ロシア兵捕虜、厚遇の跡 日露戦争時の大阪に収容所
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大阪
関西
2020/9/3 2:04
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日露戦争(1904~05年)の際、満州(中国東北部)などの戦闘で捕虜になった約7万2千人ものロシア兵が日本に送られた。全国29カ所に捕虜収容所が設けられた中、最大だったのが、約2万8千人が収容された大阪・浜寺公園近くの施設だ。開設期間は1年程度だったが、亡くなった兵士の墓は大切に管理され、埋葬当時の区画がそのまま維持された貴重な墓所であることが最近の調査で確認された。

■墓地100年超守る

収容所は浜寺公園の少し南、高石市と泉大津市の沿岸部に設けられた。甲子園球場の6倍を超える26万平方メートルの土地を柵や板塀で5区域に分け、捕虜宿舎100棟や病舎、病院、パン工場、ロシア正教やカトリックの教会が建てられた。

当時の日本は捕虜の処遇などを国際的に取り決めたハーグ条約を批准して間もない時期。国際的な地位を高めるため、捕虜の扱いにはかなり配慮したことがうかがえる。労働を課すわけではなく、運動は自由にできた。娯楽室を設け、階級の高い人には所外への散歩も認めていたという。

「木に登り、セミを捕って子どもと遊んでいた」「定期的に実家の風呂に入りに来た」「捕虜たちが帰国したら子どもが寂しがった」との地元の人の証言が残っている。焼酎をウオッカと称して売りにいった人もいた。砂地に建てられた板塀の下を掘って瓶を渡し、銀貨をもらったという。

浜寺に来た捕虜の多くは激戦で有名な203高地のあった旅順の戦闘で投降したロシア兵だった。傷病兵が多く、収容所があった06年2月までの約1年の間に89人が亡くなった。遺体は収容所の南、現在の泉大津市春日墓地の一角に埋葬され、その後花こう岩の墓碑が建てられた。地元が土地を提供したという。

夏の暑い日に訪ねると、墓には1輪ずつ花が手向けられていた。ロシア語とカタカナ表記の名前、亡くなった日を記したプレートが各墓の前にあった。地元の有志が会を作り、清掃や供養を続けてきたという。高齢化で活動が難しくなったため、市が最近、実質的な管理をするようになった。

同市教育委員会文化財係長の奥野美和さんが近年墓地の変遷を調査したところ、大半の墓が埋葬当時のままの場所に存続してきたことが確認できた。日露戦争の捕虜収容所では松山市が知られているが、同所のロシア兵墓地は後年、別の場所に移されている。他地域の墓も改葬されたり、消失したりしており、当時の姿をとどめている墓地は泉大津だけとみられる。

奥野さんは「泉大津の墓地の貴重さが分かった。地元の方々が長年きちんと管理し、大切に守ってきたため、日本人墓地の中のロシア兵墓地という独特の景観が生まれている」と話す。

■往時伝える資料集

日露戦争は米国の仲介で講和条約(ポーツマス条約)が締結され、ロシア兵は次々に帰国した。建物は取り壊され、公共施設や学校の建物などに転用された。住宅などが立ち並ぶ収容所の跡地に、今、当時をうかがい知るものはない。

泉大津市のロシア兵の墓はソ連時代に同国からも忘れ去られていたが、1965年に同市がソ連大使館に墓の存在を連絡して以降、認知され、節目の年に慰霊祭などが開かれてきた。

浜寺捕虜収容所を巡っては、21世紀以降、様々な動きがあった。浜寺公園内には2002年、ロシア兵捕虜をイメージした日露友好の像と碑が建立された。06年には、収容所の所長を務めていた陸軍少将、隈部潜(ひそむ)氏の子孫から、当時の収容所の様子を写した写真帖(ちょう)などが高石市に寄贈され、それらを基に収容所の資料集が作られた。

1905年9月5日のポーツマス条約締結から間もなく115年になる。浜寺捕虜収容所について探ると、一等国入りを目指していた当時の日本の様々な顔、第2次世界大戦とはかなり様相の違う戦争の姿が見えてくる。

(編集委員 堀田昇吾)

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