鉄人山本昌、大いなる思い込みが作ったフォーム
「堀内さんのフォームをまねしたつもりだったのに、ビデオを見たら全然違っていてショックだった……」。来年8月に50歳となり、年長勝利記録更新に挑む中日・山本昌が11月26日、日本記者クラブで明かした秘話だ。ユーモア満載の記者会見から、長続きのわけを探ってみる。

■堀内のつもりがイヤミのシェーポーズ
東京で生まれ、神奈川で育った山本昌は少年時代は巨人ファンで、堀内恒夫さんに憧れてフォームを研究した。ところが日大藤沢高時代、テレビ神奈川がセンターカメラで撮影したビデオを見てがくぜんとした。
「全然違っていた。俺、こんなに格好悪い投げ方だったのか」
プロに入って、前後左右からの映像をチェックすると、さらに残念な自分が映っていた。「『シェー』じゃないけど、足先だけ体の前にきて……。似ているのはグラブをはめた腕を抱えこむところくらいで」
「シェー」とは赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」のキャラクターである「イヤミ」のポーズで、足を交差させ、腕を振り上げる。V9時代のエースのつもりが、ギャグの世界に近かったとは……。
左右の違いはあるが、堀内さんといえば真っ向から投げ下ろす正統の本格派。山本昌のフォームはといえば、くねくねっとした動きで、野球評論家で中日のコーチも務めた権藤博さんに言わせれば、無駄が多く「見ていて疲れるフォーム」。
山本昌は当の堀内さんにも「モデルにした」と明かしたことがあったという。その時の堀内さんの顔を想像するだけでもおかしくなる。
■最年長勝利マーク、来季は「世界新」へ
しかし、現役でいながらすでに球界のレジェンドとなった今、その独特のフォームもまた、伝説として語り継がれていくことになるだろう。
今年9月5日、49歳と25日で登った阪神戦のマウンドで5回無失点。日本プロ野球史上最年長の勝利投手となった。同月23日の巨人戦の登板は5回3失点で負け投手にはなったが、史上最年長の出場記録となった。来季勝利を挙げれば、日本の記録を更新するのはもちろん、ジェイミー・モイヤーが持つ49歳6カ月のメジャー最年長勝利記録を破る"世界新"となる。
もともと球の速い方ではなかったが、年をとるにつれて速くなってきた。自己最速の時速143キロをマークしたのが、43歳のとき。「来年も140キロは出せる」と自信たっぷりだ。
長寿を支えているのが、日々の練習の積み重ね。30年以上も使い続けているという2キロのダンベルがある。これを使ってトレーニングを70パターンほど考えた。その全部を毎日行うわけではない。ダンベルを枕元においておき、寝る前に2、3パターンの運動をする。時間にして5分程度。これを毎日続け、日記につけてきた。
■「つらいと思わなければ続けられる」
「面倒くさくないことなら、いくらでも長く続けられる。10本走るくらいなら、毎日やっても苦にならない。何をもってつらいと思うかというのもあるけれど、つらいと思わなければ続けられるものです」という。簡単にまねできるものではないだろうが、何かを続けたいと思ったときに覚えておきたい生き方のコツではないだろうか。
もう一つ、山本昌の長寿を支えているのが、スポーツトレーナー・小山裕史さんのトレーニングだ。関節の可動域や反射神経を鍛える独自の理論で多くのスポーツ選手の信頼を集めているが、その正しさを証明したのが山本昌ともいえる。
30歳で初めて鳥取のジムを訪れたとき、小山さんは「30代後半でも、40歳でももっと速くなる」と話した。「それが実現しましたね」という山本昌は今季カットボールを試みて失敗したことを教訓に、来季は原点に立ち返り、スピードを追求するという。
■趣味捨て「今は野球がすべての生活」
趣味人として知られ、ラジコンの大会で全国4位となり、クワガタの飼育では専門誌に載ったこともある。しかし、数年前に一切をやめた。
「昔は野球の練習が一区切りしたら、さあラジコン、となっていたが、今はまずマッサージを受けよう、となった。クワガタの世話も若いうちは苦にならなかったが、だんだん腰が張ってくるようになって野球にマイナスだな、と」。200匹くらいいたクワガタは全部、近くの子どもたちや後輩に譲って、今は野球一本という。
「引退したときに『最後の数年間が一番充実していた』といえるくらい、今は野球がすべてという生活をしている」と話す顔はまさに「今が男盛り」の印象。
さすがに49歳。登板翌日はなかなか起きられないこともある。昔はキャンプインに備え、3日もあれば追いこんで体を仕上げることができたが、今は年末からしっかり作っていって、やっと滑り込みで間に合うかどうかだそうだ。
20代のときと違うのは当然だ。それでも「技術は(連続最多勝に輝いた)1993、94年当時より数段上。落ちた分は技術でカバーできる」と言う。
■1A時代の仲間に来季も勝利の吉報を
84年、ドラフト5位で入団してしばらくは鳴かず飛ばずだった。転機となったのは88年の米球界留学だった。星野仙一監督の命で、ドジャース傘下の1A、本人言うところの「4軍」に預けられた。練習より実戦を重んじる米国式で、5カ月間に150試合をこなし、救援投手としてほぼ毎日投げた。
このとき共に苦労した仲間に元阪神のデーブ・ハンセンや元ダイエー・ホークスのブライアン・トラックスラーらがいる。こうした名前を聞くだけで、時代の感覚がおかしくなってくるような……。それだけ長くやってきたわけだ。
今の夢は彼ら1A時代の仲間に、来季も勝ったというニュースを届けることだという。「俺はまだここにいるぞ、と。同窓会ができたらいいね」
■つらいという感覚なく「今が一番楽」
引き際については4、5年前から「常に徳俵。どっちに転げ落ちるか」という状態にあると自覚している。「来年、一つでも勝ったら気力がなくなるかもしれないし、体が動かなくなるかもしれない。自分のなかで何かが終わったと感じたときがそのときかもしれない」
しかし、若いころから続けてきたトレーニングのように、つらいという感覚はないという。「練習が苦しいのではと思われるだろうが、今が一番楽。今やれることをやるだけだから。引退して新しいことをやるのが一番つらいことだと思うから『今』を精いっぱいやっていきたい」という。
前人未到の50歳のマウンドが今から楽しみになってきた。
(篠山正幸)
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