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道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像

時を刻む

西大寺に奉納される道鏡禅師坐像(奈良市)

女帝に取り立てられ、皇位さえうかがった奈良時代の僧侶、道鏡(?~772年)。長く悪名が根付いていたが、出身地・大阪府八尾市の有志団体により、木彫の坐像(ざぞう)が作られた。ゆかりの西大寺(奈良市)に奉納される。新たな像は歴史的評価塗り替えのきっかけになるか。

有志が像を奉納

くっきりとした目鼻立ちと、屈強そうな体つき。「道鏡禅師坐像」は像高84センチと等身大だ。威儀を示す如意(にょい)という棒を右手に持ち、正面を見据えている。

「道鏡を知る会」(幾島一恵代表)が発願した。きっかけは、2016~17年の発掘調査で明らかになった巨大な塔の基壇だ。天皇も訪れた由義寺(八尾市)のものとみられ、1辺20メートル。想定を超える規模に、道鏡の威信の一端を重ね、坐像造立に名誉回復の期待を込めた。

制作したのは籔内佐斗司・東京芸大大学院教授。籔内氏は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」も考案した彫刻家だ。

参考イメージにできそうな道鏡の肖像や絵巻物などを探したが「必要以上におとしめられた芝居の敵役のような悪相のものしかなかった」(佐伯俊源・西大寺教学部長)という。

悪名ばかり先行するが、道鏡に野心家らしい臭みはむしろ薄い。「強権的な専制を敷くといった悪人ならではの事績にも乏しければ、大経典を筆写奉納するといった、宗教指導者らしい目立った功績もない。どちらかといえば時代の奔流に踊らされたシンデレラボーイだった」。こうみるのは古代史が専門の瀧浪貞子・京都女子大名誉教授だ。

その理由ともいえるのが道鏡のスピード出世だ。退位していた孝謙上皇の病気を治した功績により、763年に「少僧都(しょうそうづ)」になる。翌年「大臣禅師」、翌々年に「太政大臣禅師」、その次の年には「法王」にまで上り詰める。大臣禅師以降はいずれも当時の制度にない僧位・僧階で、道鏡のために用意された。

境内に残る東塔の跡と本堂(奈良市)

この間、孝謙上皇は譲位先の淳仁天皇を廃して、出家したまま764年に再び即位する。重祚(ちょうそ)後は称徳天皇となり、西大寺創建に着手するなど仏教に重点を置いた政治を進める。理想政治の補佐役に登用されたのが道鏡だった。天皇に準ずる待遇が約束された。

栄華極め失脚

道鏡の前歴は、はっきりしない。葛城山で苦行を重ね、呪験力を身につけたという。その後仏門に入り、法相宗の高僧・義淵に学び、東大寺初代別当・良弁の使いをしたという記録もある。サンスクリット(梵語(ぼんご))を独学で修めるなど、努力家でもあったようだ。

ただ、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、高位高官の廷臣らの拝賀も受けるほどになると、道鏡を見る視線は日に日に厳しくなった。頂点に達したのが、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神託事件だった。

「道鏡を皇位につかせれば天下太平になるだろう」との託宣がもたらされた。この真偽をたしかめに、和気清麻呂が派遣されたが、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」という託宣だった。これを受けて道鏡はあえなく失脚。770年に称徳天皇が亡くなると、下野国(栃木県)に配流され、2年後に生涯を終える。

「皇位に臣下がつくことはない」「天皇が即位したら日を置かず皇太子を決める」という大原則は、この事件を起点に根を下ろしていく。「皇位継承を巡って1世紀近く相次いだ内紛や粛清に終止符が打たれ、次の時代を地ならしした。そこに道鏡の意義があるのでは」(瀧浪氏)

「道鏡像を奉納していただくのは、敵も味方も分け隔てなく処遇する仏教の理念『怨親(おんしん)平等』にもかなう。悪評を拭うきっかけになれば」(佐伯氏)。新坐像は孝謙上皇が発願した西大寺の聚宝館で25日から11月15日まで公開される。

(編集委員 岡松卓也)

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