/

量産の知恵、堺の鉄砲鍛冶に原型

時を刻む

分業体制が鉄砲の大量生産を可能にした(堺火縄銃保存会が実演した鉄砲発射の手順、8月)

戦国時代から江戸時代まで鉄砲の代表的な生産地だった堺市。鉄砲鍛冶屋敷で見つかった膨大な史料の分析が進み、分業体制の輪郭が見えてきた。銃身をつくる鉄砲鍛冶が元請けとなり、下請けの職人に部品を発注。下請けに間借りもさせ、お金の前貸しまでしていた。生産工程を分担しつつも緊密に連携する体制は、今日に続く日本の製造業の原型を思わせる。

「家紋を手本通りに入れました」。下請けから元請けへの納品書ともいうべき「通(かよい)」。堺の鉄砲鍛冶だった井上関右衛門(せきえもん)家から2014年に出てきた史料は2万点余りで、うち274点が通だった。冒頭の通では装飾を担当する下請けの「象眼師」が嘉永3年(1850年)、顧客である大名の家紋を指示通りに入れたと井上家に報告している。

象眼師の通称「泉熊」が井上関右衛門にあてた通の表紙

職住一体で連携

火縄銃は1543年に種子島に伝来し、30年後には関西で大量生産されるようになった。それを可能にしたのが分業体制だ。堺では元請けの鉄砲鍛冶が大名などから注文を受ける。自らは基幹部品である鉄製の銃身を担当し、ほかの部品の生産を下請け職人に依頼、部品を組み立てて完成品にしていた。下請けには象眼師のほか、木製の銃床をつくる「台師」、真ちゅう製の引き金などを担う「金具師」などがあった。

南海本線の七道駅から徒歩10分。江戸時代に堺で鉄砲を生産した井上関右衛門家の屋敷は旧市内の北部にあり、下請けの職人たちも近隣に住んでいた。堺火縄銃保存会の柏木作副会長は「江戸幕府が武器管理のため1カ所にまとめた」とみる。生産拠点が散らばっていては危険というわけだ。

幕府の意図はともかく、職住一体で職人が集まっていたため、ものづくりの意思疎通は密だったと思われる。堺市文化財課主幹の中村晶子学芸員は「台師や金具師などの下請け職人には、井上家に家屋を借りていた人もいる」と話す。

資金を前貸し

さらに元請けは下請けに対してお金の前貸しもしていた。例えば、台師の大坂屋利兵衛は慶応4年(1868年)、井上家から78両余りの代金を受け取った。ただ、歳末に194両の貸し付けが残っていた。現在の貨幣価値に換算すると、2000万円近い借金となる。調査にあたった藪田貫関西大学名誉教授は「前貸しは下請けの保護であり、囲い込みの狙いもあったのだろう」とみている。

元請けが組み立てた銃は試し撃ちで品質をチェックされた。七道駅近くに「鉄砲鍛冶射的場跡」の石碑があり、ここで射程や精度を調べていたという。藪田氏は「砲術家が技術コンサルタントとして、改良などの助言をしていたのではないか」と話す。自動車業界でいえば完成車メーカーと系列の部品会社、それにテストドライバーのような関係だろうか。

井上家の史料は2014年、当主の井上修一氏、弟の俊二氏が立ち会って調査が始まった。15年度から4年間は堺市と関西大学が共同で研究・調査した。慶応2年(1866年)に469丁を納品し、3029両の売り上げがあったことも分かった。「平和な江戸時代に鉄砲生産は衰退」という通説は、井上家には当てはまらなかった。

膨大な史料が残っていたことについて井上俊二氏は「先祖が『後世に伝えてほしい』と考えていたから」と受け止めている。史料の分析はまだ途上のため、今後、日本流モノづくりの原型がより鮮明になる可能性もある。

(塩田宏之)

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

関連トピック

トピックをフォローすると、新着情報のチェックやまとめ読みがしやすくなります。

セレクション

トレンドウオッチ

新着

注目

ビジネス

暮らし

新着

注目

ビジネス

暮らし

新着

注目

ビジネス

暮らし

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン