ネット史に輝く金字塔、「iモード」生んだ運命の出会い
iモードと呼ばれる前(1)

「iモード」開発の経緯を綴った自著「iモード事件」(角川書店)を、松永真理はこう書き出している。「いつのころからか、iモードの生みの親と呼ばれるようになった。そのたびに、首を傾げながら『私ひとりが生んだわけではありませんから』と訂正を入れる」。
「とらばーゆ」の編集長だった松永真理。ベンチャー企業の副社長から転じた夏野剛。そして、異色の人材を受け入れ、1つにまとめた榎啓一。 iモードを成功に導いた立役者として華々しく雑誌のグラビアを飾った人々がいる。
ユニークなビジネス・モデルを創造し、粒ぞろいのコンテンツを集めた彼らの功績は絶大だ。しかし、松永が指摘するように、彼らの奮闘は、物語の一面でしかない。目覚ましい成功の裏に、独創的なアイデアと型破りな人間性で困難に打ち勝った技術者の存在があったことは意外と知られていない。
まだiモードという名称も、サービスの枠組みさえもなかったころ、その原型となる技術を開発していたベンチャー企業の技術者がいた。このベンチャー企業の先進性を見抜いたのがNTTドコモの1人の技術者だった。この2人の出会いがなければ、iモードは存在しなかった。
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1997年6月25日
「うわぁ」
男は、タクシーから降りた瞬間、むっとする熱気に思わず声を漏らした。1997年6月25日の午後1時過ぎ。東京都心の気温は30℃を超えていた。じっとりと暑苦しいこの日が、iモードの将来を方向付ける決定的な日になった。
「今日の相手だけは何とかして落としたい。大物を釣り上げてみせる」

男はこう自分に言い聞かせながら細身の背筋をピンと伸ばした。同僚とともに歩を進める先には、ずんぐりしたビルが周囲の建物を圧する威容を見せている。東京・虎ノ門の新日鉱ビル。がらんと広いホールにあるNTTドコモ本社の受付で、男は来意を告げ、2階の会議室へと急いだ。
同じ時、ビルの中ではもう一人の男が事務机に向かっていた。机の上には山と積まれた書類の束。
「そろそろ会議、始まりますよ」部下に声を掛けられ、男は腕時計に目をやる。
「分かった。先に行ってくれ」
ぶっきらぼうに答える男に、部下はその場を立ち去りながらこう言った。「企画の人間は10人以上出席するみたいですよ。ウチは僕らだけでいいんですかね」
企画サイドからは有望な技術のプレゼンテーションがあると聞かされている。それなりの待遇で応えなくてよいのかという部下の気遣いだ。
男は、眼鏡の奥から鋭い視線で部下をにらみつける。「どこの誰とも知れない人間に、全員が雁首そろえて会いに行くほどヒマじゃないだろ」
部下を追い払い、不機嫌そうに書類を片付けた。
男の機嫌が悪いのには理由があった。外部のコンサルタントが持ち込んでくる企画の会議がこのごろ急に増えていたからだ。「PDA(携帯情報端末)と携帯電話機を合体してインターネット・サービスを実現」。こういったたぐいの話に正直なところうんざりしていた。「どいつもこいつも、すぐPDAを開発したがる。どうせ今日の話も同じだろう」。そう考えると余計、会議に出ることが億劫(おっくう)に思えてきた。
「普通の携帯電話機がネット端末にならないとダメだ」。それが男のかねてからの持論だった。男には苦い経験があった。2年前にスイスのジュネーブで催された「Telecom95」で、NTTドコモはPDA型の携帯電話機を出展した。来場者の評判は芳しくなく、結局製品にならずに消えた。その開発責任者がこの男だった。
机上の手帳を手にすると、男は苛立ちを隠すように両頬をたたき、小走りで会議室に向かった。
「この人が技術のキーマンか」

細身の男の一団はビルの2階でエレベーターを降り、あらかじめ告げられていた会議室を目指した。建物の一番奥に位置する大きな細長い部屋だ。
ドアをノックして中に入ると、既に部屋は10数名の人間で混み合っている。席に座って腕時計に目を走らせる。ちょうど約束の時間の午後1時30分。もうすべてのメンバーがそろったころだろうと踏んで、話を切り出そうとした時だった。
突然、1人の男が扉を開けて足早に駆け込んで来た。最前の苛立ちの表情は、きれいさっぱりぬぐい去られている。男が部屋に入るなり、同席者は立ち上がり波が引くように道を譲った。「きっと、この人がキーマンだな」。細身の男はこう直感した。名刺を差し出しながらあいさつする。「ACCESSの鎌田と申します」。手渡した名刺にこうある。「ACCESS 取締役副社長 研究開発担当 鎌田富久」。
もう一人の男は不敵な笑顔で名刺を取り出した。「NTTドコモ 移動機技術部 主幹技師 永田清人」。
iモードのひな型を築き上げた2人が初めて顔を合わせた瞬間だった。
「うさんくさいな」
会議の出席者全員に「小型情報機器向け Compact NetFront Browser」と題する鎌田のプレゼンテーション資料が配られた。全部で3ページのA4判のモノクロ資料である。
ページをめくると「HTMLを表示するブラウザー機能を非常に小さなメモリー空間で実現します…」といううたい文句が躍る。一瞥(いちべつ)した永田は心の中でつぶやく。「ケータイの画面にHTMLを表示するだと。随分うさんくさいのが来たな」。
鎌田は簡単なあいさつを済ませると、淡々とプレゼンテーションを始めた。「例えば、モノクロ画面で320ドット×240ドットとした場合、私どものWWWブラウザーのコード領域は180Kバイト程度になります」
プレゼンテーションに慣れた鎌田の物腰は柔らかく、歯切れもいい。しかし、鎌田の説明が進行するにつれて、永田の顔はどんどん険しくなっていく。じっと腕を組み、口を真一文字に結んで資料の文字を追う。
永田はうずうずしていた。「そんなに小さなメモリーにブラウザーが載るわけがない」と今にも口走りそうだった。鎌田の提示したメモリー容量は永田の常識を1ケタ下回っていたのである。

鎌田の弁舌はどんどん滑らかになっていく。「今回は携帯電話機への搭載ということですので、特別な拡張機能も用意しました。『phone to:スキーム』といいます。『phone to:03-XXXX-XXXX』とHTMLを記述すれば、いちいちダイヤル・ボタンを押さなくても、選択ボタンを押すだけで電話をかけられるようになります」
同席者から感嘆の声が漏れる。しかし永田の耳には入らない。そもそも、初めて会って「ウチの製品はこんなに良いモノなんですよ」と売り込む輩にろくな人間はいない。そう永田は常々思っていた。ましてやACCESSなんて、聞いたこともないベンチャー企業だ。
当時、家電業界ではACCESSは既に名を知られた会社だった。組み込み機器向けのWWWブラウザー「NetFront(ネットフロント)」を販売し、インターネット対応テレビやワープロ、PDAなどへの採用実績があった。一部ではインターネット家電の世界を実現する急先鋒の技術として高い評価を獲得していた。
当然、鎌田はこうした実績に触れながら説明を続けた。しかし、それが永田の心を動かすことはなかった。「他の機器で実績があったとしても、利用できるハードウエア資源が限られた携帯電話は別だ」という確固たる信念があった。鎌田が説明する夢のような技術仕様を、永田はにわかには信じられなかった。
「本当に動くんですか?」
「私からの説明は以上です。何かご質問はありますか」
鎌田のプレゼンテーションが終わり、一同を沈黙が襲う。まだ永田は資料から目を離さない。一言一句を徹底的に精査していた。
NTTドコモ側の企画担当者が間を持たせるために何か言おうとした瞬間、突然堰(せき)を切ったように永田の口から質問があふれ出した。「どんなマイクロプロセッサーだとこれが動くんですか」
「…例えば(インテルの)x86系での動作を確認しています。他のプロセッサーへの移植もそれほど難しくないと考えています」
意表を突かれた鎌田を前に、永田は本領を発揮し始める。「鎌田さんがおっしゃる通り、 NetFrontがテレビやワープロで動いていることは分かりました。でも、携帯電話にはそんなに大きなメモリーは積めないんですよ。本当に動くんですか?」
もちろん鎌田は「動く」と答えるに決まっている。それでも永田は、この問いを口に出さずにはいられなかった。
永田は根っからのソフト屋を自認している。プログラムを小さく作るとか、メモリーが足りないといった話は感覚的に分かる。どんなに巧妙に飾り立てても、必ずウソは見破ってみせる。そんな気概が言葉の端々にみなぎった。
鎌田は一歩も譲らない。「はい、動きます。実際、私どもの会社では、NetFrontを小型化した製品の試作版が完成しつつあります。携帯電話での利用にも最適です」
「こんな人がNTTにいたのか」
平然を装いながらも、鎌田は内心では永田が自分の話を信用していないことを十二分に感じていた。
鎌田が驚いたのは、永田から飛び出す質問がどれも鋭くポイントを突いていたことだ。HTMLのデータを圧縮するか否か、暗号化の方式、サーバー側に持たせる機能、クライアント側との処理の切り分けなど、これまで企画担当者との打ち合わせでは出てこなかった手ごわい質問が矢のように飛ぶ。鎌田は何食わぬ顔で受け答えしていたが、実は永田の質問をメモするのに必死だった。
「この人はできる。この人を説得できなければ、一歩も先には進めない」
鎌田は長期戦を覚悟した。
「うーん…。言葉で説明されていることはよく分かるんですが、どうしてもイメージとしてピンとこないんですよね」。こう言って黙った永田は、鎌田のことを不思議な人物だと感じ始めていた。「この人の自信はどこから来るんだろう。まるで技術が完成しているかのような話しぶりだ。もしかしたら本当に動くのか。まさか。そんなはずは絶対にない」。

永田は鎌田を徹底的に問い詰める作戦に出た。「例えばね、Webサイトにアクセスするということは、閲覧するだけじゃなくて、文字を入力する必要も出てきますよね。今の携帯電話機では電話帳に名前が入れば十分ですから、パソコンみたいに大容量の辞書が載っていません。ブラウザーを搭載するなら、辞書データだけで200Kから300Kバイトくらいにはなる。さらに仮名漢字変換の部分が40Kバイトか50Kバイトは必要になるでしょう。軽いとおっしゃるNetFrontですが、実装するためにはもっと軽くする必要が出てきます。それが本当に可能ですか」
「それともう一つ、ブラウザーのサイズをROM(読み出し専用メモリー)とRAM(書き換え可能なメモリー)に分けてもっと詳細に教えてください。どの機能にどれくらいメモリー領域が必要なのかが分からないと、何とも言えませんから」
永田は押し続けた。
鎌田はこれまで体験したことのない異常な熱気を感じていた。外気の暑さとは違う、人間だけが発する熱がひしひしと身に迫ってくる。「こんな人がNTTにいたなんて。この人に分かってもらうためには、実際に動いているモノを見せるしかないんじゃないか」。鎌田は永田の威圧感に耐え切れなくなってきた。
「それでは、次回のミーティングで、動いているものを実際にお見せしながら再度提案させてください」。精一杯の力で鎌田はこう切り出した。
「それがいいですね」。永田も賛同した。
会議室に張り詰めていた空気が一気に開放され、2人のソフトウエア技術者のプライドを懸けた闘いはひとまず中断した。
次のミーティングは1997年7月22日の午後1時からと決まった。
リベンジに懸ける
「あの会議の日、鎌田はNTTドコモから帰ってくると、随分悔しがっていた」と、ACCESS 代表取締役社長(当時)の荒川亨は振り返る。
永田と会った日の晩、早くも鎌田は会社の自室にこもって次回のプレゼンテーションの準備に取り組んだ。鎌田の部屋のあちらこちらには試作ボードや製品のモックアップが無造作に並んでいる。これまで、NetFrontを載せてきたテレビ受像機、ワープロ、PDAといったさまざまな機器の名残だ。
対象が携帯電話機に代わってもNetFrontは問題なく動く、という確信が鎌田にはあった。実際、携帯電話機を想定したWWWブラウザー「Compact NetFront Browser」を開発中で、パソコン上で動かすプロトタイプが既に出来上がりつつある。今日のプレゼンテーションで指摘された点を基に若干の修正を加えれば、永田を満足させられるレベルのデモンストレーションを見せる自信があった。念には念を入れて、電子メール画面のサンプルや具体的なコンテンツ画面を想定したGIF形式の画像も用意することにした。
「絶対に説得してみせる」鎌田の眼は1カ月先を見据えていた。
「よし。いけるぞ」
「ほぉー」
ノートパソコンのディスプレーに映ったブラウザーを見て、同席者から感嘆の声が漏れた。1997年7月22日。鎌田富久はこの瞬間を待っていた。
「小型情報機器向けCompact NetFront Browser」と題した提案書を、NTTドコモに持ち込んだのが6月25日。携帯電話機にWWWブラウザーが載ると自信満々で主張する鎌田に、渋い表情を見せたのがNTTドコモの永田清人だった。あれから1カ月。自分の話を全く信用しない永田に、試作版を手にした鎌田が再び挑戦するときが来た。

「小さい画面ですので、少し見づらいですが…」
こう話す鎌田の正面に座った永田は、一見すると不機嫌な面持ちで、少し身を乗り出してディスプレーを見つめる。細くて長い会議室には20人近い同席者が集まっていた。自然に1人、2人と椅子から立ち上がり、小さなノートパソコンの前に鈴なりになった。
画面には「Main MENU」とある。その下にメールやスポーツ情報、天気といったメニューが並ぶ。カーソル・キーで一つひとつメニューを選びながら、鎌田は想定するコンテンツや、サンプルとして用意したGIF画像などを見せる。

「では、もっと深い階層まで行きます」。鎌田は手を伸ばし、ファンクション・キーや数字キーを押して次々と画面を切り替えていく。メール画面を表示し、あらかじめ入力したメールの文章をスクロールさせる。F1キーを押して画面を1つ前に戻す。一連の動作を繰り返しながら、鎌田は永田の表情を伺う。鎌田の目には明らかに永田が画面に引き込まれていく様子が映った。
「よし。いけるぞ」鎌田の血が躍った。

「へぇ,本当に動くんだ」。永田は心の中で思わずこうつぶやいた。鎌田の1度目の提案から想像していたよりも、ずっと良い出来栄えだ。
「これだったら榎さんの構想も実現できるかもしれないな」
永田は、白髪の交じる小柄な紳士が、人懐こい笑顔で語った雲をつかむような話を、ぼんやりと思い起こしていた。
「DoPa」に白羽の矢

iモードを一から立ち上げた男。それがNTTドコモ の榎啓一である。始まりは1997年1月上旬だった。当時の代表取締役社長である大星公二に呼び出された榎は、分厚い報告書を手渡される。コンサルティング会社のマッキンゼーがまとめたそれには、携帯電話機を使った新しいデータ通信サービスの可能性が事細かに記されていた。
大星の要求はシンプルだった。このサービスを現実の事業にしろというのだ。榎にしてみればとんでもない話である。何しろ、頼れる人間は一人もいない。組織もなければ専属の部下も決まっていなかった。当時の榎の肩書は法人営業部長。大学の専攻こそ理系だったものの、最新技術についての知識は皆無に等しかった。そんな榎にできることは、社内外の識者を探し出し、各人の意見を丹念に集めていくことくらいだった。
最初に榎が目を付けたのは、携帯電話機同士で全角25文字までのメッセージを送受信できる「ショートメール」である。ちょうどNTTドコモは1997年6月のサービス開始に向けて、準備を進めていた最中だった。ユーザー間でのメールのやりとりだけでなく、さまざまな情報をメールに載せて配信サービスを提供できないかと榎はもくろんだ。
発想は悪くなかったものの、程なく榎は壁にぶつかる。ショートメールでは送受信できる文字数が少なく、多数のユーザーからの同時アクセスに耐えられるネットワークの確保に不安があることなどが明らかになってきた。
榎が好運だったのは、ショートメールより一足早くNTTドコモが始めた別のサービスがあったことである。1997年3月28日に開始した携帯電話によるパケットサービス「DoPa(DoCoMo Packet)」だ。DoPaでは通話時間ではなく、やりとりするパケットの量によって課金する仕組みが既に出来上がっていた。携帯電話経由でパソコンを企業のLANにつなぐサービスで、1997年8月にはインターネットへの接続も始まる。コンテンツ配信にもピッタリだ。榎は早速DoPaを活用するための策を練り始める。
「当初、DoPaの基地局は東京一円ぐらいにしかなかったんですよ。それを私の一存で全国に広げることにしたんです。自分が責任を取る。社内でこう宣言すれば、一介の部長が何百億という投資の決定を下すことができた。あのころは、そういう雰囲気がありましたね。ちょうど携帯電話の加入者が劇的に伸びた時です。その伸びに社内の組織が追い付いていけなかった。その結果、大幅な権限の委譲が起こったんです。今だったら同じことができたかどうか…」
榎は当時をこう振り返る。
コンテンツ配信のインフラにメドが立つ一方で浮上してきたのが、コンテンツを受ける端末をどう作るかという問題だった。ここで榎が相談を持ち掛けたのが、パケット通信対応の携帯電話機の開発を指揮してきた永田だった。
ブラウザーはどうするのか
降ってわいた話に永田は耳を疑った。DoPa網を利用したコンテンツ配信というアイデアに、永田は素直にうなずけなかった。そもそもDoPaはパソコンやPDAに、インターネットに接続する手段を提供するものでしかなかった。コンテンツの閲覧などの処理はパソコンやPDAが実行するのが常識だった。それを榎は携帯電話機でやりたいという。

永田にとって、それは携帯電話機のハードウエアの実状を知らない素人の発想だった。DoPa対応の携帯電話機でさえ、実現には多大な労力を費やした。それに加えてコンテンツの表示機能を載せるなんて正気の沙汰じゃない。プロセッサーの能力やメモリー容量をどれだけ増やせばいいと思っているのか。第一、表示画面が今の寸法で済むはずがない。
その結果がPDA型の携帯電話であることを永田は容易に想像できた。その先に待ち受ける暗い結末さえ知っていた。かつてお蔵入りになったPDA型携帯電話機を開発していたのは、ほかでもない永田自身だったからだ。
「後はやってみないと…」
「メモリー・マップを見れば、NetFrontがいかに軽いブラウザーであるかが分かっていただけると思います」
鎌田が口にした、とっておきの「殺し文句」に永田は我に返った。
ディスプレーにはメモリー領域の使用状況を数値で見ることができるメモリー・マップが映し出されている。「ご覧の通り、コードはわずか150Kバイトです」
こう鎌田が言った瞬間、永田の口が動いた。「x86系のマイコンだとそうでしょうけど、携帯電話機のマイコンの処理能力は違いますよね。メモリーはこれより小さくできるんですか」。永田のひと言で、場内は静まり返った。
「小さくできます。でも正確な数字は、実際にコンパイルしてみないと…」
これ以上はやってみないと分からない。それは誰の目にも明らかだった。永田は腕を組み、じっと目を伏せる。同席者はただ、黙って状況の推移を見守るしかなかった。
この技術はスジがいい
永田の頭は猛然と回転を始めていた。目の前に動いているブラウザーがある。しかもかなりの完成度で。出来合いの技術でここまで実現できるのなら、使わない手はない。自分達でやろうと思ったら必要になるとんでもない時間とコストが一足飛びに削減できる。永田はこれまで見てきた数々の技術を思い返しながら、NetFrontを値踏みした。
永田は榎のグループからよく似た技術の話を聞き及んでいた。米Unwired Planet(UP)の携帯電話機向けブラウザーである。当時UPはHDMLと呼ぶ独自の記述言語に対応するブラウザーの開発と販売を手掛けていた。永田が鎌田と初めて会った直後の1997年7月14日には、当時のCEO(最高経営責任者)であるAlan RossmannがNTTドコモを訪れ、榎に面会している。
UPのブラウザーの採用に永田は否定的だった。何よりもUPが独自の言語仕様を用いて技術の囲い込みを図ろうとしていることが気に掛かった。
「ウチのブラウザーとサーバーを買えば、ドコモはもうかりますよ」。Rossmannは榎にこう語ったという。コンテンツの配信から表示まで、すべてをUPに任せてほしいというのだ。
この枠組みに潜む陥穽(かんせい)を永田は敏感に察知していた。サービスの内容を大きく左右する言語仕様を握られてしまったら、NTTドコモはUPのいいなりになるしかない。UPがブラウザーの内部を一切公開しないことも問題だった。携帯電話機の限られたハードウエアを利用し尽くすには、ブラウザーの内部に踏み込んだ議論が絶対必要になるはずだ。
永田は鎌田の顔を見た。ACCESSのブラウザーは標準のHTMLで記述したコンテンツを表示できるという。ブラウザーの細部に関わる議論も、この人がいれば問題ない。永田は、榎のグループが、ACCESSのプレゼンテーションにしきりに誘った理由を今さらのように理解した。
永田は口を開いた。「そうですね。あとは実際に携帯に載せてみないと何とも言えませんよね」
永田は、柔和な表情で頭を掻いた。この技術はスジがいい。少なくとも試してみる価値はある。永田の腹は決まった。「試作に入りましょう」
鎌田は心の中で快哉を叫んだ。
「商用化の約束はできません」
安堵する鎌田に永田はくぎを刺す。「御社のブラウザーが商用化までこぎ着けるという約束はできません。私の責任で言えるのは試作までです。それでも受けていただけますか」
「はい。試作に入らせてください」。鎌田は躊躇(ちゅうちょ)なく答えた。不安がなかったわけではない。この会議の数カ月前、鎌田はつらい経験をしたばかりだった。NTTドコモのお呼びが掛かる前、ACCESSはあるメーカーとブラウザーを搭載するPHSを共同開発していた。試作機の完成までこぎ着けたところで突然発売が中止になった。
理由は分からない。試作に費やした時間は一瞬にして水泡に帰した。鎌田は自社の立場の弱さを痛感せずにはいられなかった。いくらブラウザー技術が優れていても、携帯電話機という実績のない分野で、ACCESSが単独でできることには限界がある。
もちろん、今回も同じ結末にならないとは限らない。それでもNTTドコモという通信事業者と手を組めることは大きなチャンスだ。鎌田はこのチャンスを絶対に逃すまいと誓っていた。
この機に乗じて鎌田は一つの依頼を口にすることも忘れなかった。携帯電話機向けのブラウザーを普及させるために、最も重視していたことだ。
「実は、NetFrontで閲覧できるHTMLの仕様を標準化する提案書をW3C(World Wide Web Consortium:Web技術の標準化団体)に出したいと考えています。できれば、御社にも標準化の提案メンバーに名を連ねていただきたいのですが…」
鎌田がこう言うと、席を立とうとしていた永田は改めて座り直した。鎌田は自説をかいつまんで説明する。携帯電話機向けのブラウザーが普及するかどうかは、閲覧できるコンテンツの数が勝負の鍵になる。コンテンツを増やすには、コンテンツの制作者が使いやすい言語仕様を提供することが不可欠だ。現状のHTMLを簡略化するだけでなく、その記述様式を標準化して誰でも利用できるようにする必要がある。
当時、ACCESSは携帯電話向けの標準的なHTMLの仕様策定を水面下で進めていた。しかし、ソフトウエア開発会社や携帯電話機メーカーの提案では、いま一つインパクトに欠ける。NTTドコモが標準化の提案に名を連ねてくれれば、提案自体の重みがぐっと増すことになる。
永田はニヤリと笑みを浮べる。まさに同じことを自分も考えていたからだ。「技術の囲い込みをするつもりはありません。できる限りのことはします」
2人の技術者は旧知の友人のように目配せを交わした。
NTTドコモのアイデアとACCESSの技術が手を組んだことで、iモードは実現への大きな一歩を踏み出した。くしくもコンテンツ側でもNTTドコモの外部から「新しい血」が入ろうとしていた。
社内の発想に限界を感じた榎の誘いを受け、リクルートを退社した松永真理は、1997年7月半ばに正式にNTTドコモの社員になる。その松永が呼び込んだ夏野剛も、ちょうどこのころから榎のグループに出入りを始めていた。
そして1997年8月。NECと松下通信工業の電話のベルが鳴る。(文中敬称略)
(日経エンタテインメント! 白倉資大)
[日経エレクトロニクス2002年8月26日号と9月9日号の記事を基に再構成]
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