戦禍生き延びた「ガスビル」 大阪にモダニズム体現
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関西タイムライン
2020/8/27 2:01
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ガスビルの全景。南側半分は1933年当時からの建物。南東角は曲面を描く(大阪市中央区)

ガスビルの全景。南側半分は1933年当時からの建物。南東角は曲面を描く(大阪市中央区)

約4000人が亡くなり、約13万6000戸が焼失した第1次大阪大空襲。1945年3月13日深夜から14日未明にかけ、米軍のB29爆撃機274機が1700トン超の焼夷(しょうい)弾を市街地に投下するなか、都心部の大阪・淀屋橋にあって戦禍を免れたのが「大阪ガスビルディング(通称ガスビル)」だ。265万枚もの白いタイルを隙間なく手張りした白亜の大阪ガス本社ビルは目立ったはずだが7階と8階の一部被災で済んだ。

■壁黒塗りで米欺く

天然ガス転換前の都市ガスは石炭を蒸し焼きにして製造していた。その副産物であるコールタールを外壁に塗り、黒い迷彩塗装で周囲の瓦屋根と一体化、B29を欺いた。戦後は迷彩を除去したがタイル目地の一部に今も黒い筋が残る。

防災シャッターを半分下ろした状態(上)、完全に開けた状態(中)、完全に閉めた状態(下)

防災シャッターを半分下ろした状態(上)、完全に開けた状態(中)、完全に閉めた状態(下)

設計者の安井武雄氏は全ガラス窓外側に頑丈な鉄製の防災シャッターを取り付けていた。自主防衛組織のガスビル防衛隊の西山磐隊長(後に社長、会長)が井口竹次郎専務(同)と相談してシャッターを全て下ろさせた当日夜が大空襲だったことも幸いした。西山氏は「安井氏の卓見に頭が下がる」と後に述懐した。

大ガスの旧本社は大阪・中之島にあったが手狭になり、片岡直方会長が移転を決断。33年3月17日に新築のガスビルが完成した。できあがったのは南館だけ。北館を増築して現在と同じ体裁が整うのは66年8月以降だ。南館の入り口は御堂筋側の東ではなく、平野町通に面する南に設けた。まだ御堂筋が大阪のメインストリートになる前で、大阪城に向けてまっすぐに延び、祭りで屋台も出る平野町通の方がずっとにぎわっていたからだ。

御堂筋と平野町通が交わるビル南東のコーナーは角張らず、柔らかいカーブを描き、1階は大きなガラス窓。長らく保守点検を続けてきたガスビルの生き字引、大阪ガスファシリティーズの坂元智氏は「分厚いガラスを現場で熱して曲げ、ステンレスの窓枠に合わせてはめ込んでいる」と話す。1階のエレベーターホールはイタリアから輸入した穴あき大理石、現在は入手できない群馬県産の貴蛇紋石などで装飾した。

■演奏会や欧風料理

米国製の冷暖房装置を完備する地上8階地下2階のビルで大ガスが事務所に充てたのは3、4階だけ。5、6階にテナント19社が入り、1、2階と地下1階はガス器具の展示・実演スペースで、他の階に料理講習室や理・美容室、喫茶店、などがあった。600人収容のホールでは朝比奈隆氏が指揮するコンサートや淀川長治氏による映画試写会を開催し、人気漫才コンビのエンタツ・アチャコが舞台に立った。

「天皇の料理番」からレシピを伝授された「セルリ・オー・ジュ」(上)と、片岡直方会長が愛したセロリ

「天皇の料理番」からレシピを伝授された「セルリ・オー・ジュ」(上)と、片岡直方会長が愛したセロリ

8階のガスビル食堂はフランス料理に英国、イタリア、北欧料理などの要素を加えた「欧風料理」を出した。片岡氏は欧風に「セルリ(セロリ)は欠かせない」と言い、米カリフォルニアから種子を取り寄せ、自前の農園で栽培した。「天皇の料理番」で知られる秋山徳蔵氏はその出来栄えに感激し、「セロリをフォンドボー(子牛肉のだし汁)で煮込む『セルリ・オー・ジュ』のレシピを伝授した」とガスビル食堂の波々伯部(ほほかべ)泰典マネジャーは明かす。

もともと都市ガスはガス灯の燃料として日本に入ってきたが、電灯に駆逐された。そこで都市ガスはマッチ1本で点火でき、火力調整も容易な調理用熱源へと用途転換した。ただ、関西人が「へっついさん」と呼ぶかまどは神聖な存在。薪炭とかまどをガスに置き換える作業への心理的抵抗は大きかった。

「大阪瓦斯五十年史」は当初のガスビルを「文化センター、あるいはモダニズムの殿堂」と記す。音楽会や演芸、料理講習会などで集めた来館者を、優雅な外観と壮麗なエレベーターホールで迎え、珍しい欧風料理を提供し、都市ガスとガス器具への信頼を得る狙いがあった。ガスビルは単なる本社ではなく、実は「見せるためのビル」だったのである。

(編集委員 竹田忍)

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