クジラが人をまるのみ! 奇跡の生還者が語る口の中

2021年6月11日、米マサチューセッツ州東端のケープコッド沖でロブスターを捕っていたダイバーがザトウクジラに「のみ込まれ」、奇跡的に生還したと大々的に報道された。マイケル・パッカード氏は、強く押された感じがして「次の瞬間には真っ暗闇の中にいた」と、地元紙ケープコッド・タイムズに語っている。クジラの口の中でもがいていると、30秒ほどでクジラは水面に上がり、パッカード氏を吐き出したという。
ザトウクジラの口は3メートルにも達するため、人間くらい難なく入るだろうが、人間をのみ込むことは科学的に不可能だと、英国の非営利団体「クジラ・イルカ保護協会(WDC)」のニコラ・ホジンズ氏は言う。
ザトウクジラの喉(のど)は狭く、安静時の幅は人間の拳ほど。大きな獲物をのみ込むときに伸びても、せいぜい直径40センチだ。
パッカード氏の場合は、「のみ込まれたのではなく、たまたま口に入ってしまい」、それに気づいたクジラが慌てて吐き出したのだろう。パッカード氏にとっても、魚を食べようとしていただけのクジラにとっても、恐ろしい体験だったことだろうとホジンズ氏は語る。
「(パッカード氏は)まずい時に、まずい場所にいたのです」
人がクジラの口に入ってしまった話は、これが初めてではない。20年には米カリフォルニア州でカヤックに乗っていた2人が、また19年には南アフリカのポートエリザベス港でダイビングしていたツアーオペレーターが、それぞれクジラの口に入ってしまう事故が発生した。最も有名なのは、聖書に登場するヨナだろう。ヨナは、クジラにのみ込まれたために溺れずにすんだ。古い童話でも、ピノキオの生みの親、ゼペットがクジラにのまれている。
クジラが人間をのみ込むというイメージは、伝説などによって古くから伝えられてきたため、多くの人がそれを本当だと信じている。しかし、ある1種を除いて、人間ほどの大きさのものをクジラがのみ込むことは科学的に不可能だ。
実際にクジラが好んで食べるのは
ごくまれに人間がクジラの口に入ってしまった場合、それはほぼ間違いなく偶然のできごとだ。クジラは人間を食べないからだ。
マッコウクジラのようなハクジラ亜目は、歯を持ち、イカや魚などをエサとする。一方、ザトウクジラやシロナガスクジラ、コククジラ、ミンククジラなどのヒゲクジラ亜目では、口の中に歯ではなく特殊な剛毛が生えており、プランクトンやオキアミ、小魚などの小さな獲物を食べる。
「くじらひげ」と呼ばれるこの剛毛は、硬さと柔軟さの両方の性質を持つケラチンというタンパク質でできており(人間の毛髪や爪と同じ物質)、そのケラチンの繊維が板状になってくしのような形に並んでいる。ヒゲクジラはいったん大量の海水とエサを口に含んでから、くじらひげをろ過器のように使って大量の海水だけ吐き出し、小さなエサをこし取って食べる。
地球上で知られる90種のクジラのうち、人間をのみ込めるほど大きな喉を持つのは、マッコウクジラただ1種だ。体長20メートルにもなるこの哺乳動物の食道はとても大きく、巨大なダイオウイカを丸ごとのみ込んでしまうこともある。実際、14メートルに達することもあるダイオウホウズキイカが、マッコウクジラの胃の中から発見されたこともある。
ただ、物理的に可能だとは言え、マッコウクジラが人間をのみ込む確率は大変に低い。そもそも出会う可能性がまずない。
ほとんどの人にとって、「一生の間に一度でもマッコウクジラを見る機会はないでしょう」と、英国ロンドン動物学会の「ストランディング(座礁・漂着等)クジラ調査プログラム(CSIP)」のロブ・ディアビル氏は話す。マッコウクジラは世界中に広く分布しているものの、ほとんど外洋で生活しており、多くの時間を深海で過ごす。
クジラにとっての脅威
そういうわけで、次に海水浴に行く人も心配は無用だ。第一、クジラは人間に対して攻撃的ではない。むしろクジラが人間を恐れて当然だとディアビル氏は言う。「人間が与えるさまざまな重圧と脅威」のせいだ。
人間は、捕鯨、環境汚染、生息環境の破壊、クジラが漁網に絡まったり船に衝突したりする事故などによって、クジラを傷つけている。近づきすぎるなどの無責任な観光客の行動も、クジラを苦しめる可能性がある。
もしもこの温和な大型動物に出会うことがあったなら、責任ある野生動物観察のためのガイドラインに従って欲しいと専門家らは述べている。たとえば、十分な距離を保って、(可能であれば双眼鏡を使って)遠くから観察すること、クジラに恐怖や刺激を与えるような行為をしないことなどだ。
ところで、パッカード氏は軟部組織にけがは負ったものの、骨折はしていないそうだ。けがが治ったらまたすぐにダイビングをする予定だと、ケープコッド・タイムズに語っている。
(文 MELISSA HOBSON、訳 山内百合子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年6月24日付]
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