家康が「碁打ち衆」創設 幕府がプロのパトロンに
囲碁を愛した人々 吉原由香里(2)

2015/1/28 16:58
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織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康の3人にわたって寵愛(ちょうあい)され続けた人物がいる。それは囲碁の名手、本因坊算砂(さんさ)であった。

信長が囲碁を打ったと断定はできないが、本因坊家について記した『本因坊伝記』によると、日蓮宗の僧、日海が信長と対局したことがあるという。本能寺の変の4年前に初めて打ち、それから信長はたびたび日海を呼び出すようになった。そして日海の碁を「入神の技倆(ぎりょう)」「名人」と褒めたという。この日海こそが、のちの本因坊算砂だ。

本因坊算砂は名人碁所に就き、将軍の指南役となった(京都・寂光寺所蔵)

本因坊算砂は名人碁所に就き、将軍の指南役となった(京都・寂光寺所蔵)

秀吉も囲碁を好み、よく当代一流の碁打ちを集めて、全国大会を開いたようだ。ここにも日海は招かれ、圧倒的な強さを見せる。その姿に感激した秀吉は「朱印状」を与え、20石20人扶持(ふち)として遇したとされる。

そして3人の武将のなかで最も囲碁を愛し、日海を重んじたと思われるのは家康である。

45歳で囲碁を覚えた家康は、江戸幕府を開くと傑出した打ち手たちを「碁打ち衆」として俸禄(ほうろく)を支給した。現代でいうプロ制度の誕生である。日海は将軍の指南役になり、棋士の昇段など囲碁界の一切を取り仕切る「棋所」になる。のちに「名人碁所」といわれる囲碁界最高峰の地位だ。そして算砂と改名。当時住んでいた塔頭(たっちゅう)の名前が本因坊だったので「本因坊算砂」と名乗る。家康は50石50人扶持で遇したという。

江戸時代には、源義経の忠臣、佐藤忠信が碁盤を持って戦ったという伝説を脚色した「碁盤忠信」などが演じられた(日本棋院所蔵)

江戸時代には、源義経の忠臣、佐藤忠信が碁盤を持って戦ったという伝説を脚色した「碁盤忠信」などが演じられた(日本棋院所蔵)

個性的な3武将から寵愛された本因坊算砂は碁が強いだけでなく、人格も素晴らしかったのだろう。ちなみにその名は、現代のプロの七大タイトルのひとつ、本因坊戦の由来になっている。

家康は秀忠に将軍の座を譲って駿府に隠居すると、ますます囲碁三昧の日々を送ったという。浅野長政や伊達政宗との対局を好んだといわれている。家康に負けが込むと、側近が算砂をそっと近くに行かせる。しかし、まさか横から口を出すわけにはいかない。算砂は日よけの傘に開けた小さな穴から光をもれさせ、劣勢になると打つべき場所を示したという。家康ほどの天下人でも、たとえ遊びとはいえ負けると相当悔しかったのだろう。

江戸時代の棋士の目標は、将軍の目の前で行う「御城碁」で対局して腕前を見せ、名人碁所の地位につくことであった。名人碁所は大変な名誉というだけでなく、収入面でも大きな違いがあった。そこで御城碁は4つの家元の命運をかけた壮絶な勝負の場となる。

ある時、名人碁所を争って本因坊算悦と安井算知が6回勝負の「六番碁」を打った。さなかに算知の後援者である松平肥後守(保科正之)がうっかり口出ししてしまう。算悦は「生命を賭けて局に向かうは武士が戦場に向かうと同じ」と断固抗議。松平公が謝罪したという。

確かに、真剣勝負に見物者の余分な一言は大変耳障りだ。聡明(そうめい)で知られる松平公も、囲碁のことになるとつい熱くなってしまったようだ。

家元4家は大商人や豪農などを指導するとともに、才能のある子供の発掘にも勤(いそ)しんだ。こうして江戸時代は囲碁が大衆にも広まっていった。

庶民に親しまれた囲碁は浮世絵や歌舞伎の演目としても登場し、たくさんの作品が残っている。有名なのは近松門左衛門で、「忠臣蔵」で知られる赤穂事件をにおわす浄瑠璃「兼好法師物見車」の続編として「碁盤太平記」を記している。

御城碁は江戸幕府の崩壊とともになくなるが、近代以降も囲碁は多くの人に親しまれていく。日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥や陸軍大将の乃木希典も囲碁をこよなく愛し、好敵手だった。明治天皇の名代としてイギリスに向かう船の中で、2人は部屋にこもって黙々と対局を続けていたという。囲碁を通じて2人は心を通わせたのかもしれない。

(囲碁棋士六段)

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