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市井の調査25年、兵庫・加西の旧海軍飛行場跡 保存へ

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コンクリートの滑走路が残る鶉野飛行場跡(兵庫県加西市)

太平洋戦争で旧海軍が使用したコンクリートの滑走路が兵庫県加西市に現存している。鶉野(うずらの)飛行場跡だ。かつては地元でも忘れられた存在だったが、25年以上にわたって市井の研究者が地道に取り組んだ調査と慰霊が礎となり、戦争遺跡として保存に結びついた。

付近に防空壕も

広がる田畑を切り裂くように長さ約1200メートルの滑走路が延びる。傷んだ路面は所々草むしているが、今なお頑強そうだ。周辺にはコンクリートや素掘りの防空壕(ごう)、対空機銃座や駐機場など多くの遺構が姿をとどめ、全国でも珍しい戦争遺跡群を形成している。

鶉野に飛行場が建設されたのは戦争さなかの1943年。飛行士を養成する姫路海軍航空隊の基地となった。隣には川西航空機(現新明和工業)が工場を建てて戦闘機「紫電」「紫電改」を製造し、500機余りがここから飛び立った。戦局が行き詰まると鶉野でも特攻隊「白鷺(はくろ)隊」が編成され、63人の若者が戦死したという。飛行場は幾度も空襲を受け、民間人にも犠牲が出た。

戦後、一帯は民有地や神戸大学の農場となり、滑走路跡は陸上自衛隊の訓練地となって、地元の記憶は次第に薄れていった。2010年、加西市教育委員会と神戸大が合同で行った初の学術調査に参加した同大の佐々木和子研究員は「いずれ開発されて消える。せめて記録保存しておこうとの方針だった」と説明する。

風向きが様変わりしたのはそれから間もなく。14年以降、加西市は遺跡として保存整備する計画を策定し、市民らを集めて活用法を話し合うワークショップを開いた。国から払い下げを受け、19年には管理と整備を担当する専門部署を設置。散策路を設けるなどフィールドミュージアムの体裁が整ってきた。

精巧に造られた「紫電改」の実物大模型。毎月第1、第3日曜日に公開している。

市は紫電改の実物大模型を製作。滑走路の一角に建てた防災用の倉庫に収納して昨年6月から毎月2回公開したところ、これまでに2万人以上が訪れた。発電機が置かれた巨大防空壕は特攻隊員の遺書を映像で紹介するシアターとなった。今年6月に開館し、秋まで予約が満杯という。「まさかこんなふうになるとは」。佐々木さんは感慨深げだ。

発電機が設置されていた巨大防空壕はシアターとなり毎月第1、第3日曜日に公開されている。要予約。

遺跡の意義について佐々木さんは「当時の人々と、行政や我々研究者との間をつないだ方の存在が大きかった」と指摘する。鶉野の戦史を調べ続けてきた上谷昭夫さん(81)のことだ。

地道に史料収集

上谷さんが調査を本格化したのは1990年代初め。勤めていた会社が滑走路跡の脇にあり、旧海軍の関係者らがしばしば訪ねてきては「格納庫はどこだったか」などと案内を求めたのがきっかけだった。

「地元に全く史料がなく本当に苦労した」と上谷さんは語る。防衛庁(現防衛省)に史料を探すため、仕事を休んでは夜行バスで幾度も上京した。当時の関係者を探し、訪ねては証言や写真をこつこつと集めた。不時着した紫電改が列車を脱線させ、多くが死傷したのに軍の機密として処理された事故の証言も、関係者から掘り起こした。「みな高齢で、今調べないと途切れてしまうと考えた」

広く協力を呼びかけて有志と共に、元隊員や遺族らの要望に応えて平和祈念の碑を建立。資料館を開き、ツアーガイドを務めた。市民による取り組みが、遺跡をまちづくりに生かす今につながった。「職場が近いだけの縁だった自分が調査を続けたのは、亡くなった人たちが背中を押した気がする」と上谷さんは話す。

今後は国文化財への登録を目指すほか、紫電改の実物大模型や上谷さんが集めた様々な歴史資料などを紹介する複合施設も22年度にオープンする予定だ。75年の時を経て戦禍の爪痕が歴史遺産となり、にぎわう様子に、上谷さんは「こんな人たちがいた、こんなことがあったと忘れてはならない」と言葉に力を込め、佐々木さんは「学びの場としてどう機能させるかが肝要だ」と訴える。

(編集委員 竹内義治)

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