1貫88円からの絶品すし店 ビブグルマン店主が3店目

2021年4月、グルメスポットとしても知られる、東京の渋谷駅から奥まったエリアである「オクシブ」に、新たな注目店「すし光琳」がオープンした。2016年に開店した1号店「すし宗達」(東京・初台)は昨年12月、『ミシュランガイド東京 2021』でビブグルマン(東京や京都・大阪では6000円以下、そのほかの地方では5000円以下で楽しめる、良質な食材で丁寧に仕上げた料理を出す飲食店に与えられる評価)を獲得した本格派。新店では、料理人であるオーナーの新田真治さんが、さらなるメニューの展開も考えている。
この店の最も安い握りはなんと1貫88円。ネタはゲソと玉子で、ゲソには仕入れにより、生ゲソもしくはゆでたものを使用する。取材日に出てきたのは白イカの生ゲソで、透明感のある新鮮な身がシャリにのっていた。シャリは赤酢を使った赤シャリで、白いネタが映えとても88円には思えない。

「お店は気軽に入りやすいことが大事だと思うので、(もうけが出ない)原価100パーセントの品が何品かあっていいと思ったんです。それをきっかけに入っていただければ、ゲソだけ食べて帰られるお客様はいないと思って」と新田さんは笑う。ゲソ以外のネタでも同店では赤シャリを用いるが、これはネタがほぼ天然もので味が濃いため、赤酢の方が合うと考えてのこと。メニューの値段は仕入れによって変わるが、「ゲソは、意地でもこれで続けようと思っている」と店主は力を込める。
新田さんがこの道に入った理由はシンプルで、「おすしが好きだったから」。北海道の小樽出身で、小さいときから家族とよくすしを食べに行ったそうだ。と言っても、彼が最初に目指した職業は料理人とはまるで異なるボクサー。「負けず嫌いで力比べが好きだった」と言い、中学2年になると東京で働いていた父の下からボクシングジムに通った。

ところが、けがをしてボクサーになる夢はあきらめることに。進路を思い悩んだとき、頭に浮かんだのが大好きなすしだった。「おすし屋さんで働けば、まかないにすしが出るのかなと思ったんです。もちろん出ませんでしたけど」と笑いながら、「厳しい料理人の修業の世界ですが、僕は打たれ強かった。ボクシングが役に立ったかな」と言う。

東京・杉並のすし店で5年修行した後は、料理の引き出しは多い方がいいと、和食店でフグやスッポン料理も学んだ。28歳で独立する直前に築地のすし店に勤めた。そこで働いていた先輩に紹介してもらったのが、マグロ専門仲卸大手やま幸(東京・江東)だ。多くの高級店を顧客に抱える仲卸で、独立したら、絶対にやま幸のマグロを買いたいと思っていたという。
「やま幸さんのマグロは、身質が軟らかいのが特徴。時計だったらロレックス、車ならベンツ、マグロはやま幸さんというのが僕の中であって、あこがれだったんです」と新田さんは目を細める。最初は社長に店の名前も覚えてもらえず「結構ショックだった」と苦笑いするが、ビブグルマンに選ばれた際には祝いの花が届き、「これからは追う立場じゃなく追われる立場になるから、心してやったほうがいいよ」と社長から声をかけられた。

やま幸のマグロは1柵、2柵ぐらいの仕入れに留まる店もあるというが、新田さんの店は単位が違う。営業時間を短縮している現在の緊急事態宣言下でも、経営する全3店で「10キロぐらいどかっと買う」という。そのぐらい売り切る自信があるのだ。昨春の緊急事態宣言のときには、オーダーした以上のマグロがやま幸から届いた。「休業した店が多かったので、マグロが売れない。でも漁師さんが苦しいから、やま幸さんはどんどんマグロを買われていたんです。だから、オーダーした倍以上のマグロが届いたりしましたが、何キロになっても断らずに買いました。うちは閉めずに時短で営業をしていたので、毎日売り切るため、お通しにマグロのステーキを出していた(笑)。いつもはシジミの一番だしなんですけどね」。そうした新田さんの心意気は、やま幸の社長にも届いたに違いない。
テークアウトも人気
ちなみに、昨年の緊急事態宣言時のすし宗達の売り上げは、前年同期比で122パーセントにのぼる。売り上げを押し上げたのは、1600~3600円(税別)のテークアウトのすし折だ。「15席の小さな店なのに1日70食ぐらい出た。すしを握る際は足でリズムを取るのでまるでスポーツ。足がつるんじゃないかと思いました」と振り返る。なお、すし光琳でもテークアウトを行っており、現在の緊急事態宣言下でも人気だという。

ネタのこだわりは、マグロだけではない。アナゴの仕入れ先もミシュラン星つき店と同じだ。産地は長崎・対馬、宮城・松島、江戸前のいずれかと決め、1本400~500グラムある大きなアナゴを仕入れる。「高級店ではその半分ぐらいのサイズのアナゴを使われていたりするのですが、大きいアナゴはふわふわに仕上げられる。脂ののりも含め、僕はこのぐらいの大きさのアナゴがとても好きなんです」と新田さん。
ふわふわのネタに合わせるシャリは軟らかく握る。「おすしは、シャリとネタが同時に喉を通るのが理想」と考えているからだ。シメサバは、薄く切ったネタを3枚重ねて握るが、これは「厚く切るとサバのいやな部分も少し感じたりする」ため。薄いネタを重ねて握れば、それがなくなりぜいたく感が味わえる一方、シャリとの相性もよくなる。

研究熱心な新田さんは、キーワードによる録画機能がついたレコーダーで、「すし」を指定してテレビ番組を録画。「たまになぜかアニメとか入っちゃうんですよね」と頭をかく。「僕は温泉が好きなので、お湯につかりながらおすしのことを考えるんです。露天風呂に入り空を見ながら、もっとおいしいおすしのやり方はないかと考えていると、結構"降りて"くるんですよ」
白子焼き、真ダコのやわらか煮、あん肝ポン酢……
ネタが時価であるためメニューに値段表示がないすし店は多いが、同店のメニューは値段と共に黒板に書かれ、安心してオーダーできる。黒板は店の壁の高い位置に掲げられている。分かりやすいようにというだけでなく、「おいしいものを食べるときは、上を見上げて頼んだ方がわくわくするでしょう?」と考えてのことだ。

「最初に修業したお店は地域の人に愛されているお店で、自分で店を出すときも街の人が気軽に訪れることができる店を目指した」と新田さんは言う。初めての店すし宗達は、30年以上続いたすし店の居抜き物件に開いた。「70歳ぐらいのご夫婦が営んでいたおすし屋さんだった場所で、お客さんとの楽しい思い出が詰まった店なんだろうなという気を感じた。カウンターの後ろに自分が立っているイメージがわいて、ここで独立しようと思ったんです」。店は自分の料理だけでなく、客の幸せな姿があってこそ成り立つという姿勢が伝わってくる言葉だ。
新田さんの店はつまみの種類が多い。白子焼きや真ダコのやわらか煮、あん肝ポン酢、ホタテの磯辺焼きなどが並び、お酒も存分に楽しめる。「僕もお酒が好きなので、自然に自分が食べたいものをそろえるようになった。独立したばかりの頃に比べ、メニューの種類は倍ぐらいになっています」(新田さん)。日本酒を飲む客が多いといい、できるだけ味わいが異なる酒を揃えているという(現在は緊急事態宣言中につき酒類の提供は休止)。

すし光琳では、今後、これまでの店にない料理を出そうと考え、すしばかりか和食の枠を超えたアイデアを抱く。「これまであまりに忙しかったので、すし光琳ではもう少し自分のすしを見つめ直したい」と新田さん。自分の仕事を心から愛する彼は、新しい舞台でさらに輝きを増していくに違いない。
(ライター メレンダ千春)
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