「小説」としての建築 道後温泉本館
~『日本遺産巡礼』

松山の路面電車を終点で下車。アーケードの商店街を抜けると、開けた広場に出る。そこに堂々たる姿を見せているのが、現在も道後温泉の外湯としてたくさんの人を集める道後温泉本館だ。
西側正面は豪快な唐破風を載せた入り口が中央にあるが、立面は左右非対称だ。北側に回ると、障子張りの建具で覆われた開放的なファサード(建物の正面部分)で、屋根からは櫓(やぐら)が突き出ている。さらに東側へ移れば、今度は銅板でふいた破風が幾重に連なって、格の高さを見せつける。
方位によって意匠が全く異なる理由は、長期にわたって段階的につくられたからだ。北側の神の湯本館が一番古くて、1894年の完成。続いて東側の又新殿(ゆうしんでん)と霊(たま)の湯が1899年に完成する。南側は養生湯という別の外湯があったところで、1924年に建て替えられた。10年後に、西側の玄関棟が別の場所から移築され、ほぼ現在の姿となる。
建物の主要部を設計したのは、松山城の城大工だった坂本又八郎だ。屋根裏をのぞくと、洋小屋のトラスが入っており、当時の新工法が採り入れられたことが分かる。外観上は和風だが、これもまた近代建築なのだ。
現在の道後温泉本館には神の湯、霊の湯の2種類の浴場と、それぞれの休憩室、そして又新殿という皇室専用の浴室がある。
奇妙なのは神の湯で、男子の浴場は脱衣所が1つで浴室が2つ。一方、女子の浴場は、浴室は1つなのに脱衣所が2つに分かれている。実は男子浴室が当初の神の湯の男女浴室で、女子浴室は養生湯の男女浴室だった。神の湯の脱衣所と養生湯の浴室で、それぞれ間仕切りを外して、神の湯を男子浴場に、養生湯を女子浴場に変えたというわけである。増改築で生まれた迷宮のような平面だが、それがまた魅力となっている。
「坊っちゃん泳ぐべからず」
この建物を竣工直後に訪れていたのが夏目漱石である。代表作のひとつ『坊っちゃん』に、その描写がある。
松山を舞台とする『坊っちゃん』の主人公は、作者と同じく東京からこの地に赴任した若い教師だ。道後温泉は住田という地名で登場し、そこへ西洋手ぬぐいをぶら下げて毎日、通っている。
主人公は基本的に松山を田舎の町と見下しているのだが、「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ」と高く評価している。なかなかなじめない赴任先で、故郷のようにくつろげる場所がこの建物だった、とも読める。
傑作なのが浴室でのエピソードで、ほかに人がいないのを見計らって湯船で泳いでいたら、どうやら見られていたらしく、翌日に行くと「湯の中で泳ぐべからず」との注意書きが張られていたという。
これを受けて、実際の神の湯の男子浴室にも、同じ文句が書かれた札がかかっている。漱石が入浴した時の気分を追体験できるような仕掛けでうれしい。
建築家志望だった小説家・夏目漱石
ところで漱石は、実は建築家になることを夢見ていた。そのことは「落第」という随筆(1906年)で明かされている。自分のような変人でも仕事としてやっていけるのが建築家だから、というのが志望の理由。ピラミッドでもつくるようなつもりだったが、友人から「日本では文学の方が後世に作品を遺(のこ)せる」と忠告されて、そちらに転身したという。
しかし、漱石は、文学において建築家を志した、とも解釈することができる。
松山や熊本での教師生活の後、漱石は政府の派遣で英国に留学する。建築家でいえば、辰野金吾の英国留学に比すべきものだ。辰野は帰国して、日本銀行本店や中央停車場といった国家的プロジェクトを手掛ける。同じ役割を文学で果たすことを、漱石は求められていたのである。

ロンドンで漱石は「文学論」の執筆に取り組む。それは科学的といえるまでに精緻な分析を積み上げた本格的な評論だった。石造の建物群に囲まれながら、西洋の様式建築のように立派で確固たる文学の大伽藍(だいがらん)をつくろうとしたのだ。
しかし漱石はこれを完成できないまま、メンタル面を患って、途中帰国を余儀なくされる。
「大説」に対する「小説」
日本に戻って漱石が著したのは「小説」である。小説とは、天下国家を論じる「大説」に対して、風俗、流行、市井の小事件を扱うものだ。そのジャンルにおいて、漱石は近代社会に直面する人間の苦悩や葛藤を描いて、文学者として名を成した。
ここからは推測だが、建築家ではなく小説家になった漱石が、共感をもって接することができたのが、道後温泉本館のような建物だったのではないか。
辰野が設計した銀行、駅、公会堂といった建築が「大説」としての建築なのに対し、道後温泉本館は「小説」としての建築である。それは大建築家の手になる崇高さや美しさには欠けるが、雑多な造形の集積による楽しさで満ちている。それが悩める近代人である漱石をも、癒やしたのだ。

(ライター 磯達雄、イラスト 日経アーキテクチュア 宮沢洋)
[日経アーキテクチュア『旅行が楽しくなる 日本遺産巡礼 西日本30選』を基に再構成]
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