光秀築いた福知山城、石垣に墓石 寺院潰し急ぎ調達
とことん調査隊

京都
関西
2020/10/27 2:01
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秋の小旅行の行き先は京都府北部の福知山市。NHKの大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公、明智光秀が築いたという福知山城を訪ねると、天守台の石垣に不思議な形の石がいくつも交じっていた。中世の寺院にあった石塔、つまり墓石の一部だという。「なぜ石垣に墓石?」「目立ちすぎでは?」。頭の中に渦巻く疑問の意味を探った。

JR福知山駅から東へ1キロ余り。由良川と土師川の合流点の近くに、福知山城がそびえるように立つ。天守閣の上からは、ひらけた盆地の間を悠々と流れる由良川を一望でき、舟運と街道によって丹波地方の要衝として栄えてきた福知山の歴史を感じる。

天守を支える石垣をぐるりと回る。案内してくれたのは、福知山市文化財保護係の松本学博係長。「あの石には『天正三年』の紀年銘があります」と指で示した先には、穴のあいた四角い石。自然石も近くにあるが、彫刻などのある整った方形の石が目立つ。

これらの方形の石は、近隣の寺院の五輪塔、宝篋印(ほうきょういん)塔などの石塔を破壊し、石垣に利用した「転用石」だという。1986年の天守再建に先立ち同市が調査し、発掘によって確認できた石垣を含め約500個の転用石が発見された。

五輪塔、宝篋印塔は墓碑として用いられたもので、同市は調査の結果から「規模・内容ともに相当の墓所が築城時に破壊された」と推測する。

では、誰が何の目的で、墓石を石垣に転用したのか。

転用石に刻まれた紀年銘は天正3年(1575年)が最も新しく、光秀が福知山を制圧した後、城を築いた際の石垣とみて矛盾はないという。光秀は1579年、主君の織田信長に丹波平定を報告。福知山の地誌類にも光秀に関する伝承として、「城の普請の際に近隣寺院を潰し石塔を運ばせた」とする記述が残る。

石塔類を石垣に転用した理由には、(1)旧勢力の否定(2)築城を急ぐ必要性(3)石材としての便利さ(4)まじない――などの説があるという。

戦国史の専門家で、NHK「麒麟がくる」でも時代考証を担当する小和田哲男静岡大名誉教授によると、これらの説は複合的に絡み合う。「築城は大プロジェクト。近くに石切り場がなければ、石材のある寺で不足を補う必要があった」と指摘。一方、目立つ場所に置いた理由はそれだけでなく「石塔類に何か意味を持たせたのでは」と語る。

小和田氏が注目するのは、民俗学にある「けがれの逆転」という考え方だ。葬列で棺おけを担いだ人が草履を捨てると、参列者はそれを履くと足が丈夫になると信じて競って拾う、などの習俗がかつて各地にあったという。けがれがはらわれると、招福へと逆転するという考え方だ。

「奈良の大和郡山城の『さかさ地蔵』が最も有名だが、石塔をわざと逆さまに置いた城は多い。石不足を補う以外に、城が堅固になるよう願った側面もあるのではないか」と小和田氏。転用石は信長に仕えた織田系の武将が築いた城に多く、神仏を恐れぬ冷徹な合理性が強調されがちだが、「当時の武将もまじないは気にしたと思う」と語る。

福知山築城の約3年後、光秀は京都の本能寺で信長を討ち、その11日後に自らも落命。歴史の中で長く逆臣の汚名を負うことになったが、福知山市ではある意味、その名は守られているようだ。

城下では商工業が発展し、明治初めに城は破却されたが、昭和末に市民らの寄付で天守を再建。郷土史に詳しい写真店店主、吉田博さんは「光秀は町をつくった恩人」と語る。地子銭(地税)の免除、築堤による治水など善政も伝わり、市内の御霊神社は300年以上、光秀を神としてまつる。この名君の誉こそ、「堅固な城」の何よりの効用かもしれない。

(影井幹夫)

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