孫氏を覚醒させた英アーム、売却で「群戦略」に暗雲

ソフトバンクグループは14日、傘下の英半導体設計大手アームを米半導体大手のエヌビディアに最大400億ドル(約4兆2000億円)で売却すると発表した。エヌビディアは自社の普通株式を買収の対価の一部として活用し、ソフトバンクGはエヌビディア株の約6.7%~8.1%を保有する見込みだ。
孫正義会長兼社長は、2017年にソフトバンク・ビジョン・ファンドを設立し、世界中のテクノロジー企業に次々と出資し、世界を驚かせてきた。だが、新型コロナウイルスの感染拡大で需要が急減し、ファンドの利益は大きく減少。孫会長は米通信大手TモバイルUSやアリババの一部株式など持ち株を矢継ぎ早に売却し、財務改善で守備を固めてきた。
だが、アームは孫会長が考案した戦略の中枢を担っており、その売却は他の株式の売却とは意味が大きく異なる。孫会長は中核戦略として無数の有力企業に出資し、それが自律的に結合する「群戦略」を掲げており、その原点にはアーム買収があった。
ソフトバンクグループにとって、英アームの売却は大きな転換点になる。それは、孫正義会長兼社長の事業家人生を振り返ると見えてくる。
実は、孫会長は16年におよそ3兆3000億円で半導体設計の英アームを買収する前に、事業家人生でも珍しい意欲減退の時期にあった。孫会長は60代で事業を後継者に引き継ぐという人生設計を立てており、57歳だった15年に米グーグル元幹部のニケシュ・アローラ氏を後継者に指名し、社長を退く意向を示していた。
今からちょうど1年前の日経ビジネスのインタビューで孫会長は、こう打ち明けた。「正直に言うと、事業が軌道に乗ってきて自分の後継問題などを考え始めたときに、事業に対する燃えるような面白み、戦っているという血湧き肉躍る気持ちが薄れてしまった」
孫会長は常に野心的で、失敗するときも前のめりに倒れるようなところがある。投資の規模や数が過剰だったなど、その失敗談はいずれもオーバーランや勇み足という表現が似合う。筆者は何度もインタビューをしてきたが、「意欲の衰え」という趣旨の発言を聞いたのは初めてで、驚いた記憶がある。
実際、アローラ氏が後継候補になり経営会議を仕切っている際に、孫会長の求心力が低下し、社内関係者は寂しそうな孫会長の姿を見ている。
それが、劇的に変わり、再び事業家としてのスイッチが入ったのが16年だった。6月末に突然、社長続投を宣言し、アローラ氏は会社を去った。孫社長は地中海に浮かぶヨット上で休暇を取っていたアームのスチュアート・チェンバース会長を追いかけ、7月4日に強引にトルコ南部の港町マルマリスに寄港してもらって説得し、買収をまとめた。
「あの港町のレストランから見た風景は忘れられない」と日経ビジネスのインタビューの際には、スマートフォンで撮った港町の写真も見せてくれた。英ロンドンの記者会見では「人生で最もエキサイティング」と話し、この10年間では珍しく多くのメディアのインタビューを受けた。
「『群戦略』を発明したと人々に覚えてもらいたい」
このアーム買収の前に、孫会長は「群戦略」という概念を打ち出し始めた。ソフトバンクグループの資料では群戦略をこのように説明している。「特定の分野において優れたテクノロジーやビジネスモデルを持つ多様な企業群が、それぞれ自律的に意思決定を行いつつも、資本関係と同志的結合を通じてシナジーを創出しながら、共に進化・成長を続けていくことを志向するもの」
そして、アーム買収後に孫会長は対外的に「AI(人工知能)群戦略」という概念を積極的に公言するようになった。18年の株主総会では「『群戦略』を発明したと人々に覚えてもらいたい」と発言。青年期より発明に重きを置く孫会長にとって、「群戦略」という概念の創造は、とりわけ重要な意味合いがあった。

ソフトバンクの孫正義会長兼社長は決算説明会などで度々、群戦略について語った
アーム売却は、その群戦略を根底から揺るがしかねない。群戦略には単にAI関連の有望企業に出資するだけでなく、20~30%を出資して筆頭株主になり、出資先企業同士のシナジーを促す狙いがある。例えば、ソフトバンクグループは米ウーバーテクノロジーズに15%超を出資し、アリババへの出資比率は多いときで3割を超え、今も25%程度を保有すると見られる。
アームはソフトバンクグループの子会社であり、まさに群戦略の中核となる企業だった。「20年という単位で見れば、アームの(ライセンス供与を受け製造された)1兆個のチップが地球上にばらまかれ、森羅万象をより広く深く把握できるようになる」とも話していた。
ソフトバンクグループは取引完了後に、エヌビディア株の保有比率が6.7%~8.1%になる。エヌビディアはアームを買収し、AI向け半導体で覇権を握る構想を持つ。しかし、ソフトバンクグループの群戦略という観点から見ると、エヌビディアについては出資比率が低いため経営への関与は限定的になるだろう。
アーム創業者「エヌビディアへの売却は最悪」
また、アームの売却は難航する恐れがある。アーム創業者や英政府などから、この売却に反対する声が上がっている。
ビジネスモデルの危機を訴えるのがアーム共同創業者ハーマン・ハウザー氏だ。ロイター通信の取材に対し、「(アームの本社がある)ケンブリッジにとって、英国にとって、欧州にとって最悪の事態だ」と語った。
ハウザー氏は半導体メーカーに設計図を提供し、ライセンス収入を得るというビジネスモデルを構築した人物である。かねて、エヌビディアはアームの取引先と競合関係にあり、買収されるとアームのビジネスモデルが崩壊する危険性を訴えてきた。
さらに、英国は技術と雇用が流出するとの懸念を持つ。英首相官邸の報道官は、「アームは英経済に大きく貢献している。ケンブリッジの本社機能への影響など、詳細を引き続き注視する」と述べた。英議員もアーム売却への関心は高く、ダニエル・ザイクナー議員は、「ユニークなビジネスモデルを持続させるために何らかの保証が必要だ」とツイッターで発言した。
コロナ禍で崩れた長期保有の前提
仮にアームを売却できなかったとしても、その動きは群戦略に影響を与える。群戦略の特徴は資本関係だけでなく、経営者同士の信頼関係に基づく「同志的結合」にあるからだ。
信頼関係を築くためには、ある程度の長い期間の株式保有が必要であり、コロナ前まではソフトバンクグループの平均の株式保有期間は10年以上と長かった。それが起業家サイドから見た孫会長への信頼になり、起業家同士の連携にもつながっていた。
しかし、コロナ禍により財務改善が急務となり、相次ぎ株式を売却し、アームなどの株式保有期間が短くなっている。最近は、米アマゾン・ドット・コムや米テスラなど上場株への投資も実施しており、利益を得たという報道があった。投資家としては優秀な実績を納めたということになるが、群戦略の指揮者としては疑問符が付く。短期での売買を繰り返していると起業家はそのような前提で孫会長を見るようになり、同志的結合の結束力が弱くなる可能性がある。
アームの売却が成立すればソフトバンクグループは計算上、1兆円近い利益を得るが、孫会長は自身が純粋な投資家と見られることを嫌っている。昨年の日経ビジネスのインタビューで、孫会長は「本当は単にお金を追い求める投資会社とは違い、『情報革命屋さん』が本業だ」と語った。だが、現状では投資会社としての側面が強まっている。
今回のコロナ禍で孫会長は、財務改善を急ぎ守りを固めている。運用規模が約10兆円のソフトバンク・ビジョン・ファンドの第1号は累計投資収益が大きく目減りしたままで、第2号には資金が思うように集まっていない。退却の重要性を説いてきた孫会長は今回、多くの保有株を売却している。今後は集めた軍資金を使い、何を目指すのか。群戦略を再定義するのか、全く新しい道を進むのか。
孫会長はアーム買収直後の日経ビジネスのインタビューでこう語っている。「僕は、ソフトバンクグループを人類の将来に最も貢献する会社にしたい。そのカギはアームであると。未来のありとあらゆる分野に貢献できるんじゃないかと思っている」。孫会長がどのように人類の将来に貢献するのか。その道筋がアーム売却で見えづらくなった。
(日経BPロンドン支局長 大西孝弘)
[日経ビジネス電子版2020年9月17日の記事を再構成]

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