死まであと7分 旧ソ連の宇宙ステーション事故の真相

宇宙ステーション「ミール」内に残された酸素は24分間分だった。マイケル・フォール氏の耳が痛んだ。外壁にあいた穴から空気が抜けているせいで、圧力が低下しつつあるのだ。
フォール氏はミールの脱出ポッド(ソユーズ宇宙カプセル)に1人で座り、同僚のロシア人宇宙飛行士2人が合流するのを待っていた。ところが、その頃、彼らは必死になってミールの中を駆けずり回り、無人補給船がミールを構成する接続ノードに衝突して空けた穴の場所を特定して塞ごうとしていた。
暗闇の中で待っていたフォール氏の頭に、訓練中に繰り返し言われたことがよぎった。「酸素残量が30分を切ったら、船を捨てるべきだ」
じりじりと時間が過ぎる。ロシアのクルーは姿を見せないが、ロシア語で交わされる2人の叫び声が聞こえてくる。「はっきり分かったのは」と、当時を振り返ってフォール氏は続けた。「あの2人は、ミールを離れる気がないことでした」
当時のミールは、まさに死につつあった。稼働から11年になる宇宙ステーションは、このときすでに予想耐用年数を5年も過ぎていた。それでもミールを作ったロシア人たちは、あらゆる手を尽くして、その後さらに4年にわたって、ミールを軌道に乗せ続けた。そして迎えた2001年3月23日。ロシア人が愛するミールの存続をあきらめ、地球の大気圏に突入させた。こうして、宇宙ステーション「ミール」は南太平洋上空で炎に包まれて最期を迎えたのだ。
ここで、ミールが誕生した経緯を見てみよう。きっかけは米国が月面着陸を成功させた後、つまりソ連にとって暗黒時代にあった。なんとしても面目を保ちたいソ連は、宇宙ステーションの建造を優先した。その目的は、地球の上空を恒久的に占有し、微小重力実験や、ソ連軍にとって非常に重要な地表の観測を行うことだった、とされている。
米国が1972年に最後の月面歩行を行う8カ月前、ソ連は世界初の宇宙ステーションとなる「サリュート1号」を打ち上げた。それから14年後、「ミール」は初のモジュール式宇宙ステーションとして誕生。2回目以降のミッションで、合計6つのコンポーネントがミールに追加された。
米国では、米航空宇宙局(NASA)が独自の宇宙ステーションを切望していた。しかし、スペースシャトル計画が予算の大半を消費していたため、唯一の希望はその費用を支払うのを助けてくれるパートナーを見つけることだった。そのパートナーとなったのが「ミール」を送り出したソ連だ。
当時のソ連は、自国の宇宙計画の費用を捻出するのにも苦労していた。事実、1989年にソ連経済が苦境にあったとき、ミールにいたクルーは、自分たちは地球に戻れるのか不安に感じたという。
1993年、ロシアと米国は共同で国際宇宙ステーション(ISS)計画を発表した。これで理屈上は、両国が資源と専門知識を新たな宇宙ステーションに注ぎ込むことになる。この合意によってISSの建設は確実となったが、一方でNASAは、資金力のないロシアが分担金を支払えるはずがないことを最初からわかっていた。
「議会は、NASAがロシア側に資金を渡すことを厳しく禁じていました」と、当時NASA監察官事務所の上級特別捜査官だったジョゼフ・ガセインズ氏は言う。「ただしNASAが、ロシアの尽力に対価を支払うことは可能でした。そこで、こちらから相手に何億ドルも支払って、ミールに米国の宇宙飛行士を搭乗させてもらうことにしたのです」
現在はヒューストンで弁護士をしているガセインズ氏は、NASAがミールに次々と宇宙飛行士を送り込むところを間近に見ていた。ただしミールの中は、パイプの漏れ、電子機器のショート、カビの繁殖といった、悪夢のような環境だった。
「NASAがロシアにこの金を支払い続けた唯一の理由は、そうすることで相手にISS建設のタイムスケジュールを守ってもらうためです」
結局、米国はあわせて15億ドル(現在の金額で約1630億円)をロシアに対して支払うことになった。
米国から最初にミールに搭乗した3人、ノーマン・サガード氏、シャノン・ルシッド氏、ジョン・ブラハ氏は、1995年と1996年に比較的平穏な滞在期間を過ごした。1997年1月にスペースシャトルに乗ってミールを訪れた医師のジェリー・リネンジャー氏も、同じような経験を期待していたに違いない。ただ、その1カ月後、リネンジャー氏は、危うく米国初の宇宙での犠牲者になりかけたのである。
衝突
全盛期のミールは、人類が作った宇宙で最大の構造体だった。現在はウィスコンシン州の子供向け博物館に展示されているミールのセントラルノードは、スクールバスほどの大きさで、5つのポートがある部屋につながる舷窓があった。5つのポートは、それぞれ別のモジュールにつながるようになっていた。
一つの壁には、ミールと一緒に打ち上げられたギターがかけられている。そのそばにある2つのスキューバタンクのように見えるものは、ミールの酸素発生装置で、過塩素酸リチウムのカートリッジを加熱して酸素を発生させていた。

1997年2月23日、酸素発生装置のキャニスター(二酸化炭素吸着装置)の1つが炎を上げ、ミール内に酸性の煙が充満した。顔のすぐ前にある手も見えないような状態の中、クルーたちはなんとかガスマスクを着けたが、中にはまともに機能しないものもあった。壁から消火器を取り外そうとしても、きつく固定され動かせない始末だ。
「ロシアは、この火災は90秒間だったと報告しています」とガセインズ氏は言う。「実際の時間は14分でした。しかもロシアは、宇宙飛行士が火を消したとしていますが、実際には自然に燃え尽きたのです」
海軍で訓練を受けた医師のリネンジャー氏は、同僚たちのやけどの手当をした。彼は事故報告書を提出したが、NASAがロシア側の話をほぼそのまま繰り返すのを聞いて困惑した。
「NASAの見解は、この事故はたいしたことではなく、ISSのためのいい訓練になったというものでした」とガセインズ氏は言う。「ロシア側は、この事故の前にも何度も火災があったことをNASAに伝えていませんでした」
迫る死
1997年5月17日、天体物理学者のマイケル・フォール氏がリネンジャー氏と交代したとき、ミールの壁にはまだ火災の跡が残っていた。この英国生まれの宇宙飛行士は、新型コロナウイルス感染症の流行が始まって以来、妻と一緒に閉じこもっているというコロラドの自宅で話を聞かせてくれた。
つい最近火災があったにもかかわらず、最初のうち、フォール氏はミールに4カ月以上滞在することに不安を感じてはいなかったという。「奇妙だとは思いましたが、すでに解決されたことですし、もう起こることはないと考えました」
フォール氏が宇宙飛行士になったのは、1986年のチャレンジャー号爆発事故の直後だった。「悪いことは打ち上げのときに起こるものだという気がしていました。宇宙に着いてしまえば、わりと静かなものですから」
フォール氏がミールに到着してから1カ月後、静けさは突然、破られることになる。
何年も前から、ミールは、「プログレス」と呼ばれる無人の補給船に物資を運ばせていた。危険を伴うドッキング作業は、常にウクライナ政府が所有する技術を用いて行われていた。しかし、資金繰りに困っていたロシアは、ウクライナにお金を払いたくないため、試しに手動でのドッキングを行ってみることにした。遠隔測定は行わず、宇宙飛行士のヴァシリー・チブリエフ氏がビデオ画面をにらみながら、数本のジョイスティックを操作するだけだ。
ドッキング試験の最中、フォール氏は自分の居住区画兼科学実験室として使っていたミールのノードの一つ「スペクトル」の窓に配置された。彼の使命は、接近してくるプログレスの速度を、レーザー距離計を使って測定することだった。
フォール氏はわたしに、次に何が起こったかを撮影した動画を見せてくれた。わたしでさえ、プログレスがミールに予定よりも速いスピードで接近してくるのがわかる。
突然、映像が揺れた。プログレスが太陽電池アレイを引き裂いて、スペクトルに衝突したのだ。気圧が危険なほど低下していることを知らせるサイレンが鳴り響く。規則通りに、フォール氏はソユーズカプセルに入り、地球に向かって脱出するためにほかのクルーを待った。
ロシア人クルーの2人が現れないため、フォール氏は危険を承知でミール内に戻った。すると、宇宙飛行士のアレクサンドル・ラズトキン氏が、絡み合った電源コードを外して、損傷したスペクトルを密閉して空気の漏れを止めようと奮闘していた。しかしそのケーブルは、ミールにもとからあった効率の悪い太陽電池を補うために設置されたスペクトルの太陽電池アレイから電気を運んでいるものだった。ケーブルを1本切断するたびに、文字通りミールの生命線が切断されていく。
ついに最後のケーブルが外された。貴重な空気がこれ以上スペクトルへと流れ出さないようにするには、もう一つ必要な作業があった。スペクトルへの通路を、専用のカバーで塞ぐのだ。
「しかし、まずはそのカバーを探さなければなりませんでした」とフォール氏は言う。「カバーはもう何年も前に、紐でしばってどこかに仕舞い込んであったからです。ようやくカバーを見つけて取り付けると、吸い込まれる力で所定の位置に収まりました」
空気漏れが止まったのは、酸素の残りがあと7分間分になったときだった。

そして、照明が消えた。
「スペクトルの太陽電池パネルとは切り離され、残りのパネルは太陽光があまりあたらない位置に回転していました」とフォール氏は言う。船上の不気味な静寂に、フォール氏は衝撃を受けた。ずっと聞こえていたミールの換気扇の音さえ消え去っていた。
電気を失ったことでジャイロスコープが停止し、ミールは制御不能に陥った。この現象は、太陽電池パネルの向きが変わって、太陽光を受けられなくなるたびに起こるもので、それまでにも何度も発生したことがあった。しかし今回は、最も効率の良い太陽電池パネルが故障していたため、ミールを安定させて古いパネルの位置を調整しない限り、ジャイロは再起動してくれない。
ミールは3分に1回、回転している。そこでフォール氏は、ソユーズのエンジンを短く数回噴射して回転を遅らせることを提案した。数度失敗はしたが、なんとかミールを安定した状態に保つことができた。こうして古く効率の悪い太陽電池パネルが、一定時間ごとに作動するようになった。24時間後、ミールがロシア上空を通過する際、モスクワの管制官はようやくミールに新しい命令を送り、機体を安定させることに成功する。
それから1年半の間に、フォール氏に続いて2人の米国人宇宙飛行士がミールに滞在し、その間、米国とロシアはISSの建設を進めた。ロシアはミールを新たな宇宙ステーションの中核とすることを強く主張していたが、最終的にはこれを断念した。
こうして1998年11月20日、ISSの最初のコンポーネントとなる、ミールとよく似たロシア製のセントラルノードが、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。
ところで、米国はどうして老朽化して危険性が年々増すミールを支え続けたのだろうか。
「わたしはクリントン大統領に尋ねてみました」とフォール氏は言う。「『米国がミールを助けたのは、ロシアクルーがイランや北朝鮮のために仕事をすることを妨げるためだったからです』と言いました。大統領はしばらく間をおいてから、『あくまで理由の一つですけれどね』と言いました」
ガセインズ氏によると、もう一つの大きな理由があった。それは、ロシアはISSにおける対等なパートナーであるという建前を保つことだったという。
「今から50年後、人々がISSの大成功を振り返ったとき、このプロジェクトに関わったNASAの人々はヒーローになるでしょう」と、ガセインズ氏は続けて話す。「何しろ、1人も犠牲にならなかったのですから」
2001年、ミールは炎に包まれて宇宙の旅を終えた。新たな所有者・運営者探しが幾度も頓挫し、ロシアは不可避の事態を受け入れた。こうして2001年3月23日、ミールのすべては燃え上がるかけらとなって地球に帰ってきた。それでも、ミールの遺産はこれからも生き続ける。
「ISSはミールと大きく違うわけではありません」。ミールとISS、両方の宇宙ステーションに搭乗した唯一の人物であるフォール氏はそう語る。
「ロシアの宇宙計画の進め方を批判することはいくらでもできます。しかし、ロシア人はこう言うでしょう。『米国は15年前にスペースシャトルを失っただろう。こっちはその間、ずっとISSを動かしてるよ』と。それに異論を唱えることはできません」
(文 BILL NEWCOTT、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年3月25日付]
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