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「売れないなんて口が裂けても言えなかった」

iモードと呼ばれる前(6)

日経エレクトロニクス
いまやインターネットを利用する際に、最も身近な端末となったスマートフォン(スマホ)。そのスマホが、米Apple(アップル)の手によって2007年に初めて発売される約8年も前。携帯電話のインターネットサービスを世界に先駆けて事業化したのがNTTドコモの「iモード」である。「スマホの原型」とも言える、この日本発のサービスの普及は、予想をはるかに超えるペースで進み、1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大ヒットとなった。今回は、日経電子版創刊5周年企画「『ネット20年』その先へ:iモードと呼ばれる前」(オリジナルは日経エレクトロニクスに2002~2003年掲載)の最終回である。

「ぴ、Pちゃん?」

松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チームの主任技師(当時)の和田浩美は、企画とデザインの担当者たちを前に、後ろにのけぞらんばかりに驚いた。松下通信工業のイメージ・キャラクターである「Pちゃん」のアニメーション画像を、携帯電話機の待ち受け画面で動かしてほしいとの申し出だった。

「いやいや、そう簡単に言いはりますけどね。私ら毎日、時間が足らへんってヒイヒイ言ってるんですよ」

和田はここ半年、休みといえるほどの休みを取った記憶がなかった。目前に迫った正月も、元日を自宅で過ごせたら奇蹟と思えるほど、仕事は山積していた。

「ほら、かわいいでしょ。鳥です。ピーピー鳴く鳥ちゃんですわ。それとPanasonicのPで、Pちゃんやて。こりゃええわ。ほんま」。担当者は喜色満面で、和田にPちゃんのデザイン画を差し出した。

「まぁ、そう言われると、確かに愛嬌たっぷりやけど…」

和田が遊び心旺盛な人間であることは社内でよく知られている。つい最近も、携帯電話機の待ち受け画面にGIF画像を張るという斬新なアイデアが社内外で大好評を得たばかりだ。次はその画像を動かしてほしいというわけだ。

携帯電話の画面でPちゃんを動かしてほしいという要求が降ってわいた(写真:山田哲也)

「和田さん、いつも言うてるやないですか。ケータイには顔が必要やって。携帯電話機を起動するたびにPちゃんが動いてれば『このケータイは松下の製品や。ほかのとは違うんやで』って強くアピールできますよ。理屈やなくて、なんか楽しいやないですか。こんなアイデア、きっと他社では出ませんわ。差をつけましょうよ」

「他社との差」。この言葉に和田は弱かった。一瞬にして負けん気がむくむくと頭をもたげ、スケジュールのことなどどこかへ吹き飛んでしまった。

「そやね。ブラウザーも独自開発やし、ウチらはこれまで他社がやってへんことにチャレンジしてきたもんね。よし、やったるわ。きっと誰か、手伝ってくれるやろ。時間はつくるもんやし」

「誰がやるんですか」

「ほら、Pちゃんやて。どう、動かしてみたくなったやろ」。和田は早速、開発メンバーに話を持ち掛けた。

「へぇ、ほんまかわいいですねぇ。で、誰がやるんですか。ムリムリ、僕は絶対無理ですわ。分かっとる思いますけど」

「……」

和田は、Pちゃんのデザイン画を片手にオフィスに立ち尽くした。部屋の中には各人が必死にキーボードをたたく音だけが響き渡っていた。ただでさえスケジュールは、目も当てられないほど遅れている。今更仕事を追加できるほど、余裕のある技術者などいるはずもなかった。リーダーである和田の申し出とはいえ、できないことはできない。技術陣の反応は恐ろしく冷たかった。

「もうええわ。自分でやる」

開発部隊を率いる立場にあるとはいえ、和田も元来は第一線のソフトウエア技術者である。業務に忙殺される昼間はダメでも、睡眠時間を削れば何とかなる。和田は聞こえよがしに宣言した。

誰もいない深夜のオフィス。和田はねじり鉢巻きでパソコンに向かった。

「久しぶりやなぁ。自分でソースコードを一から書くなんて」

気が付けば、いつしかたくさんのプログラマーを社内外に抱え、人を動かしてモノを作ることが多くなっていた。和田はかつて自分がどれほどソフトウエア作りに入れ込んでいたかを、今更のように思い出した。次第に和田は時間を忘れ、プログラミングの楽しみに没頭していった。

――「ほら見て、Pちゃんが動いたで。私だってできるんや。みんなも、技術者の『ど根性』見せたろうやないの」

和田は赤い目をしばたたかせ、自慢げに出来栄えを開発メンバーに見せて回った。

和田の「ど根性」は、後に業界にちょっとした波紋を広げることになる。Pちゃんを動かすために作製したGIF画像のアニメーション表示機能は、NTTドコモの眼鏡にかない、次世代機の標準機能として採用されるのだ。そんな将来を知るすべもなく、和田はひと仕事を成し遂げた満足感にひたった。

ヒロスエの手には…

発表会に広末涼子を登場させた(写真:柳生貴也)

1999年1月25日。札幌のオフィスでパソコン画面を見つめた和田は、氷のように固まってしまった。画面いっぱいを占めるインターネットのニュースサイトから目をそらすことができなかった。大写しになった写真に広末涼子の笑顔がまぶしい。片手には黒光りする携帯電話機。

この日、東京・原宿にあるイベントホール「QUEST HALL」でNTTドコモは新しい携帯電話サービスを披露するプレス発表会を開催した。満を持しての発表である。「iモード」を世に知らしめる一大イベントだ。

実はiモードを紹介する発表会はこれが2回目である。松永真理が自著「iモード事件」で述懐するように、1度目の発表の出来は散々だった。「会場には人の数より空席のほうが目立ち、座っている人たちの間には白々とした空気が流れている」。

その分、この時のイベントはNTTドコモ始まって以来の華やかさを極めた。会場は400人近い報道陣で埋め尽くされた。最前列には新聞や雑誌のカメラマンがすし詰めで陣取り、最後尾には各テレビ局のカメラがずらりと並んだ。NTTドコモのCMキャラクターの広末涼子が登場するからだ。

NTTドコモ(当時)の松永真理氏(写真:柳生貴也)

早稲田大学に入学が決まった直後の彼女を目当てに、ワイドショーや週刊誌の記者までが押し寄せた。一般の関心を引き付けたい――こう考えたNTTドコモの榎啓一や松永真理の策略はまんまと成功した。広末を前面に押し出して親しみやすいイメージを作り出した。

「……」

会場の熱気を伝える記事を目にして、和田は悔しさに唇をかみ締めずにはいられなかった。写真の中の広末涼子が手にした携帯電話機は、サービス開始に唯一間に合った端末だった。ニュースサイトによれば、2月22日に発売されるという、富士通製の「F501i」である。この日の会見では、NECと三菱電機も試作機を展示したらしい。しかし記事のどこを探しても「松下」(当時)の2文字は出てこない。試作機どころか、社名すら会見で触れられることがなかった。

それもそのはずだ。和田から見ても、自社の開発の進捗状況は、開いた口がふさがらない惨憺(さんたん)たるものだった。和田の周りでは、いまだ取りきれぬバグに、技術者たちが悪戦苦闘していた。それどころかこの期に及んでも、さらに新しい機能の実装が進んでいた。自社で開発中のブラウザーで、各種の日本語文字コードを表示できるようにしようというのである。

NTTドコモの公式サイトで使用する文字コードは「シフトJIS」。これだけでなく、パソコン向けのWWWサイトで使われている「JIS」や「EUC」も表示できたら便利だ。和田らはサイトの文字コードを自動的に判別して対応する機能をブラウザーに盛り込もうとしていた。

当時、和田ら開発陣は、ソフトウエアのコーディングを担当する松下システムエンジニアリング(当時)の札幌支社に缶詰め状態だった。作業は毎日深夜2時過ぎまで続いた。その後は明け方5時まで開いているJR新札幌駅前の居酒屋「白木屋」か「魚民」に繰り出し、夕食をつつくかたわら再び議論に花を咲かせた。

NTTドコモのイベントのニュースに、和田は冷水を浴びせられた気がした。連日の作業でたまった澱(おり)のような疲労が、一段と重くのしかかる。松下通信工業(当時)は、交換対抗試験の段階では他社に先駆けて一番乗りだった。NTTドコモの担当者は満面の笑みで喜んでくれた。それなのに、製品についてはいまだに発売時期を決められる状況ではない。和田はやり切れない思いで、会場の様子を映した写真を見つめ続けた。

それぞれの1月25日

NTTドコモの発表会場にも、しきりに歯がみする人物がいた。三菱電機 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センターで技術第一部長(当時)を務める濱村正夫である。濱村の口からため息がもれる。本当ならば、自分にとっても晴れの一日になるはずだったのに…。

発表会場は400人近い報道陣で埋め尽くされた(写真:柳生貴也)

記者でごった返す場内が一瞬、漆黒の闇に包まれた。突然、スポットライトがステージ上の暗がりを丸く切り取る。榎や松永らが緊張の面持ちで壇上に登場した。まばゆいばかりのフラッシュがたかれ、榎らの顔が照り映える。

聴衆の視線を一身に浴びて、榎はステージの中央に歩み出る。そしてテーブルを覆う布に手を掛けた。

「ではご紹介いたします。iモード対応の新しい携帯電話機です」。司会者のひと言に合わせて、榎が布をさっと取り外した。派手な音楽とともに、F501iが姿を現した。

「ちょっと大げさ過ぎますよね」。照れながらも榎は、うれしそうにF501iを手にした。

「デザインでは負けてない」。濱村は腕を組んでじっとライバル製品をにらみつけた。濱村はこれまで「富士通には先を譲るな」と開発現場にげきを飛ばしてきた。その目標の達成はすんでのところで泡のように消えた。

「iモード端末の普及台数は、どのくらいになるとお考えでしょうか」。質疑応答に入ると、記者からの鋭い質問が榎に浴びせられた。

「初年度で200万~300万くらいでしょうね。3年後には1000万件の加入を目指します」

榎によると、この数字には全く根拠が無かったという。あらかじめ広報担当者と示し合わせた想定問答集にも無かった項目だ。当時、携帯電話の加入者数は全事業者を合わせても約4000万。いきなり榎の口から飛び出した1000万という数字に、場内がざわついたのも無理はない。突飛なサービスである上に、この時点で発売が決まっている機種はF501iしかない。ざわめく記者の中には、眉に唾をつける者も少なからずいた。

濱村は、榎の発言がいま一つ説得力に欠けたことの責任の一端が、自分にもあることをひしひしと感じていた。本来は今日のイベントで、三菱電機製の端末も製品として紹介される予定だった。ところがソフトウエアの完成度がいま一歩及ばず、最後までNTTドコモの許可を得られなかった。濱村は、2月22日の富士通製端末の発売になるべく遅れずに製品を投入することを、自らに誓った。

「2月中の発売だけは何としても実現しなければ」。悔しさとやるせなさを胸に、濱村は会見の様子を目に焼き付けた。

同じく1999年1月25日。NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平は、相変わらず無くならないバグに、この日も気をもんでいた。イベントのニュースをチェックするどころか、他社の動きに注目している余裕すらなかった。西山の視野にあったのは、度重なる延期の末に決まった3月の納期を遵守することだけだった。

皮肉にも当時、NECの社内では西山が率いるiモード向け携帯電話機の開発チームに対する評価が上がり始めていた。1月に入ってNTTドコモが、発売を見越してiモード対応携帯電話機の発注を始めたからだった。月に10万~20万台という単位で注文を受けてからというもの「海のものとも山のものともつかない」と酷評されていたのがウソのように、急速に期待が膨らんでいた。

それがなおさら西山を追い詰めた。一日も早く、製品ができましたとNTTドコモに報告したい。そう力めば力むほど、現状が重く西山にのしかかった。新聞にも目を通さず、西山は仕事に没頭した。

「ウチのケータイが映ってる」

「よーし。ウチのケータイをヒロスエが持ってるぞ」

富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二がイベントの様子を知ったのは、翌朝のテレビ番組でだった。F501iを持つ広末涼子の姿が、各局のニュースやワイドショーで放映されるのを、チャンネルを切り替えて何度も確認した。

最初は現実味のなかった映像に、ようやく違和感が消えたころ、胸の奥底から熱いものが込み上げてきた。

富士通が開発に参加したのは他社に大きく水をあけられた後だった。他社に遅れないように、NTTドコモに迷惑を掛けないように製品を出すことを何より優先してきた。

それがどうだろう。富士通が間に合わせなければ、1月25日というタイミングで会見は開けなかったようだ。NTTドコモの榎は、本部長あてに感謝の電子メールまで送ってきたという。

片岡にとって、NTTドコモの依頼に応えられただけでも十分満足だった。その上、自社の製品だけをマスコミが大きく取り上げた。ヒロスエの顔と並んだ黒い筐体の輝きは、片岡の想像をはるかに超えた極上の報奨だった。

土壇場でのトラブル

会見直後の1999年2月。三菱電機の濱村が待ちに待った日がやって来た。NTTドコモの担当者を交えた、端末の立ち会い検査の日である。立ち会い検査で問題が無ければ、いよいよ発売の許可が下りる。準備にぬかりはない。発売はもう決まったようなものだった。

濱村の机上の電話が突然鳴り響いた。検査のために東京に派遣した技術者からだった。相手の上ずる声の調子を聞いた瞬間、濱村の脳裏に嫌な予感が走った。

1999年1月の発表時に複数端末の投入を予告していた

「どうした?」。濱村は恐る恐る聞く。

「立ち会い検査、ダメでした」。技術者は早口で濱村に報告した。20人がそれぞれ携帯電話機を持ち、一斉に電子メールを送るテストをしたところ、電子メールが戻ってきてしまう携帯電話機があったという。

「……」

濱村は絶句した。これから不具合の原因を探し出して、ソフトウエアに修正を施す時間を考えたら、2月中の発売は絶望的だ。

濱村は頭の中で最悪のシナリオすら描き始めてしまった。バグの発見に手間取れば、3月の発売すら危うくなるかもしれない。しかしそれだけは絶対に避けたかった。

濱村には上司との約束があった。遡ること1年と数カ月。どうしてもiモード向け携帯電話機を開発したかった濱村は、本部長に直訴した。その時、次年度で携帯電話機を予算以上に売ってみせるから、その分を見越して開発費を出してほしいと頼み込んだのだった。3月に発売できなければ、年度内に携帯電話機を売り出すもくろみは水泡に帰す。濱村の顔が蝋人形のように青ざめた。

「もしもし、濱村ですが…」。濱村は身も細る思いで本部長に報告の電話をかけた。激しい叱責の言葉を覚悟して。

次なる目標に向け挑戦を続ける

「濱ちゃん、サイコロの振り方、間違ってへんか?」。電話の向こうで、男は落ち着いた抑揚で言った。三菱電機 取締役 通信システム事業本部長(当時)の中西道雄である。

「えっ。サイコロですか…」

濱村は、土壇場で致命的な過失が発覚したことに対し、中西が怒鳴り声を上げることも覚悟していた。予想に反した中西の冷静な返答に驚きながらも、懸命に言葉の意味をかみ砕こうとした。

「ええか? ぎょうさんのメールを1つの基地局に一遍に送ろうとすれば、メールは我先にと競争する。だからサイコロ振って、こっちで順番決めたらなあかんのや。それができてへんから、うまくいかんのと違うか。そうやろ」

中西は自信に満ちた口調で濱村を諭した。濱村にとっては、まさに目からウロコのアドバイスだった。

本部長の大ヒット

「こりゃ、もしかしたら本部長の大ヒットかもしれない」

1つの基地局に対し、複数の携帯電話機から同時に電子メールが送信されると、基地局で衝突が生じて端末に処理が戻ってくる。携帯電話機は組み込んだソフトウエアで乱数を発生させ、電子メールを再び送信するパケット通信チャネルをずらす。このとき乱数がうまく生成できていないと、異なる端末が同じチャネルに電子メールを送出し、何度やっても電子メールが衝突してしまう。

不具合の症状から見ると、乱数を発生させるソフトウエアにバグがあるというのが、中西の判断だった。中西の主張には説得力があった。衛星通信の技術畑を歩んできたベテランで、パケット通信技術に精通しているからだ。

濱村は電話を置くとすぐさま大部屋の技術者たちに招集をかけた。

「お前ら、全員ケータイを両手に持ってそこに並べ。早く、早くしろ」

昼食から戻り、机に向かっていた技術者たちは濱村の尋常ならざる興奮ぶりを察して身をすくめた。不具合が見つかったことは既に全員知っている。雷が落ちる。一同神妙に席を立った。

「早くしろ。お前はそこだ。違う、1列に並べ、全員オレの方を向け」。20人の技術者たちが、言われるままに濱村の前に整列した。

「いいか、今から俺が手をたたくから、その合図に合わせてメールを送れ。同時にだぞ。遅れるな」

「3、2、1、送れ!」。濱村がパチンと手をたたき、技術者たちは一斉に携帯電話機の送信ボタンを押した。

一瞬の沈黙。そして数人の技術者が恐る恐る手を挙げた。「ダメです。やっぱり戻ってきます」

何度やっても同じことだと、暗い雰囲気が辺りを包み込んだ。居並ぶ技術者を見つめ、濱村がニヤリと微笑んだ。

「まぁ、そうがっかりするな。なんでうまくいかないか。原因は多分…」

濱村の口から、中西に聞いた内容が技術者に伝えられた。濱村の話が終わる前に、勘の良い技術者が1人、2人と次々に自分の席に駆け出していった。

――同じ日の夕刻。技術者から濱村の元に、不具合を発生させていたバグを発見したとの一報が入った。中西の予想は的中した。濱村は事務椅子に深々と腰掛け、ほっとため息をついた。

ソフトウエアを修正し、ROMに焼き付ける作業を考えれば、 2月中の発売は不可能だ。それでも中西の指南に助けられ、何とか年度内の発売は実現できるだろう。

「まぁ、これで良しとしよう」。何度も繰り延べになったゴールが、今度こそ間近に迫ったことを察し、濱村はささやかな解放感を味わった。

低調な1カ月

1999年2月22日。「iモード」はひっそりと産声を上げた。広末涼子の登場にあれだけ沸いたマスコミも、サービスの開始自体を取り立てて話題にすることはなかった。数十社のコンテンツプロバイダーをそろえたとはいえ、得体の知れないサービスであることには変わりなく、ましてや端末が富士通製の「F501i」1機種とあっては、ニュースバリューを疑問視されても不思議はなかった。

iモード開発の軌跡1
iモード開発の軌跡2

1カ月たっても状況は好転しなかった。1999年3月23日付の日経BP社のWWWサイト「NE ONLINE」の記事にこうある。「NTTドコモのiモード、最初の1カ月は低調」。3月18日時点での契約数は全国でわずか1万4000。1月25日の発表会でNTTドコモ ゲートウェイビジネス部の榎啓一がぶち上げた目標からは絶望的なほど懸け離れていた。

「あなた、初年度で300万台売るって言いましたよね」

榎は、記者の取材を受けるたびに販売台数について詰問された。誰が見ても榎が記者会見で発表した300万台という数字は実現不可能に見えた。榎は笑顔で質問に応じながらも、心の中では冷や汗をかいていた。記者会見の席でとっさに口にしたひと言を、人知れず思い起こし青ざめてしまったこともある。

それでも榎は持論を曲げなかった。

NTTドコモ(当時)の榎啓一氏(写真:的野弘路)

「当時、僕の周りで支えてくれていた人たちのことを考えると、売れないなんて口が裂けても言えなかった。携帯電話機はNTTドコモがメーカーに発注してこちらで買い取るわけですから、メーカーにとってNTTドコモはお客さん。こちらの言うことは何でも聞いてくれる。でも、メーカーの開発者にだって社内での立場がある。『売り出したものの、コスト割れで赤字でした』なんてこっちが言ったら、風当たりが強くなることは目に見えている。夏野さんの言葉を借りればみんな腹をくくって同じ『ドロ舟』に乗ってくれているわけです。だから絶対に売れると言い続けました」

榎らは信じた。サービスが世の中に認知され、端末の種類が増えていけば、必ずどこかで流れが変わると。

予想をはるかに超えて

1999年3月24日。NTTドコモはiモード対応携帯電話機の第2弾を投入した。今度は2機種同時である。製品化の瀬戸際で不具合が発覚した三菱電機製の端末に、後手に回っていたNECの開発が追い付いた格好だ。

このころから、風向きが変わり始める。対応機種が3つに増えた直後の1999年4月。iモードの契約数は一気に1ケタ上に跳ね上がる。4月23日付のNE ONLINE記事。「NTTドコモによれば、4月22日時点での累積加入数が11万を超えたという。1カ月間で約10万の契約を獲得したことになる」。

1999年5月20日。NTTドコモは松下通信工業製の携帯電話機「P501i」を発売した。サービスが始まってから3カ月が過ぎていた。

501iシリーズ

この端末の登場が決定打になった。P501iの発売を機にiモードの契約数はウナギ登りに増え始める。5月16日に18万5000台だった契約数は、それから3カ月経たない8月8日に100万を超えた。10月に200万を超えたころには、厳しい記者の叱責はいつしか賞賛の声に姿を変えていた。

結局、榎の口を突いて出た300万という数字はうそにはならなかった。それどころか、サービス開始から約1年間で、契約数は400万を突破した。

その後のストーリーは、エレクトロニクス業界に身を置く者ならば誰でも知っている。iモードは、1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大輪の花火になった。

派手な舞台の裏側で

「やっぱり、技術者こそが華なんです」。iモードの立役者の1人、松永真理は当時をこう振り返る。松永や榎、夏野といったNTTドコモの面々は、彼女らを支えた無数の技術者の努力を今も忘れていない。

「富士通が端末を間に合わせてくれたおかげで2月中にサービスを開始できた。本当にありがたかった」

こう語る榎は、長い間、富士通製の端末を自分用としてボロボロになるまで使い続けた。松永が今でも目頭を熱くするのはNECで端末の強度試験に立ち会った時のことだ。

NTTドコモ(当時)の松永真理氏(写真:栗原克己)

「すみません。端末の落下強度に問題があります。液晶画面を大型化したため、ディスプレー部分の強度が保てないんです。やり直しさせてください」。NECの担当者は、床に落とし、破損した端末を松永に見せた。

「やめてよ。そんなことしたら、どんな機械だって壊れるに決まってるじゃない。もういいかげん…」

「ダメです。このままでは御社の仕様を満たせません。やり直しです」

長年、出版畑を歩んできた松永にとって、信じられないかたくなさだった。傷ついた端末を前にして、松永ですらいたたまれない思いに包まれる。手塩にかけた製品を自らの手で破壊する技術者が平静でいられるはずがない。それでも一片の妥協も許さない技術者の姿勢に、松永の心は打ち震えた。

技術者に終わりはない

iモードを作り上げた無数の技術者は休む間もなく前進を続けている。

「実は、501iの開発後期には、徐々に『502i』という声も聞こえ始めていたんです」。何とか三菱電機と同じ日の発売にこぎ着けたNEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平はこう語る。

「出荷が終わって少し休みをもらいましたが、502i、503iとずっと開発が続きました。501iほどではありませんでしたが、それぞれの難しさがありました。501iが終わって、ほっとする暇はなかったです」

西山らのたゆまぬ努力はその後、大きな実を結ぶことになる。NECはN501iでこだわった2つ折りの筐体や大画面のディスプレーを後継機種でも引き続き打ち出した。iモードの浸透につれて、2つ折り端末の優位性が認められ、 2001年度についにNECは出荷台数で念願のトップシェアを獲得した。一度確保したトップの座を堅持すべく、西山らの奮闘は続いている。

他のメーカーの開発陣もNECに負けてはいない。iモード対応携帯電話機の投入で一番乗りした富士通は、その後もいち早く新世代の製品を投入するメーカーとして、名をはせている。「イージーセレクター」などの特色でユーザーを引き付けた三菱電機は、アンテナを本体に内蔵するなど他社にない独自路線を歩むことで、強いメーカーの一角を成している。

サービス開始の1年半前、iモードの方向性を決定付けたNTTドコモの永田清人とACCESSの鎌田富久は、再び開発で手を組んだ。永田が責任を持つ第3世代携帯電話機「FOMA」の技術開発に鎌田は惜しみない協力を申し出た。2002年9月に、ACCESSはNTTドコモと共同でFOMA向けのブラウザーを開発したと発表する。

ACCESSの鎌田富久氏(左)とNTTドコモの永田清人氏(右)(写真:栗原克己)

「iモードという新しい試みに向けてブラウザーを開発した思い出は、今でも印象が強いです。でも、僕ら技術者は過去を振り返ってばかりもいられません。常に誰も知らない最先端の分野でしのぎを削るのが技術者の醍醐味ですから」

鎌田はこう言って、にっこりと微笑む。

誰かが使ってくれている

松下通信工業もまた、携帯電話機開発の最前線で他社に譲らぬ活躍を続けている。シェアでこそNECの逆転を許したものの、業界最薄の製品を投入するなど、その実力は今も衰えていない。何よりもiモードを立ち上げたのは、松下が手掛けた端末だったのだから。

P501iが発売された直後、この製品のソフトウエア開発部隊を率いた松下電器産業の和田浩美は、久しぶりに夕闇が迫る前に家路を急いでいた。開発に着手してから1年間というもの、こんなに早い時間に家に戻れたことは無かった。

「キーン、コーン、カーン」

JR京橋駅と京阪電鉄京橋駅とを結ぶコンコースで夕刻を知らせる鐘が鳴る。駅の構内は帰宅する学生や会社員、待ち合わせのOLでごった返していた。

雑踏の中を急ぎ歩いていた和田の足がふと止まった。見慣れた携帯電話機を持った若者のカップルが目の前に立っている。女性が手にした携帯電話機を恋人らしき男性がのぞき込んでいる。2人は壁に寄り掛かり、談笑を始めた。

「あ、おまえ、これPやんか。かっこえーなぁ」

和田の心に温かい気持ちが満ちてくる。

「ほんまに使うてくれてるんやぁ」。和田はうれしさに目を潤ませながら、2人が改札の向こうに消えるまで見送った。

「あ、もうこんな時間や」

カップルを見送った和田は、腕時計を見て急に走りだした。今日は家族に重大な報告がある。会社から1週間の休暇をもらえることになったのだ。

「夢にまで見たフィジーに行ける」

ほおを火照らせた和田は、足取りも軽やかに、風のように改札口をくぐり抜けていった。(完)

(文中敬称略)

(日経エンタテインメント! 白倉資大)

[日経エレクトロニクス2003年2月3日号と2003年2月17日号の記事を基に再構成]

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