政調会長、連立の要「登竜門意識」は今も
自民党政調会長の役割は時代とともに変遷してきた。当初は実力者をめざす試金石となるポストで、やがて各部会を束ねて政策を立案する中心となった。1990年代以降は連立政権での政策調整の要となった。官邸主導が定着した最近ではひところほどの存在感はないものの、なお総裁候補の登竜門とする意識が残る。


岸田文雄氏は4年7カ月、外相を務めた後に政調会長へ転じた。党三役入りを安倍晋三前首相に強く希望した人事だった。「『ポスト安倍』を射止めるには外相だけでなく党三役を経験した方がよい」が岸田派の総意でもあった。岸田氏とは当選同期である安倍氏がその希望をかなえた。
政務調査会は厚生労働、経済産業、国防など各府省に対応した14の部会を抱える。このほか税制調査会などの調査会、IT戦略といった分野ごとの特別委員会もある。各部会や調査会で政府提出法案や予算案を事前審査し、総務会に諮る前の第一関門になる。
かつて政調会長は三役を初めて経験するポストに位置付けられていた。官僚が1年単位で役職が変わっていくのに対し、専門分野に精通する議員が増えて政策立案での発言力が高まり、族議員と呼ばれる一群が生まれるほどの隆盛を誇った。自民党が下野し、政権に復帰した94年は社会党委員長の村山富市氏を首相とし、自民、社会、新党さきがけ3党の連立政権で、政策調整を担う政調会長が連立の要となった。
自民党と公明党の連立政権は20年を迎えた。連立政権の政策調整は、党内よりも他党との調整が重要となる。菅義偉首相は政調会長に下村博文選挙対策委員長を充てた。