2019年6月16日(日)

無形文化遺産「和紙」 コウゾを自ら生産するワケ
絶滅の危機にひんする日本の遺産(上)

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2015/1/1 7:00
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もちろん、需要が途絶えてしまえば尾崎家も紙をすき続けることはできない。最後の1軒を救ったのは、従来とは違う新しい用途が開けたことだった。今から40数年前。書家の竹田悦堂が紙を求めて高知を訪れた。かな書道に適した和紙を探して全国を遍歴していた竹田は、高知県紙業試験場で清帳紙に出会う。

当時の竹田の筆によれば「優雅なところは少ないが、全く素朴な紙である」。その肌に魅せられて、竹田はすき手の門を叩いた。尾崎家とともにもう1軒残っていた、寺村の片岡藤義である。ところが、清帳紙を基に、書道に適した紙をすいてほしいという竹田の依頼を、片岡は断る。生粋の頑固者、土佐弁で「いごっそう」だった片岡には、道に背く行為と映ったのかもしれない。

■尾崎茂と妻の宮子

尾崎茂と妻の宮子

尾崎茂と妻の宮子

そこで尾崎家にお鉢が回ってきた。当時、尾崎家の主だった茂は、進取の気性に富んでいた。紙の買い値の安さに業を煮やして、直接東京の店舗に売り込んだこともある。地元の問屋の怒りはすさまじく、茂は紙すきを1年間休まざるを得なかったという。竹田と出会ったのは、廃業の危機に見舞われた直後だったようだ。

竹田の要求に沿って茂は製法に工夫を重ね、書道に向いた大判の紙をすき上げる。できあがった紙を「清帳箋(せん)」と名付けた。竹田と茂は、原料にミツマタを使った紙も開発する。こちらは「清光箋」。いずれも、高級な書道用紙として売り出した。

これが当たった。清帳箋や清光箋は、一定の愛好家を獲得した。悦堂の子息、竹田晃堂はその紙質をこう表現する。「清帳箋が特に向いているのは、文字のかなを書く場合です。中国の紙と違って、清帳箋では墨の色がただ黒いだけではなく、濃いところと薄いところができて、透明感が生まれる。筆のかすれも綺麗に出ます。清光箋には、艶はないけれど深みがある松煙墨(しょうえんぼく)、いわゆる青墨を使うといい。

もちろん値が張るから、尾崎さんの紙をいつも使うわけにはいきません。普通の書道用紙と比べたら、清帳箋の値段は10倍くらいします。でも、一度その書き味を知ってしまうと、普通の書道用紙ではつまらなくなってしまう。機械ですいた紙は、均一だからなんでしょうか」。

ただし尾崎家の商売を成り立たせるには、書道用紙だけでは足りなかった。もう一つの用途を開拓したのが、紙舗直の坂本だった。今では坂本との取引が、尾崎家を支える大きな柱である。

■世界で唯一無二の紙

版画に関わる仕事をしていた坂本は、その縁で和紙にひかれるようになり、和紙を販売する店舗、紙舗 直を1984年に設立する。尾崎家とも、そのころからの付き合いである。

開店当初、坂本がそろえた紙はまるで売れなかった。白い紙を積んで、書家やデザイナーが来るのを待っていても、誰も買ってくれない。そこで坂本は紙を染め始める。柿渋や墨を皮切りに、様々な素材を試した。「当時の和紙には、京都風の雅なものしかなかった。例えば土壁でも、緻密に作ったものと荒っぽいものがあるように、もっと野趣にあふれた紙があってもいいんじゃないか」。

コウゾを刈る尾崎孝次郎

コウゾを刈る尾崎孝次郎

そう考えて、誰に学ぶわけでもなく、自分なりの染め方を自問自答していったという。1990年代前半、ちょうど「エコロジー」という概念が、もてはやされるようになった時期である。坂本が染めた紙は、環境という言葉に敏感なデザイナーの目に留まる。売り上げは次第に伸び、今では坂本の店に世界中から顧客が訪れる。

「俺が染めた紙は世界でここにしかないからね。もちろん尾崎さんの紙を使ったものも。うちは、高知県では3カ所の紙を使っている。中でも尾崎さんの紙は、墨の乗りがよく、発色がいい。タペストリーみたいに、掛けて使うのに向いている。粗い簀(す)ですいた紙だから、目がそこまで詰まっていなくて、明るい感じがする」

竹田や坂本が求めたのは、「和紙」ではなく「尾崎家の紙」である。自らの表現の素材として彼らの眼鏡にかなったのが、この地の材料を使い昔から伝わる製法でつくった紙だった。結局、使い手にとって重要なのは、和紙という抽象的な概念ではなく、特定の肌合いや手触りを持った物質なのだ。

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