/

小田急vs西武「箱根山戦争」が生んだ海賊船の50年

 最初の東京五輪が開催された1964年は今の日本の原型を形作る交通インフラや新サービス、新商品が産声を上げました。東海道新幹線が開業、首都高速道路の整備が進んだのもこの年です。新コラム「1964年~ ニッポンの大いなる助走」は50年前のあのころをスタートラインとして次の50年、日本が駆けていく先を読み解きます。

 関東エリアを代表する観光地・箱根。その中でも奥まった「芦ノ湖」をゆっくり巡る船旅は箱根観光のハイライトだ。中世ヨーロッパの帆船を模造した「海賊船」が芦ノ湖に就航してから半世紀。今もスタート時と変わらずに子どもたちの人気を集めている。

「五島慶太」VS「堤康次郎」

箱根の戦後史は企業戦争の歴史でもある。1947年(昭22年)からの五島慶太会長を頂点とする東急・小田急グループ(当時)と、堤康次郎会長率いる西武グループとの争いは「箱根山戦争」と呼ばれ、今も語り草になっている。西武系のバス路線申請に続いて50年には小田急系が「箱根観光船」を設立。競争がエスカレートしていった。両陣営のトップがそれぞれ「強盗慶太」「ピストル堤」といった異名を持つカリスマ経営者だっただけに注目を集め、朝日新聞が作家・獅子文六氏の「箱根山」を連載したほどだ。この小説には「関東急行」「西郊鉄道」という名の企業が登場する。

箱根観光船の高橋一雄元常務(81)は「西武系の有料道路に小田急のバスは通さない、訴訟合戦は次々起こる、小田原駅前でも観光客を奪い合う……。自分もハイヤー買収などを担当した。どんなささいな分野でも競り合っていた」と振り返る。「西武の堤さんが芦ノ湖に来ると50人くらいが整列して出迎える。大変な権勢だとも思った」(高橋氏)。

しかし小田急系がロープウエーを開通し、神奈川県が道路を買収して61年から一般開放していくと「戦争」は終結に向かう。小田急電鉄の安藤楢六社長は「私の履歴書」で「堤さんのねらいは箱根を独占し小田急を乗っ取ることにあった」としている。それでも最後は安藤社長の手を取って「もう、けんかはよそうや」と言ったという。堤氏が死去したのは64年。一方の東急の五島氏は59年に亡くなっていた。

ただ「陸」の戦争は終わったものの「湖」の戦争は終わらない。後発の「箱根観光船」は苦戦が続いていた。先行する西武系の伊豆箱根鉄道はとっておきの切り札を持っていた。客船としては世界初という「双胴船」である。船体がユニークな上に、安定性が高く広い甲板で富士山や湖畔の景色を満喫できる。高速での操船も可能だ。かつて参議院で法案が可否同数になった時、当時の議長が箱根の双胴船を思い浮かべたとされるほど、一般の認知度も高かった。

ヒントは米ディズニーにあり

新幹線開通や海外渡航の自由化が実現した64年はレジャー志向が大きく変化した年でもあった。社員旅行や研修旅行などの団体客が、高度成長下で高級志向が強まり、斬新な企画を求めるようになっていた。遠距離旅行が進み、ファミリー向けの企画も広がりを見せていた。

箱根観光船では全社的にアイデアを募ったがこれといったプランは出てこない。起死回生を狙った山添直・4代目社長は米国ディズニーランドを視察し、現地のアトラクションを見て「海賊船」がひらめいたという。

温泉、箱根神社、関所跡……。箱根は今も昔も山あいの「和」の風情を基調としている。そこへ洋風の海賊船はいかがなものか。それでも山添社長は根気よく社内を説得して全社を新船建造の方向でまとめた。しかしクリアしなければならない難題がまだまだ残っていた。

当時の日立造船に発注することに決めたものの、日本の造船界には中世ヨーロッパ風の海賊船を造った経験が無かった。フランス文学や歴史に詳しいエッセイストらにアドバイスを求めるなどして船型のモデル探しから始まった。

船体外観はフランスにデータが残っていた1630年代の「セント・フィリップス号」をモデルにした。甲板の大砲は1600年代のデンマーク船のものを原寸大で取り付けるようにした。乗組員の制服も中世の帆船時代のスタイルを踏襲した。

箱根エリア一体は国立公園であり景観などにも厳しい規制がある。芦ノ湖畔のコンビニエンスストアの屋根は、東京などで見る鮮明なブルーでなく落ち着いたブラウンだ。しかし海賊船の船体は赤色を使うことに決めていた。「箱根神社の鳥居と同じ色という理屈で説得した」(高橋元常務)。

最後の難題は近くの大涌谷から芦ノ湖に運ばれてくる亜硫酸ガスが船体の金粉を黒っぽく腐食させてしまうことだった。これは貝殻の粉末を混ぜるなど地元の塗料メーカーに工夫してもらって何とか解決にこぎ着けた。

子どもたちの人気集める

初代海賊船「パイオニア号」は64年7月に就航した。鋼船約470トン、最高速力11ノット、定員650人。狙い通り子どもたちの人気が圧倒的だった。渡辺浩司社長(62)は「子どもたちの人気がすごかったようだ。乗船申し込みが殺到して以前は3対7で劣勢だったのが6対4以上に巻き返すことができた」としている。

箱根への来遊客はマイカーを除くと62年をピークに80年代半ばまで低迷期に入った。特に団体客の減少が響いたが「海賊船」自体は芦ノ湖の定番として知られるようになっていった。

渡辺社長は箱根町の出身。大学時代を除いて箱根・小田原地域を離れたことのない生粋の「箱根っ子」だ。パイオニア号の就航は中学生のとき。「その頃から箱根のまち並みも徐々に変わっていった」(渡辺氏)。温泉地らしい和風旅館が徐々に消え、土産物屋などが増えていった。ファミリー向けに土産の種類も増えていったという。

甲板からイスラム式の礼拝も

パイオニア号は好評な反面、乗員数に限界があり、なかなか乗れないという苦情も多かった。2隻目の「ビクトリア」号が完成したのは80年。17世紀の英国戦艦「サブリン・オブ・ザ・シーズ」をモデルとして設計。完成式には当時の駐日英国大使を招待した。さらに87年に17世紀のフランス戦艦を模した「ロワイヤル号」、91年にはスウェーデンの艦船をモデルに「バーサ号」をそれぞれ就航させた。

船上結婚式やサンセットクルージングのパーティーなどの企画も相次ぎ打ち出した。昨年の輸送人員は約182万人で一般客が約135万人、団体客は約47万人だったという。

21世紀に入って海賊船に乗船する観光客は大きく変わってきているという。渡辺社長は「外国人客は1990年代は年間7万~8万人だったのが現在は約36万人にまで増えている」と言う。トップは台湾で2位がタイ。最近は中国に代わってイスラム圏からの観光客が増えているという。操船中の甲板からメッカの方向へ礼拝するお客も珍しくないという。「現在ハラル対応を急いでいる」(渡辺社長)。今後の経営戦略の中心はやはり2020年の東京五輪だ。

海外客をどれだけ箱根に呼び込めるかについて、渡辺社長は「都内や首都圏近郊のレジャー施設とのエリアごとの競争になる。千葉・幕張や都内の施設に負けないようにしたい」と読む。米国ディズニーでの発想が原点だった箱根の海賊船と東京ディズニーランドの知恵比べが見られそうだ。

(電子整理部 松本治人)

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

関連企業・業界

セレクション

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン
図表を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した図表はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン