辻村深月『琥珀の夏』 時を経て動き出す夏休みの記憶
きっと、誰にも似たような思い出があるはずだ。幼い頃、夏休みの短い間だけ共に過ごした同年代の子どもたち。「ずっと友達だよ」と約束したのに、それっきり会うこともなく、今、どこで何をしているかも分からない。でも、ふと思い出してみれば、特別で、大切な記憶――。辻村深月が新作『琥珀の夏』で描いたのは、タイトルのとおり、閉じ込められた、子ども時代の夏の記憶だ。
「これまでも、記憶をテーマに小説を書いたことはありますが、たいていは『覚えていたことと真実が違っていた』という、記憶の恣意的な面を思い知らされ、突き放されて、そこで閉じる物語でした。実は今回も、最初に向かっていたのはそこだったんです。でも、書き進めていくうち、その先に行ってみたい、と。思い出を勝手に"いいもの"として琥珀の中に閉じ込め、その後の彼らの実際の人生を思うこともない、その、無意識の傲慢さに気づくことからスタートして、一度途切れてしまった友達と、再びつながろうと手を伸ばす。子ども時代にもう一度橋を架ける。そんな物語になりました」

独自の教育方針のもと、親元から離れた子どもたちが自然の中で共同生活を送る〈ミライの学校〉。弁護士の法子は、小学生の頃に3年間だけ、この団体が主催する夏休みの合宿に参加していた。30年後、その跡地から、子どもの白骨死体が見つかる。「見つかったのは、ミカちゃんなんじゃないか」。30年を経て、法子の記憶の扉が開く。
「新聞連載が終わって刊行のために手直しするにあたって、大きく変えたシーンがあります。合宿中、法子とミカが2人で夜の泉に行く場面。連載時には、法子は、『先に帰って』というミカを泉に残して行ってしまうのですが、書き終えてから、法子がそれを心残りに思っている気がして…。私が『直したかった』というよりも、法子が『そうしなきゃだめだ』と。執筆中に登場人物が勝手に動くことはよくあることですが、完成後に遡って教えてくれた感覚は初めてでした。何度でも作品に向き合うことができる。改めて、作家という仕事のやりがいを感じる体験でした」
ミカの記憶と現在が交錯するなか、真実が明らかになる最終章。静かなのに、胸に迫るすごみがある。
「記憶がないくらい、一気に書き上げました。〈ミライの学校〉では、問いを投げかけ、答えを求める『問答』を行うのですが、それは、一見、子どもの自発性を尊重しているようで、実は誘導なんですよね。そうではなく、最終章で法子がやったような、真っすぐに相手の言葉を待つことこそが、きっと人の心を開く。書き切ることができて本当によかった」
"白"辻村と"黒"辻村
『鍵のない夢を見る』で直木賞を受賞した際、ファンから「もっと他の作風も書けるのに、誤解されてしまう…」と心配されたほど、深い思い入れをもつ読者が多い。
「『"白"辻村が人気だけど、自分は"黒"辻村推しですね』とか、『かがみの孤城』で本屋大賞をいただいた時は『初辻村で恐縮です』って、古いお客さんがいるお店みたいな言われ方も(笑)。読者に囲まれているのは、すごくうれしい」
デビュー18年目。「もう、どんなものを書いても怖くない」と言う。
「少し前までは、どの作品も、その時の自分にしか書けないものだと思っていました。負けん気もあったし、野心もあった。でも、最近は、冷静に、プロになって書けている気がします。書くことが楽しくなってきたというか。楽ではないんですよ。悩むし、迷うことばかり。でも、最後には、これでいいんだ、と自分を信じることができる。きっとこれから先も書いていけると思います」
辻村深月の"新たなる代表作"は、こうして生まれてゆくのだ。
(ライター 剣持亜弥)
[日経エンタテインメント! 2021年8月号の記事を再構成]

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