグラフィックス(人口分布)を正しく反映していないのでは、という疑問の声も聞かれる。
その一方で、FDA(米国食品医薬品局、新薬などの認可をする機関)はスマートフォン(スマホ)を使った臨床試験について肯定的な評価をしている。アプリを使った臨床試験で、医療技術が進むことを期待しているのだ。ちなみに、このアプリは医療行為にかかわるものではないため、FDAの認可は不要である。
パーキンソン病研究アプリも登場
MyHeart Counts以外にも、ResearchKitで開発されたアプリが登場している。その一つがパーキンソン病研究のためのアプリ「mPower」で、米ロチェスター大学(University of Rochester)と米Sage Bionetworksによって開発された。アプリで敏しょう性、バランス、記憶力、足並みを測定することで、日常の行動と病気の関係を理解する。

モニターはアプリを起動し、人さし指と中指で画面を早くタップしたり(上の写真)、マイクに向かって長く「アー」と発声する。敏しょう性や発声とパーキンソン病の関係を解析する。研究に寄与するだけでなく、モニターは自身の病気の予兆を早く知ることができる。
このほか、糖尿病研究のためのアプリ「GlucoSuccess」や乳癌研究のアプリ「Share the Journey」などもリリースされている。
IT大手企業がデジタルヘルスで競争
米Google(グーグル)は2014年7月、人体を研究するプロジェクト「Baseline Study」を開始した。Baseline Studyは175人の健康なモニターから遺伝子と分子情報を収集し、健康な人体の基礎情報を把握する。心臓疾患や癌の兆候を、早期に発見することが目的だ。
身体情報はウエアラブル端末で収集する。例えばGoogleが開発したコンタクトレンズを使うと、血糖値をリアルタイムで測定できる。測定したデータは、個人の遺伝子情報と共に、人工知能を使って解析される。健康な人体を定義し、医師は病気予防に重点を置いた措置が可能となる。Googleのほかにも、米Microsoft(マイクロソフト)、米IBM、韓国サムスン電子なども、デジタルヘルス分野で技術開発を加速している。
IT企業がデジタルヘルス事業を展開する背後には、テクノロジーの進化がある。プロセッサーやセンサー、人工知能の技術開発が進み、低価格で生体情報を収集・解析できるようになったのだ。
AppleはResearchKitで、Healthやウエアラブル端末を束ねるアプローチを取っている。ResaerchKitを使うと、病院や製薬会社は臨床試験を従来よりはるかに容易に展開できる。今回はiPhoneで身体情報を収集するケースを紹介したが、やはり最適なデバイスはウエアラブル端末で、Apple Watchを見据えた設計となっている(下の写真)。

Apple Watchが持つ機能は現在、心拍数の計測に留まるが、将来は幅広い生体情報を収集できるようになる、と期待されている。医療現場では、ResearchKitは医学研究にインパクトを与える画期的なツールとして評価が高まっている。
米ベンチャークレフ代表 1955年広島県生まれ。1985年、富士通より米国アムダールに赴任。北米でのスーパーコンピューター事業を推進。2003年、シリコンバレーでベンチャークレフを設立。ベンチャー企業を中心とする、ソフトウエア先端技術の研究を行う。20年に及ぶシリコンバレーでのキャリアを背景に、ブログ「Emerging Technology Review」で技術トレンドをレポートしている。
[ITpro 2015年4月15日付の記事を再構成]
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