語るも涙の開発課時代 装置は自作、部材は再利用
中村修二の青色LED開発物語(上)

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2014/10/10 7:00
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日経テクノロジーオンライン
 高輝度青色発光ダイオード(LED)の開発でノーベル物理学賞を受賞する3人の日本人研究者の中で、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二氏(開発当時は日亜化学工業に在籍)は、窒化ガリウム(GaN)製発光ダイオードの実用化と高輝度化で大きな成果を残した。連載「中村修二の青色LED開発物語」は、日経エレクトロニクス誌が1995年に掲載した、中村氏がGaN系青色発光ダイオードの研究に着手し製品化にこぎ着けるまでの開発ストーリーから、一部を紹介する。具体的には、日亜化学工業に入社してから開発のカギとなる製造装置の開発に成功し、高品位の単結晶膜の作成に成功するまでを、2回にわたって掲載する。(記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

図1 日亜化学工業の阿南本社(1995年当時)

図1 日亜化学工業の阿南本社(1995年当時)

徳島県阿南市に本社を置く化学メーカー・日亜化学工業は、地元ではちょっと名の知れた会社だった(図1[注1]。3週間もの長い夏休みを実施していたためである。従業員は、この長期休暇を阿波踊りの練習にあてる。そして本番の阿波踊りには、「日亜連」なる踊り手集団を送り出す。

そんな日亜化学工業が一挙、世界に名を売ることになったのは、1993年の暮れである(表1)。

表1 青色発光ダイオードの開発過程

表1 青色発光ダイオードの開発過程

輝度が1cd(カンデラ)という実用レベルの青色発光ダイオードを開発、量産に乗り出したのだ。「実現は21世紀」とも言われていた高輝度青色発光ダイオードが、あっけなく実用期を迎えてしまった。

この分野の技術者や研究者は、一様に驚き、ショックを受けた。この快挙をものにしたのが、同分野で長年研究を進めてきた国内外の大学でも、大手エレクトロニクス・メーカーでもなく、地方の中堅化学メーカーだったことに2度驚いた。そして「夏休みの日亜」は、「青色発光ダイオードの日亜」になった。

■子供のために田舎を選ぶ

この高輝度青色発光ダイオードの開発をほぼ独力でやり遂げたのは、当時40歳(1995年時点)の研究者、中村修二氏である(図2)。同氏は、1979年に徳島大学大学院の修士課程を卒業したのち、同社に入社した。専攻は電子工学である。

図2 日亜化学工業の本社内にある青色発光ダイオードのディスプレー・コーナーにて。
左が青色発光ダイオードの開発者、中村修二氏

図2 日亜化学工業の本社内にある青色発光ダイオードのディスプレー・コーナーにて。
左が青色発光ダイオードの開発者、中村修二氏

学生のころは、就職するなら東京か大阪か、都会に出て頑張ろうと思っていたという。しかし就職時、中村氏にはすでに子供がいた。学生結婚だった。

「独身なら、都会暮らしでもいい。でも、子供ができたら田舎で暮らしたい。仕事の事情で家庭を犠牲にすることだけは避けたい」との思いが結局、中村氏と日亜化学工業を結びつけることになる。

[注1]日亜化学工業の1994年時点の主な製造品目は、CRTや蛍光灯などに使う蛍光体材料で、売り上げの8割~9割を占める。このほか、化合物半導体材料や真空蒸着材料、スパッタリング・ターゲット、液晶パネルのバックライトなどに使うEL(electroluminescent)ランプなども製造していた。設立は1956年12月。中村氏が入社した1979年当時は、売り上げが約40億円、従業員数は200人程度だった。
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