/

「携帯電話でどうやってウェブサイトを見るんですか」

iモードと呼ばれる前(2)

日経エレクトロニクス
いまやインターネットを利用する際に、最も身近な端末となったスマートフォン(スマホ)。そのスマホが、米Apple(アップル)の手によって2007年に初めて発売される約8年も前に、携帯電話のインターネットサービスを世界に先駆けて事業化したのがNTTドコモの「iモード」である。「スマホの原型」とも言える、この日本発のサービスの普及は、予想をはるかに超えるペースで進み、1990年代の停滞した日本経済の中で、ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大ヒットとなった。日経電子版創刊5周年企画「『ネット20年』その先へ:iモードと呼ばれる前」(オリジナルは日経エレクトロニクスに2002~2003年掲載)では、iモードを事業化にこぎ着けるまでの技術者たちの奮闘を描いた開発物語の連載第2回をお届けする。

1997年8月。後に「iモード」と呼ばれるサービスは、アイデアの域を脱し、目に見える形を表し始めた。

8月1日。NTTドコモは携帯電話機向けのコンテンツの企画開発を手掛ける「ゲートウェイビジネス部」を新設する。データ通信事業を推進するための新部署「モバイルコンピューティング推進本部」の一部という位置付けである。

総勢150人の推進本部の中で、わずか20人が所属する小所帯だ。それでも同部を率いる榎啓一にとっては願ってもない援軍だった。携帯電話機向けのコンテンツ配信サービスを立ち上げようと孤立無援で奮闘してきた榎に対し、ようやく専属の部下があてがわれたのだ。リクルートから転身した松永真理を筆頭に、やる気にあふれた気鋭の人材が顔をそろえた。

8月8日。NTTドコモは、携帯電話を使ったパケット通信サービス「DoPa(Docomo Packet)」をインターネット接続に利用できるように拡張した。いわばNTTドコモがプロバイダーとなって、携帯電話網経由でユーザーをインターネットにつなげるサービスである。携帯電話へコンテンツを送り届けるインフラの基礎が、早くも実用段階に突入したわけだ。

コンテンツを表示する端末も、実現への青写真が描かれた。端末の設計に責任を持つNTTドコモ 移動機技術部 主幹技師(当時)の永田清人は、ACCESSのブラウザーの採用を決め、試作機の開発を承諾する。永田が所属する移動機技術部は、ゲートウェイビジネス部と話し合い、パケット方式の採用で意見の一致を見た。試作を持ち掛ける先として、DoPa対応の携帯電話機を製造した松下通信工業とNECが挙がったのは、ごく自然の成り行きだった。

いよいよ動き出す

松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)(当時)の加藤淳展氏(写真:周慧)

「へぇ。ACCESSを使うんだ」

1997年8月上旬。松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)(当時)の加藤淳展は上司に呼び出された。NTTドコモ 移動機技術部から入った依頼に対応しろという。8月22日に、携帯電話機向けのブラウザーを開発したACCESSと3社で会う機会を設けたいとのことだった。加藤はACCESSという会社があることを聞きかじっていた。ワープロやテレビ向けのWWWブラウザーで実績のある会社らしい。

加藤の担当は携帯電話機のソフトウエア開発の取りまとめである。当時、携帯電話機で業界のトップシェアを走っていた松下通信工業の中でも、ひときわやりがいを感じる立場だ。折しも1カ月前の7月に、同社は携帯電話機の累計出荷台数1000万台に一番乗りしたばかりだった。出せば売れる状況の中で、NTTドコモからの依頼はさして珍しくなかった。

上司によると、「ブラウザーを載せた携帯電話機を試作してほしい」という話らしい。そう聞いても加藤はさほど驚かなかった。2カ月ほど前から、永田をはじめとする移動機技術部のメンバーより、同様の企画をにおわせるヒアリングを何度か受けていたからだった。ブラウザーを搭載するために用意できるメモリー容量は最大どのくらいか。マイクロプロセッサーの処理能力はどこまで高められるのか。こうした具体的な質問に対して、ヒアリングの場や電子メールで回答する機会が日を追うごとに増えていた。

実は、松下通信工業の内部でも、携帯電話機向けのブラウザーについて検討が始まっていた。俎上(そじょう)に載せたのは米Unwired Planetが売り込み攻勢をかけるHDML言語のブラウザーだ。欧州向けのGSM方式の携帯電話機に使えないかと、UPのブラウザとサーバーの技術を調査していた。

こうした動きの只中で、加藤は時代の流れを感じていた。NTTドコモからの依頼は、加藤には半ば当然に思えた。

ACCESSって、米国企業?

NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平氏(写真:栗原克己)

同じころ、NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平は、上司からNTTドコモ向けの新しい開発案件への対応を命じられる。NTTドコモの移動機技術部からの依頼が、巡り巡って西山の部門に割り振られたのだった。

当時、西山の業務は携帯電話機の開発ではなかった。西山が所属する部隊の使命は、通信技術を使った新しい分野の機器の開発である。米Motorola(モトローラ)の双方向ポケベルサービス「ReFLEX」向けの端末を手掛けたり、ボイスメールを圧縮してデータ通信網で送る仕組みを構想するなど、常に新しいビジネスの種を追い求めていた。反面、携帯電話機の開発に携わったことはなく、 NTTドコモの移動機技術部との接点は皆無に等しかった。

「ACCESSってシリコンバレーの企業ですか?」

上司から概要を聞いた西山は、おもむろに尋ね返した。全く聞き覚えのない社名だ。西山の頭に一抹の不安がよぎる。以前、シリコンバレーのソフトウエア開発企業に、仕事を依頼したことがあった。納期の遅れやバグ取りに悩まされ、海外企業との共同開発の難しさが骨の髄まで染みていた。ACCESSは日本の会社であると聞き、西山はひとまず胸をなで下ろす。

「でも、携帯電話でどうやってWebサイトを見るんですか?」

西山は、それを可能にする試作機を自分で作るのだと知りながら、思わずこう聞いてしまった。当時の携帯電話機のディスプレーといえば、せいぜい横7文字の文章を2行くらいしか映せない。電話番号や名前の表示しかできない画面で、一体何を見せようというのか。西山にはまるで想像ができなかった。

なるほどね。そういう感じかぁ

8月22日。NTTドコモからの指示に従って松下通信工業の加藤は、神奈川県の三浦半島にある横須賀リサーチパーク(YRP)を訪れた。緑が濃い山間の研究所で、加藤は永田に紹介され、ACCESSの取締役副社長 研究開発担当(当時)の鎌田富久と初めて出会った。

「頭の良さそうな人だなぁ」。鎌田の立居振舞を見て加藤は思った。

「通信方式はDoPaの『シングルスロット』、つまり9600bps(ビット/秒)でインターネットに接続します」。移動機技術部の担当者が今回の開発の主旨説明を始めた。既に大まかなサービスの概要や通信の暫定仕様は固まっていた。想定するマイクロプロセッサーの機種やメモリー容量、画面に表示する文字数と行数など、ACCESSのブラウザー「Compact NetFront Browser」の要求仕様を鎌田が補足する。

「なるほどね。そういう感じかぁ」。加藤はその一つ一つにうなずき、要点を書き留める。

鎌田の話が一段落すると、永田が割って入った。「今後の日程ですが、まずは以上の条件を満たす試作ブラウザーの詳細仕様を来月中に固めて下さい。その後、年度末の3月をメドにブレッド・ボードを試作して、来年の6月ころにはサーバーとセットで交換対向試験までやりたいと考えてます。結構ギリギリのスケジュールですけど、これを守らないとかなり厳しいことになる。1998年冬のボーナスシーズンに端末を発売できないとまずいですから」

「なるほど、来月ですか」。加藤はスケジュール帳をめくる。

加藤は、1カ月というスケジュールがいかにむちゃな要求であるか、この時点では理解していなかった。当日NTTドコモから説明された仕様は、これから詰めていく用件を大まかになぞったものにすぎなかった。その数百倍もの約束事をACCESSと協力して決めていかなければならないことを、後に加藤は痛いほど知ることになる。

同じ日、別の場所で

8月22日。この日に永田が接触したメーカーは1社ではなかった。所は変わってNTTドコモの(当時の)本社がある東京・虎ノ門の新日鉱ビル。NECの西山は上司に言われたまま、永田のお膝元に駆け付けた。

「今回のサービスでは、最低でも8×6文字くらいは出したいと思ってます。それにはかなり大きな液晶パネルを使わなければならないでしょう。正直なところ、御社で頑張って実現できる横と縦のドット数はどのくらいですか?」

永田は初対面の西山に遠慮することなく、次々と難題を投げ掛けた。画面に表示できそうな文字数、フォントのサイズ、液晶パネルの実装面積など、西山は可能な範囲で答えたが、残りは会社に持ち帰らざるを得なかった。

「ボードの試作を3月くらいまでに終えて、来年の半ばには交換対向試験に入っていただきたいですね」。永田のひと言に、メモを取る西山の手が止まった。もう8月も終わりに近い。まだACCESSの人間と会ってもいなかった。すぐにでも試作用ボードの開発に入らなくてはならない。何よりも液晶パネルのドライバーIC(集積回路)の開発が急務だな。西山の頭には、検討すべき項目のリストが理路整然と浮かび上がってきた。

電池が切れますよ

「ごちそうさん」。加藤は同僚を引き連れ、水道橋駅にほど近い「かつ吉」ののれんを後にした。少々値段は高いが、おいしいトンカツで有名な店である。1997年9月に入り、加藤は東京・水道橋に本社を構えるACCESSに週に1度のペースで足を運んでいた。この店にももう何度か通っている。

「それにしても暑いなー」。加藤はジリジリと照りつける陽光を手で隠しながら、滝のような汗をハンカチでぬぐう。9月とはいえ、相変わらず日中は暑い。日影を探しながら、加藤ら一行は白山通りに沿って進む。松下通信工業がある横浜市都筑区から水道橋のACCESSまでは電車で1時間近い道のりだ。通うだけで随分体力を奪われる。

「いつも来ていただいてすみません。本当はウチが行くべきでしょうけど。どうにも人手不足で」。こう言って加藤を出迎えるのは、ACCESSで開発の実務を担当する大城明子と笛木一正だ。

「いえ、とんでもない。こちらこそ何度も押しかけまして…」。加藤はあいさつも早々に席に着いた。今日も決めて帰らないといけないことがうんざりするほどある。既にハードウエアの設計部門はブレッド・ボードの試作準備を進めていた。早急に仕様を固めなければ、ソフトウエアの開発に着手する時期がずれてしまう。

ACCESSの開発実務担当者(当時)の大城明子氏(写真:的野弘路)

加藤が大城、笛木と議論していたのは、ブラウザーが利用するインターフェースの仕様である。携帯電話機が備える液晶パネルやキーボードといったハードウエアをブラウザーから制御するための命令群だ。例えば、液晶パネルに線や文字を表示する命令や、特定のボタンが押されたことをブラウザーに伝える命令などである。これらをデバイスドライバーの上位に位置するミドルウエアとして実装する計画だった。

NTTドコモは、ミドルウエアを作るための仕様書を用意していた。しかし、この仕様書に記されていたのは表示すべき文字数や行数といった極めて基本的な枠組みだけだった。それ以上の細部はACCESSとメーカーが検討して、決定事項をNTTドコモに後から連絡する段取りである。

実際には、決めなければならない項目は山のようにあった。ユーザーからのキー入力を検出する方法一つを取っても、一定周期で能動的にチェックするやり方もあれば、入力が来るまで処理を休止させる手法も利用できる。多様な選択肢の中から一体何を選べばいいのか。ソフトウエアの基本アーキテクチャーから特殊なケースの扱いまで、さまざまな場合について決断を下さねばならなかった。

ACCESSの開発実務担当者(当時)の笛木一正氏(写真:栗原克己)

「そんなに何度も命令を呼びに行ったら、電池がすぐ切れちゃいますよ」

加藤が一番気を配ったのは、消費電力の問題だった。携帯電話機に搭載できる電池の容量には限界がある。ソフトウエアの実装を一歩誤ると、限りある容量を瞬く間に使い果たしてしまう。議論は微に入り細をうがち、いつ終わるとも知れず何時間も続いた。

話し合いが終わっても、ゆっくりとお茶を飲むことすらできなかった。大城や笛木はすぐにブラウザーの設計変更に入る。加藤もこのまま、会社に戻らずにNTTドコモに向かうことになっていた。

専門家を呼んで下さい

加藤のもう一つの仕事は、携帯電話機とサーバーの間の通信プロトコルをNTTドコモと検討することだった。NTTドコモとの打ち合わせは週に2~3回の頻度で開かれた。

こと通信に関する限り、NTTドコモは強力なリーダーシップを発揮した。ただし、インターネットやWWWの世界は同社にとっても未知の領域だった。仕様のこまごました点について、加藤は逐一意見を求められる。例えば電子メールを読む場合に、WWWサーバーに格納した電子メールをブラウザーで閲覧する仕組みにするのか、それともメールを一度携帯電話機に保存してから読む仕組みがよいのかといった具合だ。

加藤は、これまで何機種もの携帯電話機を開発してきたプロフェッショナルである。しかし、インターネット経由でサーバーとデータをやりとりするプロトコルについては、全くの門外漢だった。「TCP/IP」や「HTTP」といった言葉を聞いたことはあっても、携帯電話機向けに、どのように改良したらいいかと問われると、いつも答えに窮していた。

たまりかねた加藤は、会社の上司に直訴する。データ通信プロトコルの専門家を1人、研究所から呼んでほしいと。

「東京に行って欲しいんやけど」

1997年10月末。大阪・西三荘にある松下電器産業の研究所で、マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)(当時)の田中康宣はなじみのある人物を見掛けた。

「あれ? 脇さんや」

上司の元を訪れていたのは、パーソナルコミュニケーション事業部 国内技術部 部長(当時)の脇治だった。東京からわざわざ何しに来たんやろ。そう思う田中にこそ脇が来た理由があることを、当の本人は知る由もなかった。

田中は上司に呼び出された。

「来週から、しばらく東京に行ってほしいんやけど」。上司は田中を見るなりこう言った。

「は。何ですか。来週って。出張ってことですか」

「いや、ちょっとしばらくあっちにいてもらうことになりそうなんや。何でも、携帯電話にインターネットのブラウザーを載せる話があるらしい。ドコモさんがいろいろ考えてるようなんや。そんでな、東京でデータ通信の専門家を欲しがっとる。それなら田中君が一番や。悪いけど一肌脱いでくれんか。これからはデジタル家電の時代や。きっとおもろい話になるぞ」

「……」

松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)(当時)の田中康宣氏(写真:周慧)

田中の頭は真っ白で返す言葉もない。田中は、携帯端末間で情報をやりとりするための通信スクリプト言語の研究開発を担当していた。文字を受信できるページャーの急激な普及を当て込んで、低速の通信回線で大量の文字情報を送れる通信技術を目指していた。

田中はこれまでPHS回線を使った構内無線LANシステムの開発やPHS通信カード、PHSを使ったテレビ電話端末の試作なども担当してきた。松下通信工業とは仕事上のつながりがあった。そんな田中に白羽の矢が立ったのは、当然といえば当然だった。

「ちょうど明日から休みやろ。土日で荷物まとめて月曜に新幹線乗って、向こうに顔出してや。向こうの段取りは脇部長がやってくれるはずや。何も心配なことあらへん」

「……」

「あのな。ACCESSって知ってるか?」

「…ええ、テレビとかPDA(携帯情報端末)のブラウザーなんかやってるとこですよね」

「携帯電話でもええもん作ったらしいで。学ぶところもきっとあるやろ。他のメーカーに負けへんケータイ作ってや」。こう言って上司はポンと田中の肩をたたく。田中の顔は、緊張と期待が入り混じって紅潮していた。

助っ人登場

当時、NTTドコモ本社があった東京・虎ノ門 新日鉱ビル

1997年11月4日。NTTドコモは移動体電話に向けて「040」で始まる新しい電話番号を提供すると発表した。これまで「010」「020」「030」「080」と番号を増やしてきたが、加速度的に普及する端末台数に、またしても番号が追い付かなくなった。

目覚しく成長を遂げる携帯電話事業の水面下で、NTTドコモは後の「iモード」に打って出る準備を着々と進めていた。ACCESSのCompact NetFront Browserを搭載する携帯電話機の試作を9月に開始して以来、永田清人らが属するNTTドコモ 移動機技術部には、NECと松下通信工業の担当者が週に数回、足を運ぶようになった。

その中に関西弁を操る小柄な男がいた。大阪の研究所から急遽東京行きを命じられた松下電器産業の田中康宣である。

「コンテンツが見えてきまして…」。NTTドコモ 移動機技術部の担当者が、図や表をちりばめた極秘資料を差し出す。東京・虎ノ門 新日鉱ビルのNTTドコモ本社。田中は松下通信工業の加藤淳展とともに、打ち合わせのテーブルを囲んでいた。

田中に手渡された資料には、ネット・バンキングやニュース配信、航空券のチケット予約といった、具体的なコンテンツが示されている。電話機の試作が始まった時点とは桁違いの詳細な内容だ。猛スピードでコンテンツの青写真が明らかになってきたのには訳がある。NTTドコモ ゲートウェイビジネス部に、ベンチャー企業の副社長としてインターネット関連ビジネスの最前線でもまれてきた夏野剛が加わったのだ。

「うーん、なるほど…」。田中は資料をめくる。それぞれのコンテンツについて、ユーザーがどのようにページをたどっていくのかが詳細なフローチャートでまとめられている。ただし、図表が示す手順はいまだアイデアの域を出ず、技術的に詰めなければならないことが山ほどあった。田中の役割はNTTドコモが定めた仕様に対してコメントを述べることだった。

話すより見せたほうが早い。一度うなったきり、黙々と資料を読んでいる田中を、加藤はちらりと見る。

「田中さん、どうしたの?」。加藤の心配そうなつぶやきに、同席者も田中の顔を盗み見た。移動機技術部の担当者が資料の図を指す。「企画部隊によるとですねぇ、コンテンツメニューのトップに来たら、まずユーザーが獲得したポイントの合計を表示したいんだそうです。いったん、ポイントをサーバーから読み出して表示して、その次にメーンメニューに画面を自動的に切り替えます。この場合、携帯電話機とサーバーはどうやりとりをしたらいいか、ご意見を頂きたいんです」。

移動機技術部の担当者が資料を指さしたままで田中の顔を見た。

「そうですねぇ、うーん」。田中は口ごもる。見守る加藤の額には汗がにじんできた。

「ほんまは、こんなんは…」。一同の視線が田中にくぎ付けになる。

「口で言うより書いた方が早いですわ」。おもむろに立ち上がった田中は、ホワイトボードに文字列を書き始めた。

「自動的にページを切り替えたいんであれば、何秒後かに指定したページにジャンプするという命令をHTMLで書いてあげたらいいんですよ。えーっと…」

みるみるうちにホワイトボードは横文字の群れに埋め尽くされる。室内にはペンが走る音だけが響く。

「こんな感じですかねぇ」

田中はペンのキャップを締めた。一同、開いた口がふさがらない。その内容がようやく頭に染み通ると、同席者からは滝のように質問が流れ始めた。

「そうすると次はですねぇ、『マイメニュー』というのが出てきます。これはユーザーが気に入ったコンテンツをブックマークできる機能なんですが…」

NTTドコモの担当者は一つ一つ、資料の上のフローチャートに従って説明を続ける。企画部隊が考えているコンテンツは、ユーザーに対して、一方的に配信するものだけではない。位置情報サービスやアンケートといった、ユーザーの携帯電話機とサーバーが何度も命令をやりとりする必要があるコンテンツもある。このペースで話を進めていては、時間がいくらあっても足りないと、田中は焦り始めた。

「うん、分かりました。次の打ち合わせまでに、この資料にあるコンテンツを実際にHTMLで書いて持ってきます。それを見ながら話した方が早いんやないかと思います。それと、ネットワークの稼働状況を説明するために、パソコン上でシミュレーションできるソフトも用意させてください」

田中は長時間の議論に火照った表情のまま、ようやく腰を下ろした。

突然の電話

東京・水道橋のACCESS本社。取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久は机に向かって、大城明子や笛木一正ら実装部隊からの報告書に目を通していた。

社員50人の小さなソフトウエア開発ベンチャーであるACCESSにとって、今回の試作プロジェクトは主力製品の組み込みブラウザーを一気に普及させる千載一遇のチャンスだった。携帯電話機にブラウザーを載せるという誰も経験したことがない作業は、決して楽ではなかったが、大城と笛木の大車輪の活躍でどうにかスケジュール通りに進んでいた。

突然、電話のベルが鳴り出した。電話の主は永田である。話したいことがあるので東京・虎ノ門の新日鉱ビルに来てほしいという。てっきり試作の打ち合わせだと思っていたが、それは鎌田の大きな勘違いだった。鎌田を待ち構えていたのは、プロジェクトが始まって以来の巨大な誤算だった。

思わぬ誤算

NTTドコモ 移動機技術部 主幹技師(当時)の永田清人氏(写真:栗原克己)

「突然で申し訳ないんだけど、秋の人事異動で担当を変わることに…」。NTTドコモ本社の一室。永田は鎌田や移動機技術部の担当者が集まった場でつぶやくような声でポツリと語った。

「……」

鎌田の顔は蒼白に変わる。

「千葉と申します」。永田の隣に座っていた男が立ち上がって頭を下げた。永田の後任として試作プロジェクトを担当する千葉耕司だ。

「あ、初めまして。鎌田です」。ぎこちなく腰を上げた鎌田は、動揺を悟られないよう、ありったけの笑顔を浮かべて名刺を交換する。

永田が単に試作プロジェクトの総責任者というだけだったら、鎌田はここまで打ちのめされなかっただろう。6月25日にCompact NetFront Browserを提案して以来、ACCESSの技術力を一番評価してくれたのが永田だった。決断が早く、的確な指示を与えてくれる永田がいたことで、どれだけ作業がやりやすくなったか知れない。

「一番気心が知れていた永田さんがいなくなるなんて…」

鎌田は登っていたはしごを突然外されたような宙ぶらりんの状態に置かれた。NTTドコモとの仕事が決まった時、技術を吸い取られて捨てられる危険と背中合わせだと鎌田に忠告する第三者がいた。鎌田は永田と付き合っている中で、こうした不安を感じたことは一度も無かった。巨大企業の一員でありながら、小さなソフトウエア開発会社のACCESSに常に対等な関係で接してくれた永田に、鎌田は尊敬の念すら覚えていた。

「永田さん…。これまで僕らが話してきたことはどうなるんですか」

目の前で黙って座る永田に、鎌田は心の中で問い掛けた。鎌田にとって気掛かりだったのは試作の行方だけではない。Compact NetFront Browserと対になった記述言語である「Compact HTML」の標準化も、永田の協力なくしては、暗礁に乗り上げる恐れがあった。

ACCESS 取締役副社長 研究開発担当(当時)の鎌田富久氏(写真:栗原克己)

今回の試作が決まった日、鎌田はCompact HTMLをインターネットの標準化団体であるW3C(World Wide Web Consortium)に提案したいと持ち掛けた。この提案の根底に流れる発想は、永田の信念とピタリと一致した。NTTドコモのコンテンツ配信ビジネスの成否は、どこまで多種多様のコンテンツを用意できるかに懸かっている。そのためには、コンテンツプロバイダーが使いやすい記述言語が必須になる。既に普及しているHTMLのサブセットであるCompact HTMLは、候補として不足はない。加えて世界標準規格として認知されれば、まさに鬼に金棒だ。

鎌田は標準化のメンバーに何としてもNTTドコモを引きずり込みたかった。同社に名を連ねてもらえれば、間違いなく強い冠になる。標準化に同調してくれた永田がいなくなると、こうした目論見がすべて泡沫に帰すのではないか。鎌田は心配でたまらなかった。

鎌田は永田の心境をこの場で聞きたいと思った。しかしあえて口をつぐんだ。永田も心苦しく思っていることが、鎌田には痛いほど分かったからだ。

「それで、これからのことだけどね…」。永田は小さな声で切り出した。永田が次に担当する業務は、W-CDMA方式を使った次世代携帯電話機の開発だという。今後の試作には支障がないように引き継ぐと永田は低い声で説明する。呆然とする鎌田の耳に、その言葉はほとんど届いていなかった。

後ろ髪を引かれる思い

永田は、矛盾する思いの狭間で苦しんでいた。次世代携帯電話機の開発は、NTTドコモの将来を左右する大仕事である。技術者としてこれほどやりがいのある仕事はめったにない。一方で現在の仕事に後ろ髪を引かれないといえばうそになる。Compact NetFront Browserを搭載する携帯電話機の試作を最後まで見守りたいと誰よりも強く願っていたのは、他ならぬ永田自身だった。

記述言語の標準化の行方も気に掛かった。2カ月ほど前の9月15日。スウェーデンEricsson(エリクソン)と米Motorola、フィンランドNokia(ノキア)、米Phone.com(前Unwired Planet)が、「Wireless Application Protocol(WAP)」と呼ぶ仕様をWWWサイト上で公開し始めた。

独自の記述言語HDMLを使う携帯電話向けのコンテンツ配信技術である。日本独自のPDC方式を採用したことで世界から孤立したとの批判を受けるNTTドコモの社内では、海外の大手携帯電話機メーカーが採用するWAPを推す声が日増しに高まっていた。

そんな逆風の中で永田はCompact NetFront BrowserのようなHTMLブラウザーを採用すべきだと一貫して訴え続けてきた。WAPは所詮、携帯電話の世界でしか通用しない限定された仕様。パソコン等で幅広く利用されているHTMLこそ、本当の意味での標準だ。永田はこの信念を一度も曲げなかった。

永田の強い意志が表れた出来事を、NTTドコモ ゲートウェイビジネス部の榎啓一は目撃している。

「WAPの将来性には疑問が残る。HTMLブラウザー以外に考えられない」。WAPを推す上司に対して、永田はこう声を荒げて反論したという。

永田は自らCompact HTMLの標準化を後押しするつもりだった。9月にはフィンランドに飛び、世界最大の携帯電話機メーカーを標準化メンバーに招き入れようと説得を試みたばかりだ。目の前にいる鎌田に現地から電話で相談したことを、永田は鮮明に思い出した。

「なんで言い出しっぺがいなくなっちゃうんだよ」。異動が明らかになった後、榎は永田にこう声を掛けた。榎にしてみると、残念さと労をねぎらう気持ちが相まって、思わず口をついて出た言葉だった。

永田には返す言葉が無かった。

原点に立ち返る

東京・水道橋のACCESS本社。自室にこもった鎌田は机の引き出しから1枚の名刺を取り出してぼんやりと眺めた。名刺の表には「Unwired Planet」とある。鎌田にはこの名刺にまつわる苦い思い出があった。

Unwired Planetの人が手渡した名刺(写真:的野弘路)

1997年6月18日。鎌田はNTTドコモに接触する以前から、Compact HTMLの標準化に向けて活動を始めていた。この日、W3Cの代表者会議が東京・品川で開催された。鎌田は「Embedded WWW」と題して、携帯電話でインターネットにアクセスする方式について語った。講演が終わると、1人の男が挨拶に訪れた。この男が差し出したのが、今手元にある名刺である。

「とても参考になりました。でも、ワイヤレスの世界は特殊ですよ。HTMLブラウザーでは難しいんじゃないですかね」

こう言い残し、男は去っていった。携帯電話向けのコンテンツ配信技術を売り込むUnwired Planetの存在を、当時の鎌田は知らなかった。売り込み先の1つがNTTドコモだと知ったのは、随分後のことだった。

「もう時間がない」

永田を失った衝撃を振り払うかのように鎌田はつぶやいた。鎌田の心にはもう1つの苦い経験が浮かんでいた。インターネットテレビ向けの記述言語の標準化を試みた時のことである。鎌田は米国でサービスを展開するWebTV Networksと組んだ方が得策と踏んだ。これが失敗のもとだった。両社の思惑の調整に手間取り、仕様が決まった時には既に陳腐化していた。「待ちの姿勢」が災いしてタイミングを逸したことを、今更のように鎌田は後悔した。

「永田さんがいなくなったことをどんなに嘆いても先には進めない」。鎌田は決意を新たにした。

(写真:的野弘路)

発売まであと1年

――ゴロゴロ、ガチャン。「あかん、壊れてもうた」。

11月の東京・新橋。松下電器産業の田中らは新橋駅の前を歩いていた。田中は自前のノートパソコンとプリンターをぎゅうぎゅうと押し詰めた旅行用カートを引いていた。あまりの重さにカートが耐え切れず、往来の真ん中で車輪が突然外れてしまったのだ。

「ほんま、ついてへんなぁ」。田中はひざを突いて車輪を調べる。2人はこれから地下鉄で虎ノ門のNTTドコモ本社に行かなくてはならない。前回の打ち合わせから数日。田中はホテルにこもってNTTドコモから示されたコンテンツをHTMLで記述した。

壊れたカートを前にして田中は途方に暮れた。ノートパソコンとプリンターは会議の必需品だ。HTMLの話は口で説明するよりその場で印字して見せたほうが早い。

「あそこでカートを買い替えよう」。加藤はこう言い、田中と小走りで目の前にあった量販店の「キムラヤ」に飛び込んだ。田中は新品のカートを選んでレジに並ぶ。

「やっぱり安物はダメやな」。田中はこう言って笑った。加藤もつられて顔をほころばせる。

加藤がふと店頭に目をやると、店員が気の早い「クリスマスセール」の飾り付けをしていた。NTTドコモからは1998年のボーナスシーズンにはブラウザーを搭載した製品を発売する計画と聞いている。

「あと1年しかない」。加藤の顔から笑いが消えた。(文中敬称略)

(日経エンタテインメント! 白倉資大)

[日経エレクトロニクス2002年9月23日号と10月7日号の記事を基に再構成]

春割ですべての記事が読み放題
今なら2カ月無料!

セレクション

トレンドウオッチ

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
春割で申し込むログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
春割で申し込むログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
春割で申し込むログイン