「浪速のジョー」に憧れ ボクシング・京口紘人(中)
京口紘人の格闘家としてのルーツは空手にある。生まれ育った大阪府和泉市で道場師範代だった父の指導の下、兄と姉の背中を追いかけるように3歳で始めた。いま振り返ると、楽しい思い出ばかりではなかった。

「ずっとコンプレックスを感じながら生きていたように思う」。兄と姉が大会に出るたびに優勝するのに対し、体の小さかった京口はなかなか勝てなかった。「階級制で体重が一緒なら負けないのに、という思いは子供ながらにあった」。兄姉との比較、師範代の息子という立場が少年の肩身をさらに狭くさせた。
転機は突然訪れる。小学5年の時、「知り合いのおっちゃん」の家で見た1本のビデオが少年の心に火を付けた。1994年に行われた薬師寺保栄―辰吉丈一郎のバンタム級世界戦。視聴率39.4%を記録した「国民的一戦」で、京口少年は目を腫らしながら最後まで攻め続けた敗者・辰吉の姿に心奪われ、ボクシング転向を決意した。
父の許しを得て小6で入門したのは、辰吉を生んだ大阪帝拳ジム。週6日、自宅から片道1時間20分かけて通った。「毎日楽しかったですね。空手は蹴りもあるけれどボクシングは拳2つだけ。発見がたくさんあった」
憧れの人からも指導を受けた。中1からの約1年半、辰吉と一緒に練習する機会に恵まれた。センス抜群の奔放なスタイルでファンを魅了した雲上人は、意外にも基本にうるさかった。中でも京口が「直伝」と感じているのが、辰吉が主武器とした左ボディーだ。
「練習でボディー打ちだけの日とかあった」と懐かしむ。上体を左に倒し、下から肝臓をえぐるようにたたき込むボディー。そのフォームは、確かに「浪速のジョー」をほうふつとさせる。
空手では見つけられなかった可能性の扉がボクシングで開いた。大阪帝拳では高校卒業まで練習し、3年時には初の全国大会に出場。大商大では3年時に国体で日本一のタイトルを獲得した。2016年春、「勝負するなら東京」とワタナベジムからプロ入りした。
当時のワタナベジムは内山高志、河野公平、田口良一と3人の世界王者を抱える全盛期。「俺も早くあの人たちと同じところにいくんだと自然に思えた」。1階級上の田口とのスパーリングは特に必死だった。会長の渡辺均は「入ってきてすぐ互角に渡り合った。これは(選手を預かる)自分も責任重大だと思った」と語る。直後に内山と河野が立て続けに世界王座から陥落。ジムから次の王者候補として期待をかけられるまで時間はかからなかった。
プロデビューから1年間で実に7試合も行い、新人では異例の海外遠征(タイ)も経験した。駆け抜けるように、デビュー後わずか1年3カ月の国内最短で世界王座にたどりついた。くしくも辰吉と同じ8戦目での戴冠だった。=敬称略
(山口大介)
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