探検のはじまりはチンパンジー ヒトはなぜ人間なのか
人類学者 長谷川真理子さん(上)

ヒトの探究を土台に社会を縦横に語り、総合研究大学院大学の学長として後進の育成にも熱心な人類学者、長谷川真理子(はせがわ・まりこ)さん。インタビュー前編では、コロナ禍への向き合い方などに続き、科学者として人間そのものを研究対象とするまでの曲折などを聞く。
――新型コロナウイルスのパンデミックの特徴をどうみていますか。
「全世界に一気に広がったことです。エボラ出血熱、エイズ、SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)といった疾患を引き起こすエマージングウイルス(新興感染症)は、この100年でとても増えましたが、エボラ出血熱やエイズの発生時、先進国はどこか他人事で、専門家が警告しても誰も聞かないという状況でした。感染症の急拡大には、環境破壊と都市化がものすごい勢いで進んでいることが影響していると考えています」
「世界のだれもが新型コロナによる衝撃を自分事としてとらえ、日々の生活を考え直すことを迫られているのではないでしょうか。ウェブ会議が浸透した今、満員電車に毎日乗ることが本当に必要なのかどうか。これからはどんな働き方がいいのか、教訓を変化にちゃんとつなげてほしいと思っています」
他の動物のことを考える責任
――特定分野や個人ではなく、世界のだれもがつながっている宇宙や人類の歴史「ビッグヒストリー」も注目されています。こうした傾向の背景には何があると思われますか。
「長い歴史の流れの中で人間を見るということが、ここ10~15年で多くなっているように感じます。人間の知性をAI(人工知能)が超えるという『シンギュラリティー』が論じられるようになったのが一つのきっかけなのではないかと思っています。人類学ではずっと考えてきたことですが、改めて『人間って何?』『どこから来た?』ということが意識されるようになっているのかもしれません」

「人新世(じんしんせい・ひとしんせい、人間が地球環境に大きな影響を及ぼす地質年代)はいつから始まったのかという議論があります。18世紀後半に始まる産業革命なのか、1万年前に人類が農耕を始めたときなのか、と。いずれにしても、人間にはそういう変化があった点が他の動物とは違うし、いろんなことができてしまう生き物だからこそ、他の動物のことも考える責任があるはずです。人新世やビッグヒストリーへの関心をきっかけに、より多くの人がそのことに気づいてくれたらいいなと思います」
――どうして科学に興味をもつようになったのですか。
「小さい頃に経験した生き物との出会いのおかげですね。私は東京生まれですが、祖父母の住む和歌山県田辺市で暮らしたことがありました。磯のきれいな海に近く、家の裏には川と山があって、身近にいろいろな生き物がいる環境でした。特に磯の生き物、貝やイソギンチャク、小さな魚の美しさ、エレガントさは、どうしようもなく印象的でした。道端に生えている雑草も、気づくと花や実をつけていて、その一つ一つが本当に美しくて素晴らしいと感じたものです。小さな図鑑をもらったのですが、そこに載っている生き物全てに名前がついていて、分類されているのを見るのも楽しかったです」
「小学校に入る頃には、将来なりたいものは科学者と決めていました。周りにも『絶対私は科学者になるのよ』って言っていましたから。(動物と話せる医師が主人公の)『ドリトル先生航海記』が大好きでしたし、伝記の『キュリー夫人』(=マリー・キュリー、1903年にノーベル物理学賞、1911年に同化学賞)も読んでましたので、科学者以外の職業は考えたことがないんですね」
――専門の人類学に進んだ経緯を教えてください。
「科学者になりたい思いと、生物が好きという気持ちを抱えながら、物理や化学も面白いと感じていた大学2年生の時、『進化生物学』と『行動生態学』の講義を聞いて、これが一番やりたい、と思ったんです。動物の『進化』『行動』『生態』がキーワードですね」
「当時は研究室選びのためのオリエンテーションもなければ、研究室のウェブサイトもありません。やりたいのは動物だからと、動物学教室に突撃したところ、なぜか『うちでは進化と行動と生態については研究できません』と言われ、ではどこならできるのかと聞くと『人類学研究室でチンパンジーの研究ならできるのでは』と教えられました。それでしょうがなく人類学研究室に行ったんですね」
ドリトル先生みたいに広い世界へ
――チンパンジーに興味が?
「人類やチンパンジーに限った興味があったわけではなかったんです。ただ、チンパンジーも悪くないなと思ったのは、ドリトル先生みたいに探検がしたい、広い世界が知りたいという気持ちがあったからなんです。アフリカに行って野生の生き物を研究できる、見たこともない生き物に会えるということにワクワクしました」
――チンパンジーの研究から分かったことは何でしょうか。
「私が研究を始めた頃は、チンパンジーとヒトは共通の先祖がいてとにかく系統的に近いことを大前提とするスタンスが主流でした。ところが野生の中でチンパンジーを見ると、ヒトとは全然違う。人間はなぜ人間なのか。ゲノムがほぼ同じだとしても、なぜ人間は自動車をつくるのに、チンパンジーはつくらないのか。なぜ人間はチンパンジーの研究をするのに、チンパンジーは人間を研究しないのか。毎日、チンパンジーの行動を記録する中で、ヒトとは違うことが気になるようになったのが思考の転換点になったと思います」
――ヒトとチンパンジーの大きな違いはどこにありますか。
「心の持ち方ですね。例えば、チンパンジーのオスは見知らぬメスの子供を殺して食べちゃいます。見知らぬメスというのは、よそからふらっと来たメスなので、自分とは交尾をしていなくて行動も一緒にしていません。となると、子供も自分の子供ではないということになります。赤ちゃんチンパンジーが、5、6歳のお兄ちゃんチンパンジーの目の前で殺されるのを見てしまったこともあるのですが、このお兄ちゃんも一緒に赤ちゃんを食べていました。なぜ殺して食べるのか、なぜそういうことができるのか、私にはちょっと理解できませんでした」

「チンパンジー同士の関係を見ていても、人間のように心を共有しながらうなずきあったり、互いの目や顔を見あったりすることはありません。心のありようがすごく違うのではないかと感じ、だんだんチンパンジーではない別の動物を対象にしたいと思うようになりました。もっと動物らしい動物を対象にしようと。人間がなぜ心を共有できるのかということは、今でも行動生態学や進化心理学の大きなテーマであり、チンパンジー同士が何をどう思っているのかということも、まだ解明されていません」
――どうして人間の研究を始めなかったのですか。
「当時の私は進化・行動・生態という枠組みで人間という生き物にどうアプローチしていいのか分かりませんでした。複雑な人間の心からいったん離れて、まずはそういうことを考えなくていい動物をきちんと研究してみようと、ダマジカや野生ヒツジ、クジャクを対象にしました。ようやく45歳を過ぎた頃に、人間へのアプローチができるかもしれない、と自分で思えるようになりました」
(聞き手はライター 鴻知佳子、撮影 北山哲也)
1952年、東京都生まれ。76年東京大学理学部生物学科卒。タンザニア野生動物局勤務をはさみ、83年に東大院理学系研究科人類学専攻博士課程単位取得退学、86年に博士号(理学)を取得。英ケンブリッジ大でダマジカや野生ヒツジを研究後、米イェール大人類学部客員准教授、専修大法学部教授、早稲田大学政経学部教授などを経て、2006年に総合研究大学院大学教授に着任。17年より現職。著書に「モノ申す人類学」(青土社)、「進化とはなんだろうか」(岩波ジュニア新書)、訳書にダーウィン「人間の由来」(講談社学術文庫)など。
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