SPAC「グスコーブドリの伝記」
賢治ワールドに浮かび上がる切実な現代の寓意
昨年夏、世界でもっとも注目されるフランスのアヴィニョン演劇祭に正式招待され、高い注目を集めた静岡県舞台芸術センター(SPAC)がまたも快打を放った。芸術総監督の宮城聡(演出)が宮沢賢治の童話を言葉と音楽と人形による夢幻劇に仕立て、透明な詩情を舞台にあふれさせたのだ。中高生鑑賞事業の一環でもあるが、大人が見てもひきこまれる詩劇である。
岩手をもじった名ともいわれる理想郷イーハトーブで冷害が起き、稲のラテン語で学名にもなったオリザが実らない。グスコーブドリの父も母も森へ行ったきり帰らない。妹のネリは怪しい男につれていかれ、グスコーブドリも土地を買い占めた工場主に働かされる。火山局につとめるグスコーブドリは火山から肥料を降らせるが、27歳の年、またも冷害。火山を爆発させれば農民は救われる。帰れない任務を誰かがやらねばならないが……。
グスコーブドリの献身は農民たちに理解されない。それでも命をかけて彼らを救おうとする。凶作にあえぐ岩手の農民を憂い、肥料の相談にのっていた宮沢賢治その人の生き方や祈りを結晶化させた童話が「グスコーブドリの伝記」だ。山崎ナオコーラの脚本は原作の言葉を生かし、賢治の思想を示す「農民芸術論」なども加え、語りの世界をみずみずしく構成する。ちなみに劇作家平田オリザの下の名はこの童話から採られた本名である。
アヴィニョンで喝采を浴びたインドの古代叙事詩「マハーバーラタ ナラ王の冒険」で圧倒的な力をみせたSPACの楽団が今回も鮮やかだ。棚川寛子の音楽はバリのガムランをほうふつとさせる幻想的な音色に打楽器の躍動感を付け加える。「マハーバーラタ」では打楽器が前面に押し出されたが、今回は静かで透明な響きが虚空に消えていく間を深々と感じさせた。大気に溶けるように命を燃焼させたグスコーブドリの魂を思わせ、哀切きわまりない。
木の枠が絵本を閉じたり開いたりするように動き、切り絵のような小道具が人力で動く。等身大の人形とそれを操る俳優、グスコーブドリ役の美加理がそこに収まる。時に動きを止め、絵のように静止して言葉だけが客席に届けられる。1980年代、演劇舎蟷螂(とうろう)という集団にいた女優、美加理は少年役で一世を風靡する小劇場の花だった。変わらない中性的魅力がこの舞台で生きている。透き通るような言葉の感覚は賢治ワールドの核にあるものだから。
宮城演出は発声に実験をさまざま試みる。日常的な情感を廃し、あえて無表情な響きを取り出してくる。不自然さを取り込んでこの世ならぬ雰囲気へと簡素な舞台を導く。賢治語としか言いようがない独特の言い回しもあり、前段の進行は少しわかりにくいが、この舞台は終局のグスコーブドリの決意と行動を原作以上に劇的に膨らませる。それもあくまで静かに。
木の枠を無音の中でたたんでいき、そこへ入るグスコーブドリ。一瞬の閃光(せんこう)、赤い破片の雨。その素早さは人の命をものともしない科学現象の酷薄さを思わせたのだ。宮城自身は活発化する火山活動をイメージしたかもしれない。確かに今の日本にとって最大の脅威が火山と地震であり、万一の事態になればもっともらしい経済の言葉など吹っ飛ばしてしまう。
加えて、帰ることのかなわない任務が想起させる寓意(ぐうい)はますます切実になっている。戦争中の特攻なら知らず、人命を重んじ、個人の権利を最大限に見積もる現代社会にあって、死んでくれと言えるのか。だが、原発事故が現実になってしまった以上、この倫理的テーマから日本人はもはや目をそらすことができないだろう。劇中にも引かれた「農民芸術論」の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の1節が改めて思い返される。
東北の劇作家、井上ひさしがこの「農民芸術論」を信奉していたことはよく知られている。賢治の言葉は時を超え、自然の脅威と向き合う現代人に激しく訴えかけてくる。賢治が農業改良と同時に情熱を注いだのは、暮らしのなかに根をはる音楽や演劇のあり方だった。SPACもまた、生活の傍らにある祈りの芸能集団になってほしい。そう思わせる舞台だ。2月1日まで、静岡市・東静岡の静岡芸術劇場。
(編集委員 内田洋一)
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