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音楽祭に「オザワ」の冠 小澤征爾、80歳への決意

世界的指揮者の小澤征爾(1935年生まれ)を総監督に毎年夏、長野県松本市で開かれている音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル」の名称が来年から「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に変わる。小澤、80歳の新たな展開だ。

ホールに名前…「お墓みたい」

同フェスティバル松本実行委員会の神沢陸雄実行委員長(キッセイ薬品工業会長・最高経営責任者)は8月4日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で開いた記者会見で、今年が小澤の恩師である斎藤秀雄の没後40周年と、その没後10年を機に発足したサイトウ・キネン・オーケストラの30周年の節目に当たり、これまで一貫して率いてきた総監督の功績と今後の国際展開を踏まえ「オザワの冠をつけることを了解していただいた」と、背景を語った。

続いて小澤本人が改称の枠を超え、音楽の本質や自身の歩み、親しい人々のことを予想以上の闊達さで語り出した瞬間、会見場の空気が変わった。詳細に再現してみよう。

◇    ◇

ボストン交響楽団の音楽監督だった時代、夏の仕事場はタングルウッド音楽祭だった。「シェッド」と呼ばれる野外ステージは、雨が降れば濡れる。屋内の新しいホールを木製でつくる話が決まったら、「名前はセイジ・オザワ・ホールにしよう」との声が出た。僕は「ホールに名前をつけるの、お墓みたいだから嫌だ」と抵抗した。それから日本やヨーロッパでせわしく指揮していたら、僕のいない間につけちゃった。後に何度もボストン響とそこでリハーサルするうち、「今日はオザワ・ホールで稽古しよう」と平気で言い出したけど、自分のことだと思わなかったんだろうな。3年もしたら、何でもなくなった。

音楽の気持ちよさを伝えたい

だから今回の(松本の)件は言われてみて、「なるほど」と反応できた。実は名称変更のミーティングは3年前の3月11日、まさに東日本大震災の日の午後1時から、フロラシオン青山というホテルで行っていた。話が終わりかけた時にグラリときて、前の道に避難したことをよく覚えている。急に言われた名称変更では、ありません。

このところ「今にも死にそうな」とか「いや、まだ死なない」とかいわれてきた僕が改称の話を受けたので、「どうかしたのか」と思った人もいるだろうが、本人は納得している。大病して手術をした人が「死ぬ」ことをしゃべるのは、相当元気になった場合か、ただのバカか、どちらからしい。僕は元気になった方だと思って今、少しずつ(音楽祭のことを)やっている。サイトウ・キネンと松本市との出合いは、本当に運命的だった。

世界中、いろんなことが起きているけど、僕たちが信じたいのは、音楽は昔から、人の心に一番早く伝わる芸術ということ。絵は目から、彫刻は触ったり見たりで理解するから似ているかもしれないが、文学だと先ず字が読めて、さらに理解しなければならない。音楽は耳が動いている限り、直接はいってくる。大バッハもオーケストラも歌も、さらにポップス、ジャズ、ロックのどれをとっても、それなりにポンと、はいってくる。この良さをずうっと大事にして、もっと多くの人々にわかってもらわなければならない。

ド、ミ、ソという3つの音が鳴るだけでハーモニーが生まれ、どんな人でも気持ちがよくなる。最近はあんまりやる人がいないらしいけど、お風呂の中で歌うとすごく響いて、どんな下手な人の歌でも上手に聞こえる。この気持ちよさを、多くの人に伝えたい。

僕の兄貴分だった(ムスティスラフ)ロストロポービチという、もう亡くなってしまったけど、素晴らしいチェロ奏者がいた。ロストロポービチも、僕たちの音楽を聴いたことのない人のそばまで出向き、伝えたいと考えて「セイジ、一緒にキャラバンに行こう」と言い出した。チベットやシベリアの名を挙げるので「いや」と言ったら「じゃあ、日本で」となって、少人数のキャラバンに出かけた。一切のPRをせず、いきなり田舎に出かけるので、最初の聴衆は5人、いい線いって30人、最大の成功?は100人だった。初めてクラシック音楽を聴く人々の顔を見ながら指揮していた時、「これだっ!」と思った。音楽の力が伝わる瞬間だった。

アジアの若い学生、音楽塾で伸ばす

最近は一歩進め、「教育」に力を入れている。教育という言葉自体は、あまり好きではないのだけど……。「ヘネシー・オペラ・シリーズ」というスポンサー付きのオペラ企画が約10年で終わり、次のスポンサーを探す過程で京都の電子部品メーカー、ロームの創業者・佐藤研一郎さん(現名誉会長)と知り合った。2人で話しながら「やろう!」と決めたのが、オペラを中心とする小澤征爾音楽塾だった。ヘネシーのシリーズと同じく、歌手は僕が世界の一流を集めるが、オーケストラはアジアの若い音楽学生だ。若い学生に声を聴かせながら伸ばす発想だったが、実際、すごく伸びた。

もう一つは斎藤先生の遺志を継ぎ、長野県の奥志賀で続けてきた室内楽講習会。これも今は「小澤国際室内アカデミー奥志賀」と名を改めた。同様のセミナーをスイスでも立ち上げ、「セイジ・オザワ・インターナショナル・アカデミー・イン・スウィッツァーランド」と名付けた。もはや、僕の名前をつけることに慣れてしまったんだな。

後継者は誰? 「まだ言えない」

「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の後継者を誰にするか? これは職業上の秘密だから、まだ言えない。僕が死んだら誰が残るのか、やってくれるのか……。僕もバカじゃないから、フェスティバルを始めた時から考えている。僕が「可能性がある」とみる指揮者をゲストに呼び、サイトウ・キネン・オーケストラの仲間とコンサート、オペラを一緒にやってもらう姿を見ながら、考える。

例えば昨年は僕がオペラを振って、コンサートには大野和士さんを招いた。今年は僕がコンサートで、ベルディ最後の傑作オペラ「ファルスタッフ」の指揮は最適と思われるイタリア人指揮者、ファビオ・ルイージに無理をいって頼んだ。来年は僕がオペラ。コンサートはデンバーの音楽祭で監督を務めるアメリカの天才的指揮者、ロバート・スパーノにお願いする。今はこれ以上、話せない。

音楽では絶対、まず生(なま)を聴いた方がいい。演奏している人の顔が聴いている人と同じ空間の中で見えて、電気を通さず耳に音の届くことが大切だ。ピアノを習っていた小さいころ、東京・四谷の聖イグナチオ教会の中に入り、生まれて初めてパイプオルガンの音を聴いた。ペダルトーンという低音の連続が聖堂中にガンガン鳴り響き、ぶっ飛んだ。日比谷公会堂へN響(NHK交響楽団)を聴きに出かけた時はレオニード・クロイツァーだったか、指揮だけでなくピアノ独奏を兼ね、ベートーベンの「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」を演奏するのに驚き、とりわけピアノの音に、やはりぶっ飛んだ。

最初の音楽とは、「どの曲を聴くか」ではなく、そのような体験なのではないか。

「4人の偉大な先生」との出会い

僕自身は非常に恵まれていて、4人の偉大な先生と出会えた。最初は斎藤先生。次は海外に出て、ボストン交響楽団の音楽監督だったシャルル・ミュンシュ先生。もっとも当時、僕がやがてボストン響を率いることになるなんて、考えてもみなかった。その後2年半、ニューヨーク・フィルハーモニックでレナード・バーンスタイン先生のアシスタントを務めた。最後はベルリン・フィルのヘルベルト・フォン・カラヤン先生。コトバ(外国語)も今よりずうっと下手で、西洋の音楽事情を何も知らないままベルリン、ザルツブルク……と、あまりに早くデビューしてしまった僕のことが心配でたまらなかったらしく、最期まで弟子と思ってくださった。カラヤン先生が亡くなった時、アメリカからザルツブルクへ飛び、ウィーン・フィルを指揮してバッハの「アリア」で先生を追悼した。4人の師に、望んでも出会えるわけではない。僕は本当に幸福だった。

僕は「天才」ではない。みんな笑うけど「努力家」です。病気になる前まで何十年間、朝まだ皆が寝ている間に起きて、勉強を続けてきた。勉強は苦手だけど、音楽家の努めとして、しなければならない。「ちょっと天才」なら、いとも簡単に僕のことを抜ける。先日亡くなったロリン・マゼールさん、斎藤門下の盟友だった山本直純さんは本当の天才だった。マゼールさんは僕の5歳上でしかないのに、受けたコンクールの審査員だった。

残された時間に何をするか? 天才でない僕は「なるべく死なないで、一生懸命やるしかない」と答える。そして、次の人を生み出す。音楽祭の名称を変えたくらいで、内容まで変わるということは、音楽の世界ではありえないと思っている。

(電子報道部)

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