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発売まで残り1年 ブラウザー内製か否かで分かれた道

iモードと呼ばれる前(3)

日経エレクトロニクス
いまやインターネットを利用する際に、最も身近な端末となったスマートフォン(スマホ)。そのスマホが、米Apple(アップル)の手によって2007年に初めて発売される約8年も前。携帯電話のインターネットサービスを世界に先駆けて事業化したのがNTTドコモの「iモード」である。「スマホの原型」とも言える、この日本発のサービスの普及は、予想をはるかに超えるペースで進み、1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大ヒットとなった。日経電子版創刊5周年企画「『ネット20年』その先へ:iモードと呼ばれる前」(オリジナルは日経エレクトロニクスに2002~2003年掲載)では、iモードを事業化にこぎ着けるまでの技術者たちの奮闘を描いた開発物語をお届けする。

開発はじわじわと遅れ始めていた。

「約束通りのスケジュールで進めていただかないと、困ります」。ACCESSの開発担当課長である大城明子が眼光鋭く、きっぱりと言い放つ。回りくどい言い方をせず、ズバリと口に出すのが大城の身上だ。

NECによるiモードの試作ボード(写真:栗原克己)

向き合った技術者は思わず身をすくめた。NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平。数万人の社員を擁する巨大企業を代表する立場であっても、小さなベンチャー企業の苦言に対し、沈黙をもって答えるしかなかった。

ブラウザーを搭載する携帯電話機の試作が始まってから、はや3カ月。試作が予定通りのペースで進んでいないことに大城は苛立っていた。決して西山1人を責めるつもりはなかった。作業が滞っているのはNECだけではない。

「実は松下(現パナソニック)さんも遅れているんです」

こう西山に実際に告げられたら、少しは気が紛れたかもしれない。しかし、それはできない相談だった。大城は、ACCESSが松下通信工業と作業していると伝えることすら禁じられていた。ACCESSとNTTドコモとの守秘義務契約を自ら反故(ほご)にするわけにはいかない。

1カ月の半分はACCESS通い

1997年11月中旬。NECの西山はACCESS本社に大城らを訪ねた。もう何度ACCESSに足を運んだか数知れない。西山は、1カ月の半分以上をACCESSとの打ち合わせに費やしていた。

松下通信工業が頭を悩ませたインターフェース仕様の策定に、西山らも骨を折った。画面への描画をつかさどるウインドウ・システムとブラウザーの間のインターフェース一つを取っても、どこまでをブラウザーに任せ、どこからはウインドウ・システムが担うのか、事細かに決める必要があった。そもそも、それまでの携帯電話機にはウインドウ・システムを使うという発想すらなかった。

従来は電話帳の編集などの目的で搭載していた文字編集機能や仮名・漢字変換機能を、ブラウザーと連動させる必要もあった。こうした細部にわたった仕様の取り決めは、大城らの焦りをよそに遅々として進まなかった。西山らがACCESS本社へ足を運ぶ頻度は、開発が進行するにつれてむしろ増えた。

仕様の策定は、まだ序の口だった。ソフトウエアの実装に入ると問題はなおさら噴出した。ブラウザーがNECの製品でないだけに、問題が発生した場合の対処も社内の人間を相手にするのと勝手が違う。電話では用が足りず、実際に会って話を進めざるを得なかった。

不慣れな開発スタイルも西山らを苦しめた。これまでは、組み込み機器向けのソフトウエアの開発にはICE(in-circuit emulator)を用いることが普通だった。ACCESSとの共同開発では、両者で並行して作業を進められるように、ICEの代わりにパソコン上で動くエミュレーターを使うことにした。西山の部隊の人間が1週間にわたってACCESSに常駐し、開発環境が安定して動作するようにシステムを整備した。

ところが、エミュレーター上で開発したソフトウエアが、実際のハードウエアで正常に動かない。原因をICEを使って検証するなど、かえって手間が増えてしまう場合も少なくなかった。ブラウザー以外のソフトウエアはICE上で開発を進めており、異なる環境で作られたソフトウエアがうまく連携しない問題にも直面した。障害が起こるたびに西山らは、指定されたスケジュールと現実の進捗状況のギャップに暗澹たる思いに駆られた。

今、楽をするよりも…

冬の気配が感じられ始めたある晩、ACCESSの取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久は自室に社内の担当者を集合させた。出席者はPDA(携帯情報端末)やカーナビ、携帯電話機など、あらゆる機器に共通するブラウザーの根幹を設計する技術者と、大城や開発実務担当者(当時)の笛木一正ら、携帯電話機への実装の担当者だった。

「実は相談があるんだ。Compact NetFront Browserを長く使えるアーキテクチャーにするために改良を加えたい。最新のノウハウをできるだけ詰め込みたいと思っているんだけど、どうかな」

鎌田の発言は、完全に参加者の意表を突いた。皆沈黙を保ったままだ。無理もないことだった。大城ら実装メンバーからしてみると、既に試作が始まっている段階で新たな改良を加えることは、できれば避けたいリスクだからだ。

「例えばね、将来的にJava(ジャバ)が携帯電話機に載る可能性があると思う。だったらプラグインを追加できる機能を今のうちに盛り込んだ方がいいんじゃないか」。鎌田はメンバーに対し、新たに盛り込みたいと考える機能を一つ一つ説明する。低速の通信回線において少しでも早くコンテンツを表示するため、HTML文書の読み込みと並行して構文解析を実行する機能や、移植を楽にするためにドライバーインターフェースを整理することなども提案した。

「試作が随分進んでいるのは分かっている。でも将来の機能拡張を容易にするには、今の段階で手を入れておいた方がいいと思う。実は僕のパソコンでプロトタイプが動いてるんだ。本当にできそうなんだよ」

鎌田はいずれのメンバーもギリギリのスケジュールで頑張っていることを知っている。これ以上、不安材料を増やすことは、短期的に見れば得策ではないかもしれない。鎌田にも迷いがあった。

「作業は既に遅れ気味です。新しい機能の追加なんて無理です」。大城が意を決して口にした。

当然のひと言に、鎌田は返す言葉を失った。部屋いっぱいに重苦しいムードが漂う。そのとき突然、1人の男が手を挙げて発言した。

「私は、今ならまだ改良の時間はあると思います」

ブラウザーの基盤設計を担当する加藤順一だった。彼の顔にも不安の色がうかがえた。それでも、一度言ったからには絶対やり遂げようとの気合いが表情ににじんでいる。鎌田は居並ぶメンバーを見渡した。連日の作業の疲れがたまっているはずなのに、誰の目も輝きを失っていなかった。

「うん、僕もそう思うんだ。やろうよ。今、楽をしないで、将来につながる道を選択しよう。責任は僕が取る」。加藤のひと言に肩を押され、鎌田は決断した。

ハムレットの心境

試作に携わる技術者たちの葛藤の傍ら、NTTドコモは着々とiモードのサービスインに向けた足場固めを続けていた。1997年11月28日。同社はパケット通信サービス「DoPa(DoCoMo Packet)」の提供エリアを1997年度末までに関東甲信越と全国政令指定都市に拡大すると発表した。iモードに使うデータ通信網を全国に拡張する第一歩である。同社でゲートウェイビジネス部を率いる榎啓一が描いたプランは、確実に形を成してきていた。

インフラの拡充と歩調を合わせ、端末の開発も新たなフェーズに入りつつあった。それまでNECと松下通信工業が手掛けてきたのは、あくまでも技術を検証するための試作機である。携帯電話機の上でブラウザーが動作することを確かめるのが目的で、製品の開発とは別物だった。

1997年の終わりを前に、NTTドコモはいよいよ製品の開発に踏み出そうとしていた。当初の計画通り1998年のクリスマス・シーズンにサービスを開始するには、そろそろ開発に着手しなければ手遅れになる。

この期に及んでも、事業全体を統括する榎にはまだ懸念があった。サービスの根本に据えるコンテンツの記述言語をACCESSが推すCompact HTMLに一本化していいのか、正直決めかねていたのである。Compact HTMLと対立するWAP ForumのHDMLに関心がなかったといえばウソになる。その実力を探るべく、榎は1997年12月に夏野剛や端末メーカーの技術者から成る調査団を、米国サンフランシスコに派遣したほどだ。HDMLを利用した「PocketNet」と呼ぶサービスを、米AT&T Wirelessがサンフランシスコ近郊で実施していたのだ。

夏野らの報告によれば、HDMLにはまだまだ改善すべき点は多いようだ。それでも、フィンランドNokia(ノキア)を筆頭に世界の名だたる携帯電話機メーカーが顔をそろえるWAP Forumの影響力は計り知れない。折悪しくCompact HTMLを強力にプッシュした永田清人は、第3世代携帯電話機の開発部隊に異動してしまった。社内には研究所を中心に、WAPこそが標準になるとのムードが蔓延しつつあった。

「一体どちらを選ぶべきか。まさにハムレットの心境でしたよ」。榎は当時をこう振り返る。

新たなる参加者

富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二氏(写真:桑原太門)

1997年末。東京・虎ノ門(当時)のNTTドコモ本社。榎は、富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二を前にしていた。

「実は新しい携帯電話機の企画があるんですよ」。榎のひと言に、片岡は身を乗り出した。

「ネットにつながる携帯電話機です」

榎は、既に心を決めていた。1年後のサービス開始に向け、Compact HTMLを利用する製品の開発を後押しする役目を買って出たのである。スケジュールを遵守するには、事実上Compact HTMLを使うしかない。若干遅れ気味とはいえ、Compact HTMLを使う端末は既に試作が進んでいる。夏野が牽引するコンテンツの開発グループの評判も上々だ。後は榎が腹をくくるだけだった。

実際の製品化となれば、NECと松下通信工業の2社だけではあまりに寂しい。他の端末メーカーを巻き込むべく、榎自らが乗り出した。その1社が富士通だった。榎は携帯電話機にブラウザーを搭載し、コンテンツを配信する企画があることを片岡に告げた。

「これまでは、PDAに携帯電話機をつないでWWWサイトを見るっていう発想だったでしょ。でもそれだと携帯電話機の販売台数がそれほどは伸びない。今はPDC機が絶好調だからいいけれど、これがいつまでも続くとは思えない。でも携帯電話機そのものがネット端末に変われば話も変わる。ものすごい数で売れると思いますよ」

榎の目が輝く。「ACCESSって会社、ご存じですか」

「ええ、知ってますけど…」

「ぜひ一度、会ってみませんか」。榎は片岡に、1998年冬のボーナス・シーズンには製品を発売したいと伝えた。

「じゃ、よろしく」。榎はこう言って立ち上がり、ポケットベルを片手に広末涼子が微笑む1998年のカレンダーを、あいまいな表情を浮かべる片岡に手渡した。

間に合わなければ置いていく

1997年の末。大阪・尼崎にある三菱電機の携帯電話機開発部門。同社 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長(当時)の濱村正夫に、営業部門から1本の電話が入った。NTTドコモから連絡を受けた営業担当者からだった。電話口の向こうで、営業担当者はNTTドコモの意向を淡々と伝える。ブラウザーを搭載する携帯電話機の開発の企画があるという。通信方式はパケットだと聞いて、濱村はとっさにつぶやいた。

三菱電機 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長(当時)の濱村正夫氏(写真:周慧)

「パケットか……」。濱村は武者震いした。汚名を返上する絶好のチャンスだ。三菱電機はNTTドコモが全国へ展開中のDoPaに対応する携帯電話機を手掛けていた。しかし開発が遅れに遅れ、NECと松下通信工業に製品化で先を越された。その開発を担当していたのが濱村だった。

「パケット技術で今度こそ他社に勝ちたい。ぜひやらせてください」。

早速濱村は上司に嘆願した。しかし、上司の反応は冷ややかだった。

「ブラウザーを搭載した携帯電話機に、一体どのくらいの将来性が見込めるのか」。そのひと言で済まされてしまう。もう1つ、濱村の足かせになる要因があった。予算だ。既に1997年は終わりを迎えようとしていた。開発が本格化する1998年度の予算は、その大枠が固まりつつあった。今さら予算を組み直すことなどできない。新たな案件向けの開発費の捻出なんて、どだい無理な話だ。

濱村は粘った。どうしてもやりたかった。誰も試みたことがない開発と聞けば、なおさら技術者の血がたぎった。

「来年度、携帯電話機を予算以上に売ってみせます。予算を上回る売上高を見越して開発費を使わせてください」

濱村は、ブラウザーを組み込んだ携帯電話機の将来性に魅力を感じた営業担当者とともに、再び上司に願い出た。いわば開発費の前借りである。しかも担保は単なる口約束。そんな突拍子もない資金繰りが、社内のルールで通るわけがない。無茶な理由付けだと濱村も分かってはいたが、ほかに上司を説得する理屈が見当たらなかった。

「仕方ないな。そんなにやりたいのなら、まぁ何とかするよ」

濱村らのあふれんばかりの熱意と強引な説得に対し、上司は苦笑いを浮かべて降伏した。

濱村をここまでさせた理由は、実はもう1つあった。社内で聞きかじった話だ。今回の企画を持ち掛けたNTTドコモは三菱電機に大きなプレッシャーをかけたという。開発に参加するメーカーは、実は4社ある。その中で最後発は三菱電機と名指しされた。他社がスタートを切ったのはしばらく前で、かなり出遅れているらしい。それでももし、発売に間に合わなければ、他社の販売を優先し、三菱製品は置いていくとNTTドコモの担当者は暗にほのめかした――。

この話を聞いた濱村は、腹の底からふつふつとわいてくる闘志を抑えることができなかった。

松下はブラウザー内製を決断

「ACCESSの鎌田さんにすぐ会いたい。実はあまり時間がないんだ」

三菱電機 マイコン・ASIC事業統括部 マイコン第三部 開発第一グループマネージャ(当時)の清水徹氏(写真:長尾純之助)

1997年末。NTTドコモからブラウザーを搭載する携帯電話機の製造依頼を受けた三菱電機の濱村正夫は、電話口でこう叫んだ。

「ACCESSは、仕事上の付き合いがありますから、すぐ連絡できます。でも、そんなに急いでどうしたんですか」。電話の相手は濱村の慌てぶりに、思わずこう聞き返した。清水徹。兵庫県伊丹市にある三菱電機 マイコン・ASIC事業統括部 マイコン第三部で開発第一グループマネージャ(当時)を務める男だ。

「ケータイにACCESSのブラウザーを載せる話がある。新しい情報サービスをNTTドコモが始めるんだ。清水君の部署にも無関係じゃない。いよいよ32ビットマイコンの出番かもしれないぞ」

濱村からの思わぬ言葉に清水は息をのんだ。自分達が手塩にかけて育ててきたマイコンが携帯電話に使われるとなれば、願ってもない朗報だ。それだけではなかった。清水はこの日がやって来ることをうすうす察していた。濱村の話と自分をつなぐ不思議な因縁に清水は興奮を抑え切れなかった。

思いがけぬ出会い

清水とACCESSとの付き合いは、約1年前の1996年11月にさかのぼる。ある昼休み、清水は社内の打ち合わせスペースで新聞を読んでいる同僚を見掛けた。

「清水さん、ACCESSって会社、知ってる? 三菱電機のインターネットテレビにブラウザーを供給したらしいよ」。同僚は新聞を清水に差し出した。「ウチのM32Rも、こういうベンチャーに持ち込んだら面白い用途が見つかるかもしれないよね」

シリコンバレー帰りの同僚は、伸びをしながら言った。大企業との協業が大きな成果を生むとは限らないことを、彼は米国で痛いほど思い知らされてきた。

清水はハトが豆鉄砲を食ったような顔をした。「ACCESSなら知ってるよ。大学時代の後輩で鎌田っていう人間がいるから」。

何気なく清水が返したひと言に、同僚は慌てた。「え、ホント? だったらすぐ電話しようよ。面白いことになるよ。きっと」

面食らった清水は、ただ言われるまま、鎌田富久に電話した。確かにACCESSの名前は知っていたし、消息を気に掛けてもいた。しかし、直接連絡を取ろうとしたことは大学を去ってから一度もない。思えば、大学院で鎌田と同窓だったころから、10年が過ぎようとしていた。

電話口に出た鎌田は、昔と変わらない抑えたトーンで開口一番こう言った。「清水さんのところって、DRAM混載マイコンの開発をやってるんですよね」。

実は鎌田も、先輩の清水が開発に携わったLSI(大規模集積回路)に興味を持っていたのである。

用途探しに奔走

当時の清水は、業界で初めてDRAMを混載した32ビットマイコン「M32R/D」の用途探しに頭を悩ませていた。清水はこのマイコンのCPUコアである「M32R」の開発者だ。機器の用途に応じてメモリーやアナログ部品を混載し、M32Rを横展開させるのが清水の役目だった。その一つがM32R/D。DRAMの混載によって機器の小型化や低電力化に貢献することを狙ったチップである。しかし、32ビットマイコンの高い処理能力を必要とする機器はなかなか見つからなかった。

清水には、M32R/Dの用途に関して忘れられない思い出がある。1996年2月。米国で開催されたLSI設計回路技術の国際会議「ISSCC(International Solid-State Circuits Conference)」で、清水はM32R/Dの前身になったDRAM混載マイクロプロセッサーの発表の壇上に立った。慣れない英語での講演が終わってほっとするのもつかの間、1人の日本人男性が清水に近づいて来た。

「面白い発表でした。もう一ひねりしたら、すごく良いモノができそうですね」。物腰柔らかく、こう言い残してその場を後にした男は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の取締役開発部長(当時)だった久多良木健。その謎めいた言葉が何を意味するのか、この時の清水には見当がつかなかった。

1999年3月にSCEが「プレイステーション2」向けDRAM混載グラフィックス処理LSIを発表したとき、初めて清水は久多良木の発言の背後にあったものを理解した。

久多良木との出会いがすれ違いに終わった一方で、鎌田との再会は清水に大きな実りをもたらした。当時鎌田は、PDAに載せるブラウザーを開発していた。このブラウザーを動かすために三菱電機のM32R/Dはうってつけだと、清水と会う前から鎌田は目を付けていた。

携帯電話に載せたい

旧交を温める間もなく、2人はビジネスのパートナーになった。2人が10年ぶりに顔を合わせてから半年後の1997年の中ころ。清水と鎌田は、M32R/DとACCESSのブラウザーを搭載するPDAの試作に取り組んでいた。夏を直前にしたこの日も、清水は定例の打ち合わせで東京・水道橋のACCESS本社を訪れた。打ち合わせが終わり、大阪の伊丹に戻るため身支度を始めた清水を突然、鎌田が呼び止めた。

「清水さん、いいもの見せましょうか」。鎌田は清水を手招きし、自分のノートパソコンを開いた。「これ、携帯電話機を想定して作ったブラウザーのプロトタイプなんです。これから売り込みをかけようと思ってまして」

電子メールやニュース、画像コンテンツなど、大量のデータがブラウザー上に次々に映る。

「へぇ、こんなのがケータイに載るんだ」

(写真:長尾純之助)

これだけの情報を携帯電話でやりとりする時代が来れば、いずれ16ビットマイコンでは処理が追い付かなくなる。M32Rのような高性能のCPUコアが携帯電話機に載る日も、そう遠くない。清水は確信した。鎌田はブラウザーの動作に必要なメモリー容量なども少しだけほのめかした。先輩と後輩だからこそできた会話だ。

既に手帳をカバンにしまった後の清水は、その内容を細大漏らさず記憶にとどめた。たとえ手帳を持っていたとしてもメモを取れる雰囲気ではなかった。帰りの新幹線で清水は、鎌田のブラウザーを携帯電話機に載せるには、M32Rにどのような改良が必要かを書き留めた。ケータイの電池はDRAMではもたない。SRAMを使おう。開いたノートの真っ白なページは、瞬く間に清水のアイデアで満たされていった。

人が技術をつないだ

1997年の末。濱村からの電話を受けて間もなく、清水は鎌田と濱村をACCESS本社で引き合わせた。鎌田と濱村が談笑する姿を見て、清水の感慨もひとしおだった。濱村と鎌田が会うことになった理由は、あくまでもNTTドコモから開発の依頼が舞い込んだからだ。清水は全くの部外者であり、この場限りのつなぎ役でしかない。

それでも清水は満足だった。あの時鎌田がこっそり見せてくれたブラウザーが、本当に携帯電話機に載ることになった。清水が手掛けたM32Rもいよいよ携帯電話機に搭載されるかもしれない。何よりも清水は、どんなに技術が進んでも、その流れを導くのは人のきずなであることに感じ入った。

「人と人のつながりが技術の方向性を決める。技術ってそんなもんです」。当時を思い起こす清水の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

三菱電機によるiモード対応携帯電話機の試作ボード(写真:長尾純之助)

何をもって勝ちとするか

――ブラウザーは自社で開発できる。

1998年1月。三菱電機と並んで後発組として開発に参加した富士通では、議論が戦わされていた。ACCESSのブラウザーを推すNTTドコモの案を社に持ち帰った、移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二は技術者の反対意見に直面した。

富士通はかつてWindowsパソコン向けのブラウザーを自社開発し、製品に搭載した実績がある。米Netscape communications(ネットスケープ・コミュニケーションズ).の「Netscape Navigator」や米Microsoft (マイクロソフト)の「Internet Explorer」の台頭でパソコンでは旗色が悪くなったものの、社内ではPDAなどで動くブラウザーの研究開発が続けられていた。自分たちにブラウザーを開発するノウハウは十分にあると主張する技術者の言い分も片岡にはよく分かった。

一方、富士通は小型パソコン「INTERTop」でACCESS製のブラウザーを採用した実績もあった。片岡自身、ACCESSの技術力をかねて高く評価していた。

富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二氏 (写真:桑原太門)

はっきりと態度を決められないまま、片岡は東京・水道橋のACCESS本社を訪れた。他社を前にした時と同様、鎌田のプレゼンテーションは淀みなかった。

「メモリー容量は300Kバイト程度です」

鎌田のひと言に片岡は愕然とした。社内の技術者からは、自社でブラウザーを作った場合1Mバイトを超えると報告を受けていたからだ。それでも片岡は自社のスタッフに任せてみたいと最後まで頭を悩ませた。現実がそれを許さなかった。

「富士通さんが一番遅れてます」

何度目かの打ち合わせで、ACCESSの笛木に片岡は指摘された。自分で意識していることでも他人の言葉になって響いたときの痛みは大きい。NTTドコモからも同様な圧力が加わっていた。三菱電機も同じような境遇にあったことなど、片岡には知る由もなかった。

半年後には交換対向試験が迫っている。約10カ月後には端末をNTTドコモに納めなければならない。富士通の社内にブラウザー開発の技術があったとしても、今から技術者を集めて、一から開発している余裕は事実上なかった。

「納期に間に合わせることが最優先だ」。片岡はACCESSのブラウザーを選んだ。

退路を断つ

「ACCESSの荒川さんに来ていただいたのは、1998年2月20日の午前11時ごろでした」。松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)(当時)の加藤淳展は、今でもあの日の出来事を鮮明に覚えている。場所は横浜市港北区にある松下通信工業の会議室だった。

加藤は、同じ部のソフトウェア総括課長(兼)ソフトウェア1課長(当時)の藤井雄一と2人で、ACCESSの代表取締役社長(当時)である荒川亨と同行した営業担当者2人を構内の古びた会議室に招き入れた。廊下に面したガラス窓しかなく、屋外の景色はうかがえない。日光が差さない薄暗い部屋だ。全員が席に着くと、ほとんど満員の状態である。藤井は、簡単な世間話でその場の空気を和ませた。これから何が起こるのかを知る加藤の額には、脂汗がじわじわと浮き始める。

「今日わざわざおいでいただいたのには、訳がありまして…」。藤井の声がかすれる。

「実は、ブラウザーを自社で開発することに決めました」

「……」

荒川は、身じろぎ一つせず、ただ黙って加藤らを見つめる。

「松下電器産業が以前、ワープロ向けにブラウザーを自社開発した経験があります。この技術をベースに、携帯電話機向けも独自開発したいと思います」。荒川の顔に落胆の表情が広がっていくのを、加藤は目の当たりにした。加藤にしてみればACCESSは、これまでブラウザーの仕様確定作業に汗を流してきた同志ともいえる存在だ。今回の決定で縁が切れてしまうことは、加藤にとって断腸の思いだった。

「理由を教えて頂けますか」。黙っていた荒川がため息交じりに口を開いた。藤井は精一杯の誠意をもって荒川に説明する。

「ブラウザーは今後、携帯電話の顔になると思います」

自社開発という結論に達するまで松下通信工業は社内で議論に議論を重ねてきた。その中で浮上してきたのが、今後ブラウザーが携帯電話機に標準搭載されるとの見方だった。そうなれば、ユーザーが常に接するブラウザーは、いわば携帯電話機の顔になる。近い将来、その性能や操作をめぐって、各メーカーがしのぎを削ることになるだろう。製品戦略を大きく左右するソフトウエアだけに、最初から他社に任せては将来に禍根を残しかねない。

一方で、三菱電機や富士通を悩ませた開発期間の問題は、松下通信工業の前にも厳然と横たわっていた。製品投入まで1年を切った今、ブラウザーの内製に方針転換して納期に間に合うのか。

「加藤、お前に本当にできるのかよ」。加藤らソフトウエアの実装グループに、そう詰め寄る技術者もいた。加藤らに確信があったわけではない。そもそもできるかできないかは議論の対象ではなかった。「間に合う」「間に合わない」ではなく「間に合わせる」しかないのだ。

その時、覚悟を決めた

ブラウザーを内製に切り替えることを決断した理由はほかにもあると、藤井は荒川に告げた。1つはロイヤルティーである。ACCESSとの間でブラウザーのライセンス契約を結べば、端末が売れるごとにロイヤルティーを支払う必要が出てくる。ブラウザーを搭載する携帯電話機がもし大ヒットすれば、その金額は莫大になる。

もう1つの懸念はACCESSのマンパワーだった。もはや発売まで1年を切った端末開発に、携帯電話機メーカー数社が参入しているようだ。そのブラウザー開発を一手に引き受ける力がACCESSにあるのか、不安は最後までぬぐい去れなかった。

「ロイヤルティーや人材の投入について、条件を再調整させていただけませんか」。荒川は最後まで、再考を求めた。

「会社として決めたことですので…」。藤井は口を真一文字に結ぶ。

「そうですか…。そういった心配があるのでしたら、もっと前からこちらからもお話をさせていただくべきでした」

「…あくまでこれは松下通信工業の戦略としての判断です。誤解なさらないでいただきたいのですが、御社のブラウザーが技術的にどうのという話ではありません。ほかの機器ではお付き合いすることが出てくるでしょうから、今後ともぜひよろしくお願いします」。藤井が頭を下げる。

会議室を後にする荒川の顔は、こわばっていたが、吹っ切れたようでもあった。加藤の目には、荒川が他メーカーとの協業に勝負を懸ける覚悟を決めたように映った。覚悟を決めたという意味では、加藤も同じ気持ちだった。荒川らを見送りながら、加藤はこれが重大な決断であることをあらためて認識せずにはいられなかった。

「会議室を去る荒川さんの後ろ姿を見て、もう自分たちには逃げ道はない。これからは単独で開発するしかないんだと、痛いほど思い知らされました」

加藤の不安は的中する。加藤の覚悟を上回るほどの苦難が、その後加藤らを襲うことになる。

いよいよ独立独歩の道へ

松下通信工業(当時)の加藤淳展氏(右)と、松下電器産業(当時)の田中康宣氏(左)(写真:周慧)

「田中さん、会議、終わったよ」。加藤はスクリプト言語の専門家として行動を共にしていた、松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)(当時)の田中康宣に声を掛けた。すっかり疲れ果てた様子で、田中に歩み寄る。

「あとは、やるしかないな」。田中の表情も加藤と同じく険しかった。

「これで良かったんだよね」。加藤は田中に賛意を求めた。田中は黙ってうなずいた。押しつぶされるようなプレッシャーと新しい技術に挑戦できるという喜びに挟まれ、田中の顔は上気していた。

(日経エンタテインメント! 白倉資大)

[日経エレクトロニクス2002年10月21日号と11月4日号の記事を基に再構成]

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