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「例の件、絶対に社外に漏らすな」

iモードと呼ばれる前(4)

日経エレクトロニクス
いまやインターネットを利用する際に、最も身近な端末となったスマートフォン(スマホ)。そのスマホが、米Apple(アップル)の手によって2007年に初めて発売される約8年も前。携帯電話のインターネットサービスを世界に先駆けて事業化したのがNTTドコモの「iモード」である。「スマホの原型」とも言える、この日本発のサービスの普及は、予想をはるかに超えるペースで進み、1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大ヒットとなった。日経電子版創刊5周年企画「『ネット20年』その先へ:iモードと呼ばれる前」(オリジナルは日経エレクトロニクスに2002~2003年掲載)では、iモードを事業化にこぎ着けるまでの技術者たちの奮闘を描いた開発物語をお届けする。

1998年4月。東京・品川。京浜急行・青物横丁駅の前には、昔ながらの商店街がにぎわいを見せている。改札を抜けて10分。立ち並ぶ住宅の間に台形状の巨大な建造物が姿を現す。松下電器産業・マルチメディアセンター(当時)の近未来的な外観は、下町情緒の漂う中でひときわ異彩を放っていた。

「うわー、大盛況やな」

松下電器産業のマルチメディアセンター(当時)

松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)(当時)の田中康宣は、会場に足を踏み入れるなり、我知らず口走った。100人近い参加者で混み合った場内に身を潜らせる。

この日、インターネットの標準化団体W3C(World Wide Web Consortium)は、この場で「W3C Mobile Access Workshop」を開催した。田中はこれまでにも何度かW3Cのワークショップに参加した経験があったが、今回ばかりは場内の熱気が違って見える。

ブラウザーを搭載する携帯電話機の試作が佳境に入り、多忙の最中にあった田中だが、この場にだけは駆け付けずにはいられなかった。何しろ、携帯電話機向け記述言語の標準の座を争う2つの陣営の代表が直接相まみえるのだから。

会場で配られた冊子には、そうそうたるメンバーが発表者として名を連ねている。WAP陣営からは、WAP フォーラム、米Unwired Planet(当時)、フィンランドNokia(ノキア)といった主要なメンバーが軒並み顔をそろえた。田中らが肩入れするCompact HTML側では、生みの親であるACCESSの取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久が登壇する予定だ。

NTTドコモ(当時)の夏野剛氏(写真:柳生貴也)

そしてもう1人、NTTドコモが送り込んだ夏野剛は後に田中の度肝を抜く。そんなこととはつゆ知らず、両陣営の勢いを見極めようと身構える田中は、会議の開始を固唾を飲んで待った。

携帯メーカー5社が協力

会議はWAP陣営の講演で幕を開けた。Unwired PlanetのPeter Kingが壇上に立つ。題目は「Technical Issues with the Wireless Web」。

「携帯電話機は、バッテリー容量やCPUの能力、メモリー容量に制限があるツールだ。そのまま既存のインターネットにつなげることは経済的なメリットに乏しく、無意味とさえいえる。HTMLではモバイルの世界になじまない。WAPのように携帯電話機の特性に合わせた独特な仕組みが必要不可欠だ」

Kingは拳を振り上げてまくし立てた。米国人らしい堂に入った態度に、聴衆はぐいぐいと引き込まれた。発表が終わると、会場からは詳細な説明を求める質問が矢のように飛んだ。

後を受けて演台に登った鎌田の背筋もまた、鋼のようにピンと伸びていた。「Compact HTML for Small Information Appliances」と題し、携帯電話の世界にもあくまでもオープンな標準規格が必要だと主張する。HTMLの優位性を語る鎌田からにじみ出る自信は、事実に裏打ちされていた。鎌田がW3Cの会議で初めてCompact HTMLのアイデアを語ったのは1年前の1997年2月。そのころと比べると、何もかもが違う。Compact HTMLはもはや絵に描いたもちではない。1998年末の製品化に向け、対応する携帯電話機の開発が粛々と進んでいる。

鎌田はCompact HTMLを「オープンな規格」と言い切るだけの根拠も手にしていた。1997年末から1998年1月にかけて、鎌田はCompact HTMLを標準規格にするための作業に没頭した。W3Cに標準として認めてもらえるように、Compact HTMLの仕様を詳細に記述した規格案を作成し、共同提案者になってくれる企業集めに奔走した。

ここで鎌田を助けたのが、Compact NetFront Browserの搭載に向けて苦楽を共にしてきた各メーカーの技術者たちだった。自社内でW3Cの窓口になっている担当者に、提案の内容を説明したり、携帯電話機事業担当の取締役などに提案メンバーへの参加を認めるよう根回しをしてくれた。

その努力が実り、NEC、三菱電機、富士通から快諾を得た。ブラウザーの開発ではACCESSとたもとを分かった松下通信工業(当時)も、親会社の松下電器産業(現パナソニック)が名を連ねることになった。

もう1社、鎌田が声を掛けたのがソニーである。当時CDMA方式の携帯電話機を製造していたソニーは、鎌田の提案には直接関係がないにもかかわらず、快くメンバーになることを了承してくれた。鎌田の唯一の心残りはNTTドコモだった。移動機技術部の主幹技師(当時)だった永田清人の異動をきっかけに、鎌田が提案メンバーに一番加わってほしかったNTTドコモの賛同を得る道は途絶えた。

1998年2月9日。NTTドコモの協力は得られないまま、ACCESSほか5社は連名で、W3Cに提案書を提出した。その2週間後、2月24日にW3Cは提案を正式に受理し、WWWサイト上で公開を始めた。

強烈な援護射撃

W3Cのワークショップの議論の行方を決定的に方向付けたのは、鎌田の次に登場したNTTドコモの夏野だった。さらりとあいさつをし、流暢な英語で弁舌をふるい始める。

夏野は「DoCoMo's Gateway Service」と称し、計画中のコンテンツサービスの概要を惜しげもなく披露した。ネットバンキングやゲーム配信、チケット予約といった具体的なアプリケーションが次々に示される。夏野の説得力あふれるプレゼンテーションと、聴衆を圧倒する不思議な能力に、田中は感動した。夏野が言う通りの時代が来る。そう信じずにはいられなかった。

「ありとあらゆるものがつながっていくこと。これこそ、今後の情報通信社会に求められる課題だ。そのためにはHTMLを使う以外にあり得ない。HTMLを使えばWWW上に存在するあらゆるコンテンツ資産を使える。携帯電話だからといって、WAPのようにプロプラエタリー(専用)な言語では普及は見込めない。今やHTML は加速度的に広まっている。誰でもHTMLで簡単にコンテンツを書ける時代だ」

実は夏野は、以前からさまざまな場でHTMLの優位性を語っていた。NTTドコモに転身する以前から、インターネットビジネスの世界にどっぷり漬かってきた夏野は、HTMLを使わなければ機器の普及はおぼつかないことを肌で感じ取っていたのである。

NTTドコモでゲートウェイビジネス部を率いる榎啓一らも同意見だった。iモードのコンテンツを開発するゲートウェイビジネス部は、既に後戻りが不可能なほど、Compact HTMLの仕様に深くかかわっていた。それなのに鎌田の標準化の提案に乗らなかったのは、彼らの意見が必ずしもNTTドコモを代表するものではなかったからである。社内にはいまだにWAPを支持する声が根強く残っていた。実際この年、NTTドコモはWAPフォーラムへの参加を表明することになる。

もともとNTTドコモの社員でなかった夏野は、そんなことにはおかまいなしだった。講演を終えた後も、夏野の鼻息は収まらない。質疑応答に移るとすぐに、外国人の男性が、英語で質問を投げ掛けた。田中の目には、相手はWAP陣営の1人だと映った。夏野はおじけづくどころか、水を得た魚のように応じ始めた。

次第に両者は興奮し、いつの間にか机を挟んで口角沫(あわ)を飛ばすディベートが始まった。夏野は手馴れた様子で、反論を続ける。どんな反論を仕掛けられても、夏野は全く動じない。攻撃をたくみに擦り抜け、ひと回り大きな声を張り上げて逆に相手をやり込めた。米国で教育を受けた夏野にとって、こうしたディベートはお手のものだ。テーブルに軽く腰を掛け、相手の目を真正面から見据えて語る夏野の姿が田中の目に鮮烈に焼き付いた。

「すごい男がドコモにはいるんやなぁ」。田中が思わず口にしたひと言は、その場にいた聴衆の思いを代弁していた。

大部屋に技術者を集めろ

「よし、この広さなら使える。全員ここに集めるぞ」

同じころ、大阪・尼崎の三菱電機では、通信システム統括事業部 移動通信端末事業センターで技術第一部長(当時)を務める濱村正夫の威勢の良い声が響き渡っていた。新たな年度を迎え、後発で開発に参入した三菱電機でもいよいよ実作業がスタートした。

濱村は、ブラウザーを搭載する携帯電話機の開発チームの作業場としてふさわしい場所を探していた。総務部に出した条件はただ1つ。とにかくガランと広いことだ。濱村にあてがわれたのは、それまで研修室として使われていた殺風景な部屋だった。建物の一番端にあり、決して便の良い場所とはいえなかった。それでも濱村は満足だった。本当に広かったからだ。

「いいねぇ、広さはどのくらいあるんだ」。総務部の担当者を濱村は振り返る。

「えー、200平米くらいやったと思いますよ。とにかく広い所ゆう話やったんで」

「オッケーだ。やっぱりこのくらい広くないとダメだよな。よし。早速全員引っ越しさせてくれ」。山ほどのダンボール箱や机、パソコンなどを携えて総勢30人に及ぶ技術者が建物のあちらこちらから異動してきた。

「どうだ、広くて気持ちいいだろう」。荷ほどきをする技術者たちに濱村は声を掛けて回った。

「パーティションなんて要らないぞ」。気を利かせたつもりで「机と机の間のついたては」と聞いた技術者に、濱村は即座に答えた。

「いいか、オレは大部屋が好きなんだ。みんなの顔が見られる環境でなきゃ、いい仕事なんてできるわけないだろ」

威勢良く振舞う濱村も、内心では不安を抱えていた。「この素人集団で、大丈夫だろうか…」

濱村がここまで「大部屋」にこだわったのには理由があった。部員の間のコミュニケーションを円滑にして、互いに助け合う環境をつくることがどうしても必要だった。実は、濱村の下に集まった技術者のほとんどは、携帯電話機部門に配属されて1年未満の「新人」だったのである。

三菱電機は、好調な携帯電話機事業の強化を目指して、1年ほど前に社内公募で技術者を増やした。希望者は上司に知られることなく、直接人事部門に異動願いを出せる仕組みだった。採用が決まった場合、元の上司に拒否権はない。社内からは予想を大幅に上回る数の応募が殺到した。みんな携帯電話機の将来性に期待している人材ばかりだ。

濱村は面接官として人選に参加し、約30人の新人を獲得した。キャリアはともかく、やる気がある人材が欲しい。今の部署が嫌だから異動を望む人間は要らない。濱村は徹底して技術者の意気込みにこだわった。実際、各技術者の経歴はというと、重電や半導体プロセス、ソフトウエア、生産技術とバラバラだった。

こうして獲得した人材はこの1年間、パワーアンプ、パケット通信、ベースバンド、ソフトウエアなどそれぞれが配属された現場で経験を積んできた。それでも「ベテラン」と呼ぶには程遠く、新人の域を脱していなかった。

ブラウザーを搭載する携帯電話機の開発に新人があてがわれたのには理由がある。当時、PDC機の売り上げは絶好調だった。勢い、その開発部門には社内でもえりすぐりの専門家が集まり、互いにしのぎを削るエリート集団と化していた。このまま高い成果を残し続けるためには熟練した技術者を、海のものとも山のものともつかない製品の開発に使うわけにはいかない。こう会社は判断したのだ。ブラウザーを搭載する携帯電話機の開発に許可を与えた会社だったが、まだその将来性については認めていなかった。

「そりゃそうだな」。会社の判断に対し、濱村に異論はなかった。まぁ、見ていてほしい。きっと考えが変わるから。大部屋に集まった技術者の目の輝きを見て、濱村はふんどしを締め直した。

首はタテに目玉はヨコに

1998年の夏。サービス開始まで数カ月に迫り、現場の慌ただしさは日増しにつのっていった。榎らゲートウェイビジネス部は、iモードの枠組みに乗ってくれるコンテンツ提供者を着実に集めていた。夏野のたくみな話術に幻惑されたかのように、都市銀行などの手堅い企業さえもが次々に協力を申し出た。

NTTドコモ(当時)の榎啓一氏(写真:的野弘路)

一方で、遅れに遅れているのが端末の開発だった。6月にも実施するはずだった交換対向試験はいまだ始まらず、携帯電話機のモックアップすらない。このままでは年末商戦に間に合わせるという計画の実現は絶望的だった。いつサービス延期の決定が下されてもおかしくなかった。

そんな中、榎は新事業の将来性を関係各社に説明して回っていた。メーカーの開発現場が血のにじむ思いで作業を進めていることは分かっている。ただし、会社として今回の開発にそれほど大きな期待を寄せていないことも事実だった。「大きな市場があるとは到底思えない」「売れてもせいぜい年10万台だろう」。そんな本音が榎の耳にも漏れ伝わってきた。

どんなに榎がかき口説いても、なかなか理解は得られなかった。まだ先の見えない新事業に対して、疑いの目を向けられることは日常茶飯事だった。

「たとえ首は縦に振っていても、目玉が横に動いている人もいた」。榎は、こう表現する。

東京・御成門の松下通信工業(当時)

その日、榎らは東京・御成門にある松下通信工業を訪れた。役員用の応接室で出迎えたのは、松下通信工業の代表取締役社長である川田隆資と、同社 取締役 パーソナルコミュニケーション事業部長である桂靖雄だった。

持ち前の飄々とした態度で、榎は事業の将来性やコンテンツの集まり具合を語った。

「恐らく何台売れるという話もしたと思う。はっきりとした数字は覚えていないが、初年度で数百万台を売り上げると言ったかもしれない。必死だったから…」

悠然と構える桂は満面の笑みで応じた。「お話はよく分かりました。もちろん精いっぱい協力させていただきます」

シェア第1位の携帯電話機メーカーの事業責任者にそう言われて、榎はどんなにほっとしたか知れない。

「今日は、お昼をご用意させていただいてますんで、ゆっくりしてってください」

桂が促した先のテーブルには、昼食が用意されていた。豪華なカツ重だったと榎は記憶している。ぜいたくで、おいしい食事を出してもらった。そんな印象が残っている。

桂は照れながら反論する。。

「そんな大層なものじゃなかったですよ。単なる出前のカツ丼でした」

パーより上を目指す

NTTドコモ R&Dセンター

NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平は、京浜急行電車の三崎口行き快速特急に乗っていた。ひざの上にはアタッシェケースに見える箱がある。周囲の目に隠されたその内部には、交換対向試験に使う試作ボードが入っていた。人目を気にせず持ち運べるように、わざわざふたを付け、カバンに見えるように工夫した。

西山が向かう先は神奈川県の三浦半島にある横須賀リサーチパーク(YRP)。NTTドコモの担当者との打ち合わせだった。ようやく試作ボードが交換対向試験に使える水準になってきたのである。

「とにかく通らなかった」

西山が当時を振り返る時、表情は険しくなる。試作ボードに搭載したCompact NetFront Browserからプロトコルスタックを介して無線のシミュレーター、サーバーへとつなぐ試験を社内で何度も重ねてきたが、どうしても成功しなかった。シミュレーターを使って成功しなければ、実際の交換機と接続する交換対向試験には当然臨めない。試験が失敗するたびに西山らは血眼になってバグを探した。

数台ある試作ボードの1つはACCESSにも預けてあった。昼夜を問わず、西山の携帯電話が鳴った。どうしても通らないから持って帰って検査してほしいという連絡が、ACCESSの開発担当課長である大城明子から頻繁に入った。

快速特急の揺れに身を任せながら、西山は気分を切り替えた。恐らく試作ボードの完成では他社に遅れを取っただろう。しかし、製品の投入では必ず鼻を明かしてみせる。

NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平氏(写真:栗原克己)

いつからか、開発中の製品は「バーディー」というコード名で呼ばれるようになっていた。ゴルフ用語のバーディーである。パーより上を目指そう。もう1つ上を狙おうという発想から出た言葉だった。当時、NECは携帯電話機の販売シェアで松下通信工業に次ぐ第2位だった。この状況を覆そうとの思いがコード名には込められていた。

まだモックアップも完成していない段階だったが、西山には確かな手応えがあった。この製品でトップシェアに立てるかもしれない。何しろバーディーには他社の製品にはない大きな特徴があるのだから。

「1番になりたい」。YRPからの帰路、西山は1人、夜景を見つめながら思った。

対向試験、1番乗りは…

「そっかぁ。今日は試作ボードと一緒やから、タクシーに乗れるんやね。うれしいなぁ。ほんと、いい日やわ」。1998年8月27日。交換対向試験に1番乗りしたのは、松下通信工業だった。この日の朝、試作ボードを抱えた同僚たちを従えて、1人の女性が東京駅からタクシーに乗り込んだ。

目指すのは、四谷にあるNTTドコモの試験施設である。

「いよいよやねぇ。ホンマ、長かったわ。まだ終わりやないけど」。窓の外を過ぎ去る、早朝の四ツ谷駅を見ながら、女性は明るく微笑んだ。

1998年8月27日。東京・四ツ谷駅前。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で、松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チームの主任技師・和田浩美(当時)は、窓外の雑踏に目をやった。ひざの上には厳重に梱包された試作ボード。配送業者の手に委ねて、万一何かあっては取り返しがつかない。常に関係者が手運びすることが義務付けられた「宝物」だった。

和田が臨むのは待ちに待った交換対向試験。NTTドコモ側の応対から、和田は松下通信工業が一番乗りで試験にこぎ着けたことを半ば確信していた。

「あー、動かへんかったらどうしよう」。和田は車中の同僚たちに明るく語り掛けた。その笑顔は、内に秘めた後ろめたさと裏腹だった。当初、NTTドコモが提示した計画では、交換対向試験は6月~7月の間に実施することになっていた。既に予定から2カ月も遅れている。

松下電器産業のマルチメディアセンター(当時)

その責を和田に問う者がいたわけではない。何せ和田が今回の開発に参加したのは、わずか4カ月前の4月のことだった。同じ情報第3チームの主席技師(副参事)・田中康宣から作業を引き継ぎ、携帯電話機に搭載するブラウザーの開発を託された。それまで和田は、松下電器産業の研究所で、電子メールの送受信が可能な携帯機器向けのソフトウエア開発を担当していた。

着任から4カ月。これほどの短期間で交換対向試験までたどり着けたのは、和田の経験からすると奇跡とも思われた。しかしそれは納品先のNTTドコモに対して何の言い訳にもならなかった。研究所に身を置く自分たちはまだしも、事業サイドの人間には大きなプレッシャーがかかっていることは容易に想像できた。

そんな圧力から、極力和田たちを遠ざけてくれたのが、松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)(当時)の加藤淳展だった。加藤は、今回のソフトウエア開発を統括し、NTTドコモに開発の進捗状況や納品の時期を伝える役割を担っていた。

「そっかぁ…」

松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)(当時)の加藤淳展氏(写真:周慧)

交換対向試験を当初の計画通りに実施するのは難しいと、和田が加藤に伝えた時、加藤は理由も聞かず、ただこう繰り返すだけだった。加藤はいつも温厚な口調で和田に語り掛けた。和田の報告より前に、加藤から尋ねることは一度としてなかった。和田ら開発陣が、寝る間も惜しんで作業を続けていることを、加藤も十分分かっていた。

もちろん、NTTドコモに開発の状況を報告する窓口の加藤が、作業の遅れを追求されていないわけがない。加藤の態度が優しければ優しいほど、その裏にある苦労がうかがえ、和田は胸を痛めた。

「あ、和田さんあれですよ」。同僚の声で前を向くと、NTTドコモの施設が見えてきた。

「和田さん、頼むよぉ。信じてるからね」。前日の電話で、加藤に言われたひと言が、和田の耳にこだました。

「メール、送っちゃおうか」

タクシーを降りた和田たちを、NTTドコモの担当者がロビーで出迎えた。

NTTドコモの担当者は、開発の遅れに苛立つそぶりも見せず、この日を待ち望んでいたと喜ぶ。いつも飾らず元気な担当者に、和田らは好感を抱いていた。

和田ら4名が通されたのは、地下2階のガランとした広い部屋。携帯電話網の基地局などの機器が棚に詰まれ、整然と並んでいる。人気を感じさせるのは、折り畳み式の長テーブルと一式のパイプいすだけだった。

松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 ソフトウェア技術部 ソフトウェア5課(当時)の村本武志が、早速試作ボードをテーブルに置き、基地局との間をケーブルでつなぎ始める。この日の試験では、試作ボードと基地局の間は無線ではなく直接ケーブルでつなぐことになっていた。試験の目的が無線通信ではなく、電子メール送信に必要なアプリケーションレイヤーのソフトウエアとHTTPをつかさどるソフトウエアの動作確認だったからである。

あわせてコンテンツを閲覧するブラウジング機能のテストもできるに越したことはなかったが、ブラウザーの開発に一から取り組んでいた松下通信工業にそこまでは望むべくもなかった。

村本は試作ボードに電源の安定化装置をつなぎ、コンセントにプラグを差し込んだ。スイッチを入れると試作ボードの液晶ディスプレーに起動を知らせる文字が浮かぶ。村本はほっと胸をなで下ろした。出来たての試作ボードは、いつ動かなくなってもおかしくなかった。

この日の試験では、試作ボードはケーブルで接続した基地局からDoPa回線を経て、東京・神谷町にあるNTTドコモの施設につながっている。神谷町の施設に設置されたサーバに電子メールが無事に届けば、交換対向試験は成功裏に幕を閉じることができる。

「どうやるの。どうやるの」。村本がセッティングを終えると、NTTドコモの担当者は、触りたくて仕方がない態度もあらわに村本に語り掛けた。猛スピードで間に合わせた試作ボード。ボタンを押す順番を間違えただけで、動作が停止する可能性もある。まずは、操作の「作法」を知る村本が手本を示すことにした。

村本は、小さな液晶画面をのぞき込みながら、作業を進める。最初の関門はDoPa網への接続だ。村本が幾つかのボタン操作を終える。一同は、液晶画面を食い入るように見つめた。突然、画面が変わった。DoPa回線に接続中の表示が映し出される。

「DoPa、通った。オッケー、オッケー」。その後も、数々の試験項目が、着々とクリアされていく。

「HTTPもつながったよ。よーし」

確認を要する項目は、50に及んだ。電子メールを送信する前に、山ほどチェックすべき点があった。一喜一憂を繰り返すうちに、次第に一同の緊張はほぐれ、心地よい疲労感が漂い始めた。

「ねぇ、もう、送っちゃおうか」。口火を切ったのはNTTドコモの担当者だった。

「え。メールをですか? まだそこまで行ってないですけど」。和田ら一同、目を丸くした。

「いーよ、もう。もしうまくいかなかったら、どこが問題なのか後から調べればいいじゃない。大丈夫でしょ。あ、ひょっとして自信ないの」

「何ゆうてるんですか。もちろんいけますよ」

売り言葉に買い言葉。和田はつい口走ってしまった。大丈夫と太鼓判を押せるほどの確信はなかった。しかし技術者のプライドが、「できません」とは言わせなかった。どの道、ジリジリと縄を締め上げるようなテストを続けるよりも、今ここで白黒はっきりつけてもらったほうが早く楽になるというものだ。和田は覚悟を決めた。

「じゃあ、思い切ってメール、送ってみようか」。担当者のひと言に、和田らは大きくうなずいた。

マ・イ・タ・ケ?

「メール、誰に送ろうか」。NTTドコモの担当者は周囲の顔を見回す。村本がすかさず名乗りを上げた。

「僕の会社のアドレスに送りましょう」

早速村本は、試作ボードのキーボードをたたく。電子メールの内容は「1234567890」という数字の羅列。うまくいけば、これがiモード・メールの第1号になる。

「準備、できました」。村本はNTTドコモの担当者の顔を見た。一同、黙ってうなずく。

「よし、行けー」

担当者の掛け声に合わせて村本が送信ボタンを押した。待つこと数秒。試作ボードの画面には送信完了を伝える文字が出た。

「……」。室内に沈黙が広がる。一同は互いの顔を見合わせて反応をうかがった。

突然、「わー」という叫び声が部屋中に響き渡った。内線電話のスピーカーからである。神谷町の担当者と会話するために、回線をつなぎっ放しにしていたのだ。

慌ててNTTドコモの担当者が神谷町のスタッフに話し掛ける。「どうした、何事だ?」

「あの、急にメールが…」。神谷町のオフィスが驚きに包まれるのも無理はない。まだ誰も使うはずのないサーバに、予告もなくいきなり電子メールが飛び込んで来たのだから。

「それ、誰あてのメールだ?」

「えっとー」

もしこれが、村本が自分あてに送った電子メールであれば、交換対向試験は大成功だ。村本…、村本…、和田はこの名前が呼ばれるのを待った。

「…ま、まいたけさんです」

「まいたけ?」

全員、拍子抜けした。試験は失敗したのか、成功なのか。中途半端な気持ちのまま、NTTドコモの担当者はスピーカーに問い掛けた。

「誰だ、まいたけって、村本さんじゃないのか」。声を荒げて確認を促す。

 緊迫した空気の中で1人だけ、顔を赤らめて黙っている人間がいた。「まいたけじゃなくて、エムタケですよ。きっと…」

村本がボソリと言った。村本のメール・アドレスは、村本の「m」に武志の「take」をつなげた「mtake」だったのだ。

「あ、そうでした。エムタケさんです」

スピーカーからこう返答があった瞬間、一同は笑いに包まれた。みんな涙が出るほど大声で笑った。その涙は、試験が無事成功した喜びの証しでもあった。

資格試験は、もう終わりました

「実は松下さんのボードで試験が終わったんですよ。これから御社のボードでも試験するかというと…。もう時間がないんでねぇ」

NECの西山耕平は、NTTドコモの担当者の発言に、なすすべもなく肩を落とした。半分予期していたとはいえ、現実を目の当たりにすることはつらかった。

松下通信工業が交換対向試験を実施した直後。西山は必死の思いで作り上げた試作ボードを、横須賀リサーチパークにあるNTTドコモ 移動機開発部に持ち込んだ。そこで西山を待っていたのは、松下通信工業に後れを取ったという厳然たる事実だった。

本来ならばNTTドコモも、数社のボードで交換対向試験を実施した方が確信を持てる。それすらもできないほど、NTTドコモの開発陣も、のっぴきならない状況に追い込まれていた。交換対向試験が遅れれば、NTTドコモが用意するサーバーの開発が間に合わなくなる。端末の開発を指揮する移動機開発部には、コンテンツ担当のゲートウェイビジネス部から連日矢のような催促が飛び込んでいた。

「そうですか…」。もはや西山は、現実を受け入れてその場を立ち去るしかなかった。いたずらに交換対向試験にこだわっても、ただでさえ遅れている開発がなお一層悪化するだけだ。交換機との接続については、シミュレーションでの試験結果を信じて試作ボードを使い続けるしかない。

(写真:酒井俊春)

製品の納期の遅れが、西山の口をなおさら重くしていた。NTTドコモが予定していた1998年12月のボーナス時期の発売は事実上不可能だった。既に西山は、上司を伴ってNTTドコモに発売時期の繰り延べを願い出ていた。他の携帯電話機メーカーも同様な進捗状況にあり、NTTドコモはついにサービスの開始自体を1999年2月に延期した。

「そういえば来月、商品提案をしていただけるんでしたよね?」。NTTドコモの担当者のひと言に、立ち去り際の西山は振り向いた。西山の顔つきが心持ち和らぐ。商品企画では取って置きの「隠し玉」を用意していたのだ。

「きっと、喜んでいただけると思います」。西山のこの言葉に、偽りは無かった。

情報を漏らすな

「NECは、2つ折りのケータイで勝負したいと思っています」。1998年9月。東京・神谷町の森ビルにオフィスを構えるNTTドコモ ゲートウェイビジネス部の会議室。NECの西山は、集まった面々を前に、こう切り出した。

会議室に勢ぞろいした顔ぶれを一瞥(いちべつ)して、西山はあらためて息をのむ。榎啓一、夏野剛、松永真理など、普段顔を合わせたことがないコンテンツ開発チームの主力メンバーがそろい踏みだ。ほかにも移動機開発部の責任者や営業担当者など、この場で大抵のことは決められる権限を持った者が一堂に会している。それでも西山は臆することがなかった。西山をはじめ、NECの開発部隊は今回の製品に絶対の自信を持っていた。

――例の件、絶対に社外に漏らすな。

事前に西山は、事業担当部長に呼び出されて何度も念を押されたほどである。事実、付き合いのある外部メーカーから情報が漏れぬよう、西山は徹底して気を配っていた。

西山らがそこまで慎重に守り抜こうとしていた仕様は、画面に映し出す文字数だった。NTTドコモが各メーカーに配った仕様書は、画面に表示する文字数を全角8文字×6行と規定している。西山は、ここでこそ他社に差をつけるべきと主張した。ブラウザーを搭載する携帯電話機のキラーアプリケーションは電子メールだと踏んでいたからだ。

NTTドコモの仕様では、携帯電話機で受信できる電子メールは最大半角250文字。すべてとは言わずとも大抵の電子メールを1画面で表示するには、8文字×6行では少な過ぎる。

西山らは、これを大幅に上回る文字数の実現を画策した。その結果出てきたのが全角10文字×10行という仕様である。半角200文字を一度に映し出せる。

「2つ折りの特徴を生かして、大画面の液晶を採用することにしました。表示も10文字×10行と無理なく電子メールを読める仕様になっております」。西山は用意したモックアップを手に、商品力の高さを力説した。急ごしらえのモックアップは、塗装すら間に合わず、むき出しのMg(マグネシウム)合金の筐体を鈍く光らせている。

実は、2つ折り方式の採用について、NECの社内には反対の声が根強かった。理由は材料のコストである。2つ折りにすると、一体型の端末に比べて材料コストがかさむ。西山は、1998年5月に投入した2つ折り携帯電話機「デジタル・ムーバ N206S HYPER」が、順調に販売台数を伸ばしていることを引き合いに出し、社内の説得に努めた。しかし、海のものとも山のものともつかないブラウザー搭載機に対し、好意的な意見はほとんど得られなかった。

果たしてNTTドコモはどう受け止めるのか。西山は目前に座る責任者達の反応に逐一目を光らせた。

期待が少ないから自由に作れた

NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 主任(当時)の林啓一氏(写真:酒井俊春)

西山に引き続いて、共に開発に従事していたNEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 主任(当時)の林啓一も、一押しの機能を次々と紹介する。

携帯電話機で電子メールを送るためには、従来の辞書では満足に文字が打てない。電話帳の編集ができれば十分だった従来機では、カタカナ入力が主流だったからだ。たとえ漢字変換機能を備えていても、単漢字変換がせいぜいだった。そこで林は、文章の連文節変換機能の導入を提案した。西山は当時をこう振り返る。「期待が小さいから、自由にやらせてもらえた。もし同じことを今の携帯電話機でやろうとしたら、とんでもないパワーを必要とするだろう」。

「こんなに大きい画面だと、電話帳が見やすくていいよね」。榎が笑顔で林を見る。

「はい。10文字×10行ありますんで、余裕をもって文字を配置できました」

林は緊張した面持ちで答える。西山もここぞとばかりに売り込む。「これだけの液晶パネルは、2つ折りの携帯電話機にしか実装できません」

「うん、いいね」

説明を聞き終えたNTTドコモの面々の反応は、おおむね良好だった。コストを懸念する意見は出なかった。西山は人知れず安堵の息を漏らした。

西山はまだ知らなかった。ここまでの抜本的な機能強化がその後、自身を失意のどん底に陥れることになろうとは…。(文中敬称略)

(日経エンタテインメント! 白倉資大)

[日経エレクトロニクス2002年11月18日号と12月2日号の記事を基に再構成]

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