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大阪城公園の2つのモニュメント、半世紀超す追悼 今も

時を刻む

建立時の土台の上に置かれた新しい大阪社会運動顕彰碑

大阪城公園(大阪市中央区)の北東と南西の端に2つの不思議なモニュメントがある。大阪社会運動顕彰碑と教育塔だ。顕彰碑は顕彰塔という名だった施設の上部を撤去し、今秋建てられた。違う時期にできた2つの施設には社会運動や子どものために尽力した無名の人を記録し、たたえる目的がある。今も新たに名前が追加され、秋に式典が開かれている。

社会運動・教育家を顕彰

大阪社会運動顕彰塔は社会運動、労働運動、農民運動などに功績のあった人をたたえ伝えていこうと1960年のメーデーで建設が発議され、労働団体の総評、同盟や社会運動団体、社会党、民社党の関係者らが建設委員会を結成。大阪市長や大阪府知事も協力し、発議から10年後の70年11月に竣工した。

一辺15メートルの正方形の土台の上に4本の柱があり、井桁形の構造物の上に同じ正方形の上屋が乗るデザイン。正方形は自由、解放、平和、繁栄を象徴し、柱は民衆の腕、井桁は手のひらで、これら4つの理想を民衆が支えているという意味を込めた。

コンクリート製で高さは7.5メートル。細長くなく、全く塔という感じではないが、顕彰塔と呼ばれてきた。「この塔は、困苦欠乏に耐えて弾圧に抗し、不屈の闘志をもって闘った先輩に対する感謝のしるし」――建設趣意書の文言からは、当時の熱意が伝わってくる。

かつての大阪社会運動顕彰塔。上部の構造物が撤去された

最初に顕彰された人には、運動の功績や経歴がまったく分からない名前だけの人がいる一方、神戸生まれのキリスト教社会運動家・賀川豊彦や「貧乏物語」を著した経済学者・河上肇ら、大阪とあまり縁のない著名人も含まれている。

「関係者に亡くなった先輩ら顕彰すべき人の名前を聞いて入れたりしたらしく、第1回の顕彰者名簿はかなり緩い条件で作成されている」。顕彰塔の管理をしてきた大阪社会運動協会の千本(ちもと)沢子さんは語る。

その後は大阪で労働運動や反戦、人権運動などに尽力した人らを名簿に追加し、毎年10月に追悼式を開いている。これまでに1800人近い人が顕彰されてきた。完成から50年が経過してコンクリートの上屋が老朽化し、安全性に問題が出たため、土台を残して上屋と柱を撤去し、今年新たに碑を建てた。

毎年新たに合葬

一方、教育塔は1934年9月の室戸台風によって大阪などで学校が倒壊し、600人を超える子ども、教職員が犠牲になったことを受け、大阪教育界の発議で全国の教育関係者の追悼施設として建設された。

大阪城公園南西端にある教育塔

鉄筋コンクリートの建造物の外側を花こう岩で覆い、最上部には寺院の塔にあるような金属製の水煙が据え付けられている。高さは約30メートルあり、こちらは塔というイメージの建物だ。

教育塔正面にはめ込まれたレリーフ。子どもを守る教師が表現されている

全国で教育活動中に事故などで亡くなった人らを合葬してきており、内部の「やすらかに」と書かれた石碑の周囲に合葬者の名前を記した芳名板が納められている。戦前の教育全国組織、帝国教育会が建設したが、48年から日本教職員組合が管理を引き継いでいる。

現在は10月末に塔の前で追悼の式典を開いている。都道府県教組から上がってきた申請を審査して合葬者を決めており、累計の合葬者は2万7千人を超える。「近年は災害で亡くなった方のほか、過労死された方らの申請も上がってくる」と大阪府教職員組合の山本直樹副委員長は話す。

一見、関係なさそうな2つの施設だが、社会運動顕彰塔は教育塔を意識していたらしい。「構想はもっと巨大な施設で、設置場所も教育塔より目立つ場所を希望していたようです」と千本さん。確かに敷地は教育塔の333平方メートルに対して顕彰塔は400平方メートルある。高さは及ばなくても広さは上回りたいという対抗意識があったのだろうか。

(編集委員 堀田昇吾)

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