ピンクのiPodをカイゼンに 写真で「気づき」を共有

博多と北九州のちょうど中間、福岡県宮若市に本社および主力の宮田工場を構えるトヨタ自動車九州。巨大な宮田工場はトヨタの高級車ブランド「レクサス」を中心に生産する、トヨタグループにおける国内の重要拠点の1つだ。2013年には生産台数が累計500万台を突破した。
トヨタは2014年7月29日にレクサスの新型車で、最近市場の関心が高い小型SUV(多目的スポーツ車)の「NX」を発売したばかり。このNXも宮田工場で生産している。価格は400万円台からと決して安くはないが、NXはトヨタの想定を超える引き合いの強さで、受注は好調だ。既に納車待ちが続いている。
記者が宮田工場を訪れたのは2014年10月末。混流生産ラインには、組み立て途中のNXがひっきりなしに流れていた。ボディーカラーは黒やシルバー、赤、青など様々。NXがラインに列をなし、「今か今か」と"自分"の組み立ての順番を待っている。トヨタ自動車九州は昼夜のフル生産体制を敷いて対応していた。
生産ラインにピンクのiPod Touch
そんな活況を呈するNXのラインのなかに、一際目立つ蛍光ピンクのたすきを身に着けた作業者の姿があった。同じくピンクの専用カバーを装着したモバイル端末を手に持ち、組み立て途中のNXのボディーにレンズを向けている。そしておもむろに、数枚の写真を撮り始めた。
作業者は何か気になる点を見つけたようだ。それを写真に収めて証拠を残そうと、カメラ付きのモバイル端末をラインに持ち込んで撮影していたというわけである。
実はこのモバイル端末は、米アップルの「iPod touch」。専用のカメラアプリのみを搭載し、生産工程での改善のヒントや不具合の報告といった撮影に特化した「セキュアカメラ」である。現場の作業者は静止画だけでなく動画も撮影できる。
撮影対象には現場のちょっとした気づきから、傷のような車の品質に直結する報告まで含まれる。これらを専用の写真管理システムを使って関係者間で素早く共有し、対応の初動を早めている。

ここに至るまでには現場の葛藤があった。現地現物を重んじるトヨタでは、現場の課題は現場で解決するのが基本だ。そのためにも作業者の自主性を尊重し、現場での気づきや報告したい内容があれば、場合によってはその場ですぐに写真を撮り、次の改善につなげること自体は珍しくない。奨励されるべきことだ。
ただし、トヨタのなかでも最高品質を誇る高級車レクサスのラインは、機密情報が満載の"規制区域"でもある。誰もが気軽にカメラを持ち込んで、写真を撮っていいわけではない。そこに長年にわたる、現場の"矛盾"があった。
規制と自由撮影の狭間で揺れる
トヨタ自動車九州の松尾基史IT企画部インフラシステム室長はシステム管理者の立場から、ラインでの写真撮影に頭を悩ませてきた。自由に撮影し、写真を作業改善などに役立ててほしいという思いは持っていながらも、これまでは機密情報の外部流出を恐れて「カメラの持ち込みや撮影を厳しく規制するルールを掲げていたのが実情だった」(松尾室長)。

セキュリティーの確保と、自由な撮影を認めることによるさらなる改善の促進を天秤にかけたとき、これまでは前者を優先せざるを得なかったというわけだ。特に発売前の新車の意匠(デザイン)が外部に漏れたりすれば、大問題になる。どうしても撮影には慎重になってしまう。
一方で、スマホやタブレットなどのスマートデバイスがますます身近になり、「こんなに便利な端末が安く手に入るのに、現場で有効活用しない手はないだろう」(松尾室長)とも考えるようになった。何とか相反する課題を解決できないかと、思いを巡らせていた。
そこでトヨタ自動車九州はまず、アップルに掛け合った。内容は「iPhoneのカメラ機能を使いながらも、標準搭載の撮影アプリを含む一般のカメラアプリを無効にして安全を確保しながら、別途撮影できる方法はないか」という"無茶"な相談だった。実際、そのような対応例はどこにもないとの返答が来た。
諦めかけていたとき、松尾室長は地元九州に本社を構えるITベンチャー、TRIART(トライアート、福岡県飯塚市)の今津研太郎代表取締役と出会う。普段は東京のオフィスで企業向けの映像や音楽配信などを支援している今津氏は松尾室長に、ユニークなアイデアを披露した。
iPhoneなどiOS端末に標準搭載されているカメラを使いながらも、各種カメラアプリは利用できないように「無効化」のガードをかける。代わりにTRIARTが提供するセキュアカメラソリューションのアプリだけを使えるようにする、というものだ。
九州企業同士の協業という組み合わせの妙もあり、トヨタ自動車九州はTRIARTの斬新な提案に飛びついた。2014年春に早速、セキュアカメラを搭載したiPhoneの試験導入を開始。NXの生産開始という2014年夏の山場を乗り越えて落ち着いた8月から、本格運用を開始した。
費用が安いiPod touchを配布
始めたからには「現場で堂々と撮影してほしい」と思い、松尾室長はあえて"派手"な演出を施した。背中に「撮影許可」の文字が大きく描かれたピンクのたすきを特注で100枚用意し、現場に配備した。
端末にも目立つピンクのカバーを取り付けた。こちらには「持出禁止」の文字が刻まれている。ピンクのたすきとピンクの端末を使えば、どんどん写真を撮ってよろしいというルールに改訂した。これにより、早くも1日に60~100枚ほどの写真が現場で撮影されるようになった。

本格運用に際しては、端末はiPhoneではなく、初期購入費や運用費をより安く抑えられると試算ができたiPod touchを約70台、取りそろえた。同じiOS端末なので、TRIARTのセキュアカメラをそのまま使える。
端末の台数がそろったことで、ラインでの写真撮影は簡単になった。撮影手続きだけを考えても、以前なら機密管理責任者への申請から機材準備、台帳記入、撮影後のウイルスチェック、機器返却と再度の台帳記入といった具合に、1回当たりに約34分もの時間がかかっていた。
それが今では機材を準備して最後に返却するだけで済む。これで約24分の時間を短縮できた。秒単位の作業改善が当たり前であるトヨタの現場にとっては、劇的な変化といえる。
もっとも松尾室長は「撮影にかかる準備といった付随作業時間の削減は2次的な効果にすぎない。それよりも現場で写真撮影が進んで、より多くの改善提案が現場から素早く上がってくることを期待している。セキュアカメラの導入は、働き方の改革という位置付けだ」と明かす。
こうしたトヨタ自動車九州の取り組みは今、トヨタグループ各社からも反響を呼んでいる。このところ宮田工場には、グループ関係者の見学が相次いでいるという。新たな改善ツールとして、グループにセキュアカメラが広がる可能性も出てきた。
世界初、写真は端末内に残さず
なぜ、TRIARTが開発したセキュアカメラは安全なのか。仕組みを説明しよう。最大の特徴は、iPod touchやiPhoneのカメラで撮影した写真のデータを端末内に保存できないようにしていることにある。撮影するとデータは社内の専用サーバーに暗号通信を介して自動的に送られ、そちらだけに蓄積される。

そのため、端末を紛失したり、盗難の被害に遭ったりしても、写真は端末の中にはないので、外部に持ち出される心配はない。端末からピンクのカバーを外そうとすると、警告音が鳴る仕掛けまで用意した。
セキュアカメラの起動時には従業員コードを打ち込むので、撮影者の認証と特定も容易だ。撮影した写真を閲覧できる人も限定し、上司や社内の関係部署の人たちだけが社内サーバーにアクセスできる。写真は例えば、作業の要望書や改善提案書の作成資料として使える。
撮影者の上司には写真の一覧が、撮影日時のタイムスタンプとともに定期的に届く。部下がいつ、どんな写真を現場で撮ったのかが一目で分かるようにした。意匠の問題も含めて、「車の写真を撮るときは車体全体が写り込むように撮るのではなく、近づいて部分的に撮るなど、ちょっとした撮り方のコツも上司が部下に教えていく」(松尾室長)。
iPod touchの配布から3カ月以上が経過すると、様々な部門から要望が上がり出した。例えば、品質管理部門からは塗装などで傷が見つかると接写して証拠を残す必要があるため、もっと画質の高いカメラを使いたいという声が出た。
また、現場の作業者からはもっと台数を増やして、いつでもさっと撮れる環境がほしいとの積極的な意見も出ている。今後はiPhone 6の採用も含め、導入端末の拡大を検討する。
(日経情報ストラテジー 川又英紀)
(日経情報ストラテジー2015年2月号の記事を基に再構成)
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