今日も走ろう(鏑木毅)

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弱音は強さ引き出す呪文 頑張るから苦しいと言える

2020/9/17 3:00
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虚勢を張らずに臨むようになった記者会見での筆者(中国・北京100キロレースで)

虚勢を張らずに臨むようになった記者会見での筆者(中国・北京100キロレースで)

水泳の瀬戸大也選手が東京五輪の延期に関して、「練習に身が入らない」と苦しい胸の内を語るのを聞いた。金メダルの有力候補とされ、上り調子の選手だっただけにこの1年延期に対する不安の率直な吐露には深く考えさせられた。

コロナ禍でも多くのアスリートが前向きな発言をしている。はたして彼、彼女らの発言は額面通りに受けとってよいものだろうか、と疑問を抱いてきた。スポーツ選手は社会的な立場から前向きであることを暗に強いられている。とりわけ協賛してもらう立場にあると、そう言わなければ許されない空気に支配されているように思う。

私もかつてそうだった。どんなに自信がなく、苦しい状況にあってもメディア向けに発信する言葉は常にポジティブなものになるよう心がけていた。しかし世界最高峰レース、UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)の2011年大会、メディアカンファレンスの席上、私は「精いっぱい頑張るが、以前のような走りは難しいと思う。正直言って自信はない」と答えた。有力選手の大半が「体調が良くレースが楽しみだ」とコメントするなかで、会場はざわついた。「なぜこの場にいるんだ」と言わんばかりの冷たい視線を投げかける人もいた。

これには理由があった。実際に大きなけがで完走すら危うい状態だった。ただ、そんなことより正直に苦しい胸の内をさらすことで自分を見失うことなく、冷静にレースにのぞめそうだと気付いていたのだ。日本を出発する前、「前々回3位、今回は世界一を!」と応援してくれる声に複雑な思いを抱いていた私の様子を見ていた、あるランナーから思わぬ言葉をかけられた。「どんな結果でもいい、肩の力を抜いて楽しんでください」。期待してませんよ、という温かい激励に心を射抜かれて初めて、本心を偽らずに発言していく方が何事も平常心でのぞめるじゃないか、とひらめいたのだった。

このことがあって以来、苦しいのに虚勢を張るのは自分には不向きだと悟り、SNSやインタビューなどでも正直な気持ちを話し、時にはネガティブなコメントを発することもある。「あなたからは勇気をもらいたいのに、後ろ向きの発信に失望した」。厳しい感想をいただくこともしばしばで悩ましいけれど、これも己のスタイルと割り切っている。

人間の気持ちは常にうつろっている。たとえ落ち込んでいても、いつか必ず上向いてくる。実は落ち込んでいる時間は、次に上がるための気持ちの準備でもあり、エネルギーをため込んでいる時間ともいえる。コロナ禍で悩むアスリートたち、時には周囲を気にせず、自分の心に正直になってもよいのでは。苦しければ「苦しい」と、自分の心にまっすぐ向き合った素直な言葉は、自分たちと変わらないアスリートの人間らしさで共感を呼び、社会を動かす力になりうる。同時にアスリートが自分を取り戻し、苦境を乗り越えていく原動力となることだろう。

瀬戸選手の内心の吐露の裏に、リスタートへの力強い意志を感じるのは私だけではないはず。弱音は強さを引き出す魔法の呪文と思えばいい。十分に頑張っているあなただからこそ「苦しい」と言えるのですよ。

(プロトレイルランナー)

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