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無形文化遺産「和紙」 コウゾを自ら生産するワケ

絶滅の危機にひんする日本の遺産(上)

日経テクノロジーオンライン
2014年11月27日、クワ科の植物であるコウゾを原料に手すきで作られる「和紙」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。2013年に登録された「和食」に続く、日本の伝統技術の快挙である。しかし、こうした国際的な高い評価とは裏腹に、和紙は今、絶滅の危機にひんしている。全国手すき和紙連合会によれば、日本で和紙をすいている家はわずか301戸(2007年時点、現存する直近のデータ)。20世紀の初め、1901年には6万8562戸だったので、100年あまりで230分の1に減った計算になる。そして今なお、減少のペースは加速を続けている。今回は、和紙作りの肝である「素材の生産」と「紙すき工程」の現場ルポを、2回に分けてお届けする。

どうして、こんなところに住むのだろうか。初めて訪ねたとき、そう思った。

高知市の中心部から、国道33号線を車でひたすら西へ。1時間ほど走ると、緩やかに蛇行する仁淀川沿いの道になる。横目をかすめるダムの水は、緑がかった青。川を挟む両側の斜面は、次第に険しく切り立っていく。その急勾配に沿って、ずいぶん上まで集落が続いている。コンクリートの土台に支えられた家々は、転げ落ちてしまわないよう、山肌にしがみついているかのように見える。

高い橋を渡り、トンネルに入る手前で左の小道に折れる。突き当たりは、切り返さないと曲がれない急カーブだ。ここから登りが始まる。アクセルを緩めただけで後戻りしそうな坂である。道幅は車一台分。途中で出くわした土地の人は心得たもので、少し広くなったところに停車し、こちらが行き過ぎるのを待っていてくれる。それでも、先を見通せない曲がり角や、道路の外側に何もない場所に張られた金網やフェンスが、ところどころ大きくゆがんでいる。勢い余って道からはみ出た車両は、1台や2台ではないようだ。

途中まで迎えに来た相手に、見上げる高みから声をかけられた。「まず畑に行きましょう」。曲がりくねった坂を快調に飛ばす軽トラックに、危うく置いていかれそうだ。ようやく車を止めて、今度は徒歩で登る。

「柔らかくて強い」はコウゾのおかげ

遙か下に輝く青緑の川面に吸い込まれてしまわぬよう、視線を上にねじ向ける。その先に畑が現れた。葉もなければ果実もない。あるのは丸裸の立木ばかりだ。これがコウゾ(楮)。和紙をすく尾崎家が、この地にとどまる理由である。

和紙の原料として使う植物は、主なものでコウゾ、ガンピ(雁皮)、ミツマタ(三椏)の三種類がある。このうち最も一般的な材料がコウゾである。和紙が洋紙と比べて丈夫とされる一因は、コウゾの繊維にある。

その長さは平均9mm程度と、木材パルプの原料である針葉樹の約3mm、広葉樹の約1mmと比べて長い。すく際に長い繊維がよく絡まりあうことで、丈夫な紙ができるとされている。時に「柔らかい」と評される和紙の肌合いも、コウゾならではの味。鈴栄経師(きょうじ)の鈴木源吾は、「上質なパルプを使えば、(ガンピを用いる)鳥の子紙なら似たようなものがつくれるが、コウゾの独特の肌は無理」という。

現存する最古の戸籍もコウゾ製

日本では紙の材料として古くからコウゾを使ってきた。事実、日本製で現存する最古の紙といわれる美濃・筑前・豊前の戸籍は、コウゾからできている。紙の作り方が日本に伝来したといわれる610年ごろ、国内にはコウゾの繊維をほぐして木綿(ゆう)と呼ぶ糸にする技術が既にあり、お祓(はら)いなどに使う幣(ぬさ)に用いていたという。コウゾを紙へ応用する発想は、ごく自然に生じたのだろう。コウゾは各地にあり、栽培に手が掛からないことも、採用を後押しした。

コウゾを使った和紙の伝統的な作り方を図解した書に、江戸時代の後半、1798年に国東(くにさき)治兵衛が刊行した『紙漉重宝記』がある。200年以上昔の書面に描かれた紙すきたちの姿は、現在の尾崎家の面々にぴたりと重なる。

この冊子が伝える製紙法は、コウゾから紙の原料をつくる作業と、原料を紙に仕上げる工程の、大きく二つに分けられる。コウゾを刈り取り、皮をはぎ、紙になる白い部分だけを残すのが前者。原料を煮て、繊維がほぐれるまでたたき、水に溶かしてすき上げ、日光で乾かして紙にするのが後者である。このうち尾崎家が機械に頼るのは、煮た後の材料をたたく工程くらい。あとは自分の手で、自作の道具を使い、自然の材料を加工している。

生産が激減する国産コウゾ

現代の日本でも、手ですいた紙は少なくない。その中にあって尾崎家を稀な存在にしているのは、コウゾまで自ら栽培し、原料を自給していることである。

最近では、国産のコウゾからつくった和紙自体が激減している。高知県手すき和紙協同組合によると、日本で消費されるコウゾの70%(2009年時点)が外国産になってしまったという。最大の問題は、国産品の値段が高いこと。品質を保つには国産のコウゾを使うべきとの声は多いが、外国産と比べて値が張るために、あきらめる作り手は少なくない。

一方で、コウゾの生産者もどんどん減っている。コウゾの売り上げが労力に見合わないためだ。高知県手すき和紙協同組合の報告によれば、茎からはいだ「黒皮」と呼ぶ状態で、コウゾの価格は10貫(37.5kg)当たり約3万円(2009年時点)。生産量は、規模が大きいところでも100貫を超える程度という。つまり、どんなに頑張っても売り上げは30万円そこそこにしかならない。今や作り手は高齢者ばかりになってしまった。

尾崎家はコウゾを自作することで、結果としてこうした問題から距離を置いている。コウゾの供給を外部に頼っていたら、尾崎家の紙はもっと高価になっていたという。コウゾの供給が急に途絶える心配も、今のところ少ない。

尾崎家がコウゾの栽培に踏み切ったのは20年ほど前。ただし、必ずしもこうした効果を予見したからではなかった。当時は今のコウゾ畑に桑を植え、蚕を飼っていた。ところが中国産の安価な絹の流入で、養蚕が立ちゆかなくなる。そこで、同じ桑科に属する楮の栽培に目を向けた。

尾崎家にとって幸いだったのは、彼らの住む土地がコウゾの栽培に適していたことだ。コウゾは、水はけと日当たりと風通しがいいところによく育つ。すなわち尾崎家が居を構える、土佐の山あいがそれである。現に高知県は、コウゾの一大産地として知られる。

高知県手すき和紙協同組合の報告によれば、国産のコウゾのうち40~45%が同県でつくられているという。そもそも尾崎家を含め、高知県で和紙づくりが盛んなのも、このためである。鈴栄経師の鈴木源吾はこぼす。「最近の和紙は、産地に関わらず皆同じようなもん。国産の原料が、高知産ばかりになっちゃったから」。昔ながらの材料を使える尾崎家の紙は、それだけで希有な例である。

「最後の1軒」救った新用途

よそでは難しいコウゾの自作が成立した理由は、コウゾに向いた気候だけではない。もう一つの条件は、皮肉にも和紙の衰退と表裏一体だった。

尾崎家がある岩戸や、その下の寺村など、周辺のいくつかの集落ですかれた紙は、「清帳紙」と呼ばれた。墨の乗りが良く丈夫で、かつては商家の大福帳向けとして重宝された。明治12年(西暦1879年)には235戸が紙をすいていたとの記録がある。

ところが洋紙の台頭を受けて、ご多分に漏れずこの産地も衰退の一途をたどる。大正時代には50数戸、第2次世界大戦直前には20数戸にまで減り、戦後の紙不足の時期にいったん需要が盛り返すものの、最後に残ったのは尾崎家1軒だった。

尾崎家が、和紙ばかりか原料までつくり続けてこられたのは、ここに至ってようやく需給が釣り合ったからである。東京・白山で紙を商う、紙舗 直(なお)の坂本直昭は語る。「尾崎さんちのほかに、もう1軒くらい増えてもやっていけるかもしれない。でも、3軒とか10軒とかになったらとても無理。やっぱりバランスの上に成り立ってる話」。

もちろん、需要が途絶えてしまえば尾崎家も紙をすき続けることはできない。最後の1軒を救ったのは、従来とは違う新しい用途が開けたことだった。今から40数年前。書家の竹田悦堂が紙を求めて高知を訪れた。かな書道に適した和紙を探して全国を遍歴していた竹田は、高知県紙業試験場で清帳紙に出会う。

当時の竹田の筆によれば「優雅なところは少ないが、全く素朴な紙である」。その肌に魅せられて、竹田はすき手の門を叩いた。尾崎家とともにもう1軒残っていた、寺村の片岡藤義である。ところが、清帳紙を基に、書道に適した紙をすいてほしいという竹田の依頼を、片岡は断る。生粋の頑固者、土佐弁で「いごっそう」だった片岡には、道に背く行為と映ったのかもしれない。

尾崎茂と妻の宮子

そこで尾崎家にお鉢が回ってきた。当時、尾崎家の主だった茂は、進取の気性に富んでいた。紙の買い値の安さに業を煮やして、直接東京の店舗に売り込んだこともある。地元の問屋の怒りはすさまじく、茂は紙すきを1年間休まざるを得なかったという。竹田と出会ったのは、廃業の危機に見舞われた直後だったようだ。

竹田の要求に沿って茂は製法に工夫を重ね、書道に向いた大判の紙をすき上げる。できあがった紙を「清帳箋(せん)」と名付けた。竹田と茂は、原料にミツマタを使った紙も開発する。こちらは「清光箋」。いずれも、高級な書道用紙として売り出した。

これが当たった。清帳箋や清光箋は、一定の愛好家を獲得した。悦堂の子息、竹田晃堂はその紙質をこう表現する。「清帳箋が特に向いているのは、文字のかなを書く場合です。中国の紙と違って、清帳箋では墨の色がただ黒いだけではなく、濃いところと薄いところができて、透明感が生まれる。筆のかすれも綺麗に出ます。清光箋には、艶はないけれど深みがある松煙墨(しょうえんぼく)、いわゆる青墨を使うといい。

もちろん値が張るから、尾崎さんの紙をいつも使うわけにはいきません。普通の書道用紙と比べたら、清帳箋の値段は10倍くらいします。でも、一度その書き味を知ってしまうと、普通の書道用紙ではつまらなくなってしまう。機械ですいた紙は、均一だからなんでしょうか」。

ただし尾崎家の商売を成り立たせるには、書道用紙だけでは足りなかった。もう一つの用途を開拓したのが、紙舗直の坂本だった。今では坂本との取引が、尾崎家を支える大きな柱である。

世界で唯一無二の紙

版画に関わる仕事をしていた坂本は、その縁で和紙にひかれるようになり、和紙を販売する店舗、紙舗 直を1984年に設立する。尾崎家とも、そのころからの付き合いである。

開店当初、坂本がそろえた紙はまるで売れなかった。白い紙を積んで、書家やデザイナーが来るのを待っていても、誰も買ってくれない。そこで坂本は紙を染め始める。柿渋や墨を皮切りに、様々な素材を試した。「当時の和紙には、京都風の雅なものしかなかった。例えば土壁でも、緻密に作ったものと荒っぽいものがあるように、もっと野趣にあふれた紙があってもいいんじゃないか」。

そう考えて、誰に学ぶわけでもなく、自分なりの染め方を自問自答していったという。1990年代前半、ちょうど「エコロジー」という概念が、もてはやされるようになった時期である。坂本が染めた紙は、環境という言葉に敏感なデザイナーの目に留まる。売り上げは次第に伸び、今では坂本の店に世界中から顧客が訪れる。

「俺が染めた紙は世界でここにしかないからね。もちろん尾崎さんの紙を使ったものも。うちは、高知県では3カ所の紙を使っている。中でも尾崎さんの紙は、墨の乗りがよく、発色がいい。タペストリーみたいに、掛けて使うのに向いている。粗い簀(す)ですいた紙だから、目がそこまで詰まっていなくて、明るい感じがする」

竹田や坂本が求めたのは、「和紙」ではなく「尾崎家の紙」である。自らの表現の素材として彼らの眼鏡にかなったのが、この地の材料を使い昔から伝わる製法でつくった紙だった。結局、使い手にとって重要なのは、和紙という抽象的な概念ではなく、特定の肌合いや手触りを持った物質なのだ。

「100年から150年持つ株もある」

作り手の意識も、「自分たちの紙」からはみ出さない。この業界の常識でいえば、国内のコウゾで最も高級なのは那須産。これに対し尾崎家は異を唱える。茂は「ここのコウゾが一番」と言う。

茂の後を継いだ孝次郎も、「那須コウゾがいくらいいと言われても、長年使うてみなければ何ともいえん」と否定的だ。二人にとっては、自分たちの紙に向くかどうかが、材料の良しあしを判断する絶対の基準なのである。

彼らが目指す紙の質は、機械ですくことはおろか、微妙な材料の揺らぎにさえ影響を受ける。尾崎家の跡取りであるあかりは、かつてコウゾの皮をはいでいるときに祖母に叱られたことがある。「あまり綺麗にへぐる(はぐ)んじゃない。繊維じゃない部分も残さないとダメだ、って」。そうしないと、尾崎家の紙にはならないのだ。

我々が案内された畑では、コウゾの刈り入れが進んでいた。先導してくれた孝次郎も作業に加わる。今年(2009年)63歳。家族で構成する尾崎製紙所の代表である。太さは数cmでも高さはときに3mを超えるコウゾの茎に、孝次郎は手を掛ける。手前にしならせて根元に鎌を当てる。腹に力を込め、斜め上に一気に引く。手に残る茎から小枝を払えば一丁上がり。

一連の作業で特に注意するのは、茎を傷付けないことという。後で皮をはぐ際に、傷の部分で引っかかって作業の効率が落ちるからだ。先々の工程まで熟知するからこその気配りである。茎を斜めに切っておくのも重要だ。平らだと水が溜まり、翌年の生育に響く。ちゃんと切った株からは、一年もすると再び同じくらいの茎が伸びる。「ここの株はもう10数年使っている。場所によっては、100年から150年持つ株もある」。

コウゾの刈り取りは、家族総出の作業である。最年長の尾崎茂は今年(2009年)90歳。妻の宮子も80歳を超えた。二人とも、てきぱき立ち働くさまは年齢を感じさせない。茂は次々に鎌を振るう。同じ株から生える茎が無くなれば、次の株へ。向こうでは宮子が、自分で刈り入れた茎をまとめて紐で束ねている。茎の束を膝で押さえつけ紐できつく縛る動作は、流れるように機敏だ。

各自がコウゾを刈り、刈った茎を束ねる。茂の長女・文故(ふみこ)も、同じ作業を黙々と続ける。三人の娘しか授からなかった茂と宮子の夫妻は、孝次郎を文故の婿に迎えた。

日本中、どこにでもあった風景

気がつけば、行く手を遮る檻(おり)のようにニョキニョキとそそり立っていた無数の細い茎は消え、空き地の面積がどんどん増えていく。1月の短い日が傾きかけたころ、尾崎家のコウゾ畑はほとんど丸裸になっていた。畑のそこかしこに、置かれた茎の束。一つ10kgに達するそれを、坂の下に止めた軽トラックまで全て運ばなければならない。茂、宮子は言うに及ばず、58歳の文故にも文字通り荷が重い。

コウゾの束を担いで畑を歩き回っているのは、茂の孫で孝次郎の次女のあかり。孝次郎と手分けして、畑の間を縫って下る狭い坂を、肩に二つ束を載せてひょこひょこと歩いていく。今年(2009年)30歳になるあかりは、10年ほど前に家業を継ぐことを決めた。

「今年は、案外ようできた」。孝次郎はそういって笑う。コウゾの生育は、自然の条件に大きく左右される。特に高知では、コウゾをなぎ倒し、傷だらけにする台風に例年悩まされる。ところが今年(2009年)は台風が一つも来なかった。「台風が来なかったのは生まれて初めて」と、宮子。

尾崎家の5人が取り組むコウゾの刈り入れは、この冬は最後である。1月末までに原料づくりを終え、2月に入ると紙をすきにかかる。寒い時期が勝負の紙すきが続くのは3月の終わりまで。その後は、夏に向けて稲を植え、米や茶作りに精を出す。そして12月になると、楮の葉が落ち、再び収穫の季節が巡ってくる。

親子三代が力を合わせ、夏は米を作り、冬に紙をすく。尾崎家の一年は、かつて日本中どこでも見られた農家の姿を、和紙と洋紙のせめぎ合いの隙間で、奇跡的に今も保ち続けている。(文中敬称略)

[参考]今回掲載した和紙作りの現場ルポ。完全版はこちらで無料でお読みいただけます。URLは、http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090527/170817/

(日経エレクトロニクス 今井拓司、日経BP未来研究所 仲森智博)

[日経テクノロジーオンライン2009年6月4日付の記事を基に再構成]

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